夕暮れの来訪
他人の家に閉じこもってばかりは居られず、私は鏡の前で身支度をする。
本日は、不動産会社を巡って私の新たな家を探すこと。
日中ではあるが、一人で出歩くのはまだ危険だという認識は持っている。
そのことをうじくんに相談したところ、あっさりと同行してくれることになった。
移動手段は安全な車にしようと、高島さんからの提案がありら快く運転手を名乗り出てくれた。
迷惑をかけているのは承知の上だが、うじくんが言うには「護衛任務みたいだ」と、高島さんは胸を踊らせていたらしい。
少し伸びた髪をストレートアイロンで緩く巻いて、大人びた印象に見せる。
物件探しとは、まさに戦だ。
来月には私一人でも安全に暮らせるような物件を、短期間で契約するために、今日も無駄にするわけにはいかない。
うじくんと高島さんが迎えに来る前に、私が生活していた痕跡を無くすために部屋を出た。
洗濯物はうじくんが家にいない間、ドラム式洗濯機で洗濯から乾燥までを済ませ、自分の生活領域に持ち込み、ご飯を済ませたら洗い物は当然のこと、手に届く範囲で掃除をするようにしている。
週末は雇っている家事代行の人間が家の中を整えてくれると言っていたが、なるべく綺麗な状態で維持することで罪悪感を消しているのだ。
室内にインターホンの音が響き、モニター画面でうじくんの姿を確認してから、足早に玄関へ向かい、急いで靴を履いた。
扉が外側から開けられ、二人が顔を覗かせる。
最初に目が合ったのはうじくんのほうだった。
「…出れそう?」
「うん。大丈夫」
家を出ると、高島さんの視線気づいた。
「おはようございます、の…三浦さん」
「おはようございます。高島さん、今日はよろしくお願いします」
ラフすぎず硬すぎない服装を身につけた高島さんと、会釈を交わす。
家を施錠すると、肩を並べてエレベーターへと歩き始める男二人の後ろについていく。
うじくんがボタンを押したが、高層階だからか、エレベーターの到着に少し時間がかかるみたいだ。
「どうですか、困ったこととかないですか?」
私に声を掛けてきたのは高島さんだった。
「ないですよ。食べ物も、寝るところも準備してくれていますし、生活するには勿体ないくらい良い環境に置かせていただいてます…」
「それならよかった。ノワ…氏家くんにも気に障るようなことされてない?」
「………いえ、特に…」
質問の意図が掴めず首を傾げると「余計なことを言わないでくださいよ」と、うじくんが眉間に皺を寄せる。
リンと到着音がして、分厚い扉が開いた。
それからは無言のときを過ごし、上辺の会話を重ねることなく、マンションのエントランスを抜ける。
しばらく外に出ていなかったからか、太陽が容赦なく照りつける暑い夏の季節を、じんわりと汗が滲む肌で感じた。
化粧が崩れる前に帰れるかな。
なんていう女の我儘を秘め、高島さんの自家用車である白い軽自動車に乗って、ここから少し離れた不動産会社へと走り出した。
ーーー時計の短針が半周ほどして、重い肩を落とさないように車を降りる。
「高島さん、今日はありがとうございました」
きちんと家の扉前まで送り届けてくれた高島さんに深く頭を下げると、明るい笑い声が降ってくる。
「そんな畏まらないでください。お話できてよかったです。また何かあれば、何でも言ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「ではまた」と前も見ずに私とのほうに体を向けて、無邪気に手を振る高島さんと、こちらに振り返ることなく背を向けるうじくんの対比に、少し笑みが零れた。
しばらく二人を見届けてから家の中に入り、玄関の扉を施錠したことを確認して、リビングのダイニングテーブルを前に腰掛ける。
「…さて」
鞄から物件の資料を取り出し、腕を組んだ。
訪ねた不動産会社は四社で、そのうち優良物件だと持ち帰ってきたのは二件。
個人情報を扱う場所なので、高島さんが車で待機し、うじくんが同席するという組み合わせになったが、正直頼りにはしていなかった。
しかし、私の不満を的を外れていて、職業柄なのか家賃に見合った立地や構造、設備などの知識も豊富で、彼が積極的に営業スタッフの人とやり取りをしてくれたおかげで、かなり希望に沿った部屋を提示されている。
どちらも好条件のため、あとは私の好みで決めればいいと、うじ先生は仰っていた。
資料を穴が空くほど見比べていると、突然スマホから着信音が鳴った。
「……誰だ…?」
覚えのない電話番号が画面に表示されている。
もしかして、不動産会社の人…?
