解答
鼻につく香りの強い芳香剤と、急な横揺れに気分が悪くなる。
運転席にいる男は、個人勢VTuberとして飛躍した海月のひめが歌っている音源を延々と流し、機嫌良くハンドルを切っていた。
荒木という男に、私は拉致監禁されている。
知らない道がただ横切っていくのを、窓から眺める。
「のひちゃんが僕の車に乗っているなんて…夢みたいだよ」
「………」
「幸せだよ。ありがとう」
無意識か故意か、癪に障る言い方にぐっと唇を噤んだ。
従順な犬に成り下がる気など毛頭ないが、今ある命を必死に守りきることだけが最優先である。
余計なことは口にしない、それが英断だろう。
「お喋りしようよ。運転するだけなんて、眠くてうっかり事故を起こしてしまうかもしれない」
そんな浅はかな考えを見透かしてか、隣の男はやはり奇妙な笑顔を浮かべて、自分が優位な立場になれるよう、こちらを操ってくる。
きっと相手は、把握している以上の情報が欲しいのだと勘づく。
この不公平な状況で、腹の探り合いが始める気だ。
「海豚が…貴方?」
「そうだよ」
「のひちゃんのために頑張って働いたお金を渡すのは、本当に気持ちいいんだ。貢ぎ癖もついてしまったけどね。気にしてないよ」
柔らかな口調から漂う異常さに、目眩がしそうだ。
何故初対面で正体を見抜けなかったのか、自分の鈍感さを呪う。
「コラボカフェの件は、どう…するの?」
「どうって…勿論成功させよう。せっかく僕が未来のキャリアを懸けてまで、企画を立案したんだから。僕らのために絶対だよ」
あの時、出会ったことが引き金になったのではなく、初めから海月のひめと現実で繋がるためにーーー?
緻密な計画性と、粘着質な人格。
私を連れ出すための策も、抜かりなく実行する完璧主義な一面と、犯罪をもう顧みない酩酊している精神。
すでに規制線の先に進んでしまった私は、推理と事実を擦り合わせることにした。
「…電話をかけたのは、貴方ですか」
「あー、それ気になるのか」
「………」
携帯番号の入手方法は簡単だ。
コラボカフェの件で会議をしている最中、連絡手段をあの場にいた私を含めた三人で共有した時だろう。
気になるのは、私が通話越しに聞いた声が『うじくんの声』そのものだったことだ。
「隠すまでもない事だよ。のひちゃんの横にいたあの男…どこかで見たことのある顔をしていると思ったら、あのノワール・シャーロックだったことには驚いたよ。コンビニでも、のひちゃんのことを付き纏っていたよね」
他者認知が歪みすぎている。
私が今更否定を述べたところで、意味のないことはもう知っていた。
「だから…ノワールの声で私に電話を?」
「ああ。今は便利だからね。AIにあの男の声を読み込ませて、機械を通して僕が喋ればノワールだ」
「…そう」
あの時の違和感が納得できた。
うじくんの声に違いはなかったが、私への言葉遣いがまるで別人だったのだから。
「まあ、対して好意のない奴の、通話越しの声なんか本物も偽物も聞き分けられないよ。だからのひちゃんをあの家から救い出せたんだ。今日からまた家に帰れるよ」
「………どこに、向かっているの?」
最悪な予感が背筋を凍らせる。
「のひちゃんの家だよ。お話したいから少し遠回りしてるんだ」
私は絶句した。
この男が抱えているものは寵愛や慈しみではない。
純粋な狂気だ。
男の行動全てに純度の高い狂気が込められており、私の普遍的な思考では暗い底に隠されているものに届かない。
隣にいる男に悟られないよう、服の下に隠しているスマホの位置を確認した。
「…お話もできたし、そろそろのひちゃんのお家に行こうか」
男はどんな表情で私を見ているのだろう。
窓の向こうの景色に見覚えのある建物が映ってからは顔を上げられず、俯きながらきつく目を閉じ、これが悪い夢ならば早く覚めてくれと真っ黒い世界で願っていた。




