水没
ほんの少し前までは、当たり前のように生活した部屋。
最後に使った食器は流しに置いていて、服や下着はランドリーボックスに放り投げられたまま。
物は床に落ちているというより、机の上に散らばっている。
遮音と遮光に優れたカーテンは隙間なく閉めていたから、日は落ちていないがまるで夜なのではないかと錯覚してしまうほど、薄暗かった。
約一週間ぶりの帰宅だが、冷房も聞いていない蒸し暑い部屋の中を歩き進める私の正気は失いつつある。
「うわぁ…これがのひちゃんの部屋かぁ…!」
ここへ私を連れてきた男が、興味津々に1LDKの部屋を駆け回り、次々と私物に触れていく様子を、目の当たりにしているからだ。
男の嬉々とした姿を見ていられず、顔を逸らして部屋の隅に立っていた。
「のひちゃんって意外と慎ましい生活してるんだね…」
ブツブツと念仏を唱えるように、見たもの触れたものの感想を垂れ流している。
気持ち悪い。
「あ…本名は三浦海美って書くのか…。すごい、縁のある名前なんだね。海月のひめは」
何かの書類を手にしている男は、感嘆していた。
個人情報が載っていたのだろう。
それでも無謀な抵抗をする気は起きなかった。
男に個人情報を悪用されるリスクよりも、今はただ、堪え忍ぶことで、私の余命を一秒でも長くできればいい。
服の中に隠し持っているスマホで、うじくんに位置情報を送る機会を窺っていた。
「海美ちゃんって意外と派手な下着を…。僕はもう少し清楚な方が好みだなー。また今度持ってくるよ。白か青が似合いそうだね」
先程まで『のひちゃん』とネット上の愛称で呼んでいた男だったが、本名を手に入れてから我が物顔で『海美ちゃん』と口にしている。
ゾワリと毛穴の奥から鳥肌が立つほどの嫌悪感に苛まれた。
…気持ち悪い。
「配信部屋と寝室は、ここか…。まあ、部屋自体が狭いから仕方ないけど、二人で寝るならシングルベッドはかなり狭くなっちゃうね?僕の部屋に海美ちゃんが来てくれた方が生活しやすいかもしれない」
本当に気持ち悪い。
私のいるリビングと寝室の繋がっている廊下から、作為的に不快な下心を聞かせてくる男に、吐き気が止まらない。
しかし、男は今同じ部屋にいない。
寝室をじっくり鑑賞しているのか、だんだんと壁の厚さで男の声が籠っていく。
今ならーーー。
服からスマホを取り出し、顔認証のロックを解除し、エニコードからうじくんへ位置情報を飛ばすために、両手の指を動かす。
焦りなのか恐怖なのか、汗でベタベタした画面を指で滑らせるが、何度も同じ操作を繰り返し、咄嗟に次の動作を忘れて迷ってしまう。
その間にも汗が絶え間なく吹き出る。
早く、早く、あの男が戻る前に。
画面と開けたままの扉を交互に凝視し、青息吐息で位置情報の送信ボタンをタップした。
送信完了の文字を確認して、ようやく全身の力が抜ける。
「連絡できた?」
足りない息を吸い込もうとした刹那、すぐ近くで男がそう言った。
バッと声がした方向に顔を向けると、いつの間にかこちらに近寄っていたようで、笑顔を貼り付けたまま私を見ていた。
無駄だとは理解していても、慌てて両手で握り締めていたスマホを服の中に隠す。
「…あと何分でくるかなぁ」
えらく平静を保ったまま、じりじりと距離を詰めてくる。
うじくんは高島さんの家にいて、この家からもそう遠くない。私の連絡にさえすぐ気づいてくれれば、二十分足らずで辿り着けるはずだ。
希望の光をこの鳥籠へ射し込めたのだから、あとは外からこじ開けられるのを待つだけ。
今からの抵抗は無策なものではない。
「待ってる間…そうだ、やってほしいことがあるんだった!」
何か思い出したように、硬直する私の腕を強い力で掴み、無理やり引っ張られる。
「まっ…待って…何っ?」
男の手が触れた場所から、禍々しい泥のような靄に侵食されていく。
幻覚とはっきり認識できているが、痺れるほど痛むまで私の腕に食い込んでいる男の指に手を掛けるが、剥がすことは不可能で、ずるずると寝室まで引き摺られた。
私に性的暴行を加える気だ。
ーーーどうしよう、嫌だ、何とかしないと、でも私に何ができる、嫌だ、この手を振りほどいて逃げなきゃ、でも力が、嫌だ、嫌だっ…!!