恐る恐る通話ボタンを押して、スピーカーで相手の言葉を待った。
《もしもし、三浦さん?》
この声と呼び方は…。
「うじくん?どうしたの?」
《物件の資料、間違えて持って行ってしまったものがあって…マンションの下にいるから取りに来てくれる?車を待たせてるから、早く来てほしいな》
「…えっと、わ、わかった」
そう答えると、通話はプツリと切れる。
エニコードでしか連絡を取り合ったことがないうじくんが、なぜ私の電話番号に…?
確かに彼の声だったが、どこか威圧を感じる話し方だった。
違和感は残りつつも、これ以上の迷惑をかけるわけにも行かず、うじくんから預かっていたスペアキーと最低限の貴重品だけ持って家を出る。
相変わらず時間のかかるエレベーターが、さらに私の焦りを加速させた。
マンションのエントランスまで降りたが、肝心な彼の姿はない。わざわざこの暑苦しい外で待っているのだろうか。
周りを見渡しながら、厳重なセキュリティで守られているであろう透明な自動ドアに体を潜らせ、私は再び真夏の外へ出た。
すると、すぐに大きな黒い高級車に目が止まる。
「のひめさん」
背後から声を掛けられるが、私は上手く声が出なかった。
うじくんの声でも、高島さんの声でもない。
誰の声か思い出せないが、どこかで聞いたことのある男の声だ。
何よりも、コンビニの近くで停まっていたあの黒い高級車が、私の防衛本能に警笛を鳴らしている。
…嵌められた?
「酷い人だ。必ず成功させると約束したのに、勝手に活動休止して…その理由が、男との同棲だなんて。くらリスの皆が知ったらどうなるか…」
“成功”
海豚というストーカーも同じようなことを文字にしていたが、私は別の場所でも聞いている気がする。
どこで、誰とそんな話を…。
ーーーそこでふと、ビルの風景が蘇る。
かちっとした紺のスーツを着こなした男二人と協議し、その帰り際に話しかけられ、あらゆる配慮に長けたその人と、私は握手を交わしたのだ。
『必ず成功させましょう』と。
「………荒木さん?」
そう告げてから振り返ると、不気味に笑顔を崩さない男は頷いた。
「とりあえず、場所を変えましょうか」
こちらに伸びてくる手を拒むように、私は大きく後退る。
謎の解明は今すべきではない。
逃走経路の確保と、うじくんに連絡してこの状況を説明することが最優先だ。
ここまで距離を詰められているのだ。
彼のマンションにもう逃げ場はない。
「貴方とは…お話することはありません。また、仕事の話ならメールで…」
「のひちゃんさぁ!」
落ち着いていた男の態度は豹変し、私の思考を停止させるほどの大声を張り上げた。
「…僕ら二人で約束したんだから、守ってくれないと何するか分からないよ?このまま車に連れ込んで乱暴することも簡単だ。賢いのひちゃんなら、大人しく僕とお話しよう?」
男の虚ろな瞳が私に全身全霊で訴えている。
虚勢でも虚言でもなく、本気だということを。
小刻みに震え始める手足と、恐怖のあまり乱れ始める呼吸。
抵抗すれば、身の危険は確実なものとなる。
経験したことのない膨大な悪意に立ち向かう打開策など私にはなく、男の要求を素直に受け入れ、黒い車に鉛のような片足を乗せて体重をかけた。