急な頭痛に見舞われ、目の奥がじんじんと熱くなり、勝手に瞳から涙が滴り落ちる。
「座って、海美ちゃん」
だが、男の手が指したのはパソコンデスクの前だった。
両肩を上から押し付けられ、座らせられる。
「………な…に…?」
「どうしたの!?そんなに泣かないで、海美ちゃん。僕は海美ちゃんと、のひちゃんが好きなんだ。だからほら…」
パソコンの電源を入れ、モニターの画面に明かりがつく。
パスワードの入力を要求され、一度拒んだが、有無を言わせない不敵な笑みで刺すような視線を浴びせられ、涙を頬に流し嗚咽しながらもキーボードを打った。
それからは男がマウスとキーボードを操作し、画面に現れたのは私の、海月のひめのアバターだった。
設置型のカメラで現実の私の動きを感知し、連動して画面の向こうの海月のひめも動いている。
「ハァ…ッ、もう、可愛い…ヤバいよ……夢みたいだ………」
突如息を荒らげる男に生理的拒否反応が強くなっていく。
うじくん、うじくん…っ、早く来て…!
私が愛を注いだ海月のひめのアバターがこんな風に動かされることに耐えられず、両腕で顔を抱えるように覆う。
すると、スースーという大きな呼吸音と生温い温度が耳に触れ、声にならない悲鳴を出しながら立ち上がろうとした私を制止するように肩を押さえつけてきた。
強引に男と向き合う形になる。
どす黒い何かを感じるぐにゃりとした目元と、性欲に塗れた口元に、視界は水の中へ入っていく。
「あいつに、僕らが仲良く遊んでるところを見せてやりたい」
私からモニターの画面の中にいる海月のひめへ視線を流す。
それが私に示唆させていた。
男の手の甲が、私の髪を撫でるように滑らせる。
そのまま長い指は汗と涙で張りついていた頬の髪をといたあと、男はベルトの金具を触り始める。
「もう我慢できないよ…のひちゃん…アァ…、もう…もう濡れちゃったよぉ…」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ…!!!
「…イヤッ…!!」
全身から声を振り絞り、本能が「今すぐここから逃げ出せ」と強く警報を発令させた。
徐に立ち上がっては狼狽える男の体に椅子を倒して、玄関まで走り出す。
玄関の扉を開けようとしたが、鍵とチェーンロックがどちらも掛けられており、急いでそれを外していると、物凄い勢いで髪の毛ごと体が後ろに放り投げられていた。
コンマ単位の出来事で、床に打ちつけた後頭部やお尻の痛みより先に、自分の見えている風景が天井に切り替わっていることに憮然としていた。
「おいこのクソビッチ!お前ごとぎが調子に乗ってんじゃねえよ!」
バチンッ!という重い音とともに右側にぐわんと脳みそが揺れたあと、頬に熱が広がる。
揺れる人影が私の上に跨った。
「お前のような!低脳な女がっ!男から金を巻き上げることしか能のない尻軽がっ!僕をっ…僕を拒否する権利なんかないだろ!?なぁ…!?」
呆然とする私の胸ぐらを掴み、前後に激しく揺らしながら罵詈雑言を浴びせる。
どんな汚れた言葉も耳に入らず、この男から逃げられなかった現実に『絶望』という感情が刻まれた。




