ノワール・シャーロック
―――俺は重度の引きこもりだ。
太陽の光は目に痛いし、人間関係なんてクソ面倒なものに巻き込まれたくもない。
無心で白い天井を見つめていたが、部屋全体に響くほどの腹の虫が鳴った。
怠い身体を無理やり起こして、眠気を覚ますために冷水で顔を洗い、力ない手首で歯磨きをする。
ボサボサの髪は…そのままでいいか。
そこらへんにある適当な服に着替え、スマホをポケットに突っ込み、ふらふらと家を出た。
時刻は午前二時過ぎ。
真夜中もいいところだが、家に食べ物はなく、いつもこの時間に近くのコンビニへ買い出しに行くのが日課。
いつものコンビニと、いつもの店員。
この『いつもの』が、俺にとって安心材料になっている。
新しい人や場所が、とにかく苦手だからだ。
お気に入りの弁当と、水分補給用の飲み物と、食後に食べるヨーグルトと、変わらず同じ順番で手に取っていると、ふとあるパッケージに目が止まった。
目の前にあったのは、Vtuberとコラボしているスナック菓子。
少し躊躇ったが、二袋手に取り、レジに向かった。
いつもの店員が、慣れた手つきで商品のバーコードを通していくが、スナック菓子に触れた途端、言葉を溢した。
「あれ、これって…」
心臓がビクリと震える。
店員の反応に、体温がすっと下がっていく感覚がした。
異様な緊張感で突っかかる喉を宥めるように、静かに息を飲む。
「あ…、知っ…てます?」
平然を装うために店員に話しかけた言葉は、ぎこちないことこの上なかった。
店員の手が止まっていることが確認できる。
まずい、まずい、まずい。
俺の脳内は、この三文字に覆われていた。
しかし、店員から返ってきたのは、自分が恐れている答えではなかった。
「いや、この…これ、凄い人気なんですよね!さっきも何個か買っていく人がいまして!有名なアニメ…とかなんですかね!?」
笑顔でそう言いながら、止めていた手を再開させ、商品をレジに詰め込んでいく。
「…そうですか」
「このお菓子も、すごく美味しいですもんね〜」
店員の様子を見て、張り詰めていた緊張が解け、小さい溜息が出る。
危機を乗り越えた安心で、気が緩んでしまったのか、それとも魔が刺したのか、どちらかは分からないが、そのあとは勝手に口が動いていた。
「…俺も好きなんです」
「え?」
「このお菓子」
スナック菓子に視線を落とす。
普段はこんな世間話のようなことはしないが、いつものコンビニのいつもの店員が相手だったこともあり、少し雑談を交わしたくなった。
「あっ、へー!そうでしたか!」
ありがとうございましたと、お互い軽くお辞儀をして、俺はコンビニを出ようとした。
そこで、何故だろうか。
どうして自分がその行動を起こしたのか、言語化はできないが、気づいたらその店員に、スナック菓子を渡していた。
「あの、これあげます」
「えっと…でも、こちらはお客様が買われたものになるので…」
「大丈夫です」
ただ、自分が安心できる場所を提供してくれることに対して、何かしらずっと感謝していたのかもしれない。
「いつもこんな夜遅くに、お疲れ様です…ってことで」
慣れないことをしたせいか、次は全身の血が急速に巡り、体温がグッと上がっていった。
早足でコンビニを後にし、自分の住むマンションのオートロックを開けて、少し長めのエレベーターを待ち、ようやく玄関まで辿り着いた。
買ってきたお弁当を電子レンジで温めて、空っぽの胃にご飯もヨーグルトも全て入れ終わると、スナック菓子を徐に手に持ち、俺は定位置に座る。
目の前には、複数の機材とケーブルが入り混じったパソコンデスクに、大きめのマイクが一つある。
電源がついたままのパソコンを軽く触り、俺は深い深い深呼吸を繰り返してから、あるボタンをクリックした。
「よし。じゃ、さっきのゲームの続きやってきますかぁ」
気の抜けた俺の一言に、画面に映る無数の文字が、絶え間なく流れる。
【おかえりシャロくん】
【ノワール遅いぞ。待ちくたびれた】
【ご飯何食べたのー?】
これら全てが俺に向けられているように思うが、実際は違う。
画面を越えて、コメントという人々の気持ちを文字にして送られている対象、その全ては“ノワール・シャーロック”というキャラクターなのだ。
真っ黒な髪をしていて、ウルフという髪型。
銀色の瞳に、このキャラクターのモチーフである、シャーロックホームズを模した服装。
現実の俺は氏家瑛二という二十四歳のごく一般人だが、世界中の電波に乗っているこの時間だけ“ノワール・シャーロック”を演じている。
そういう仕事…Vtuberだからだ。
いろんな経緯を経て、こういった人気商売の職業に就いているのだが、考えなしに足を突っ込む業界ではなかったと、自分のキャラクターがパッケージになっているスナック菓子を眺めて、改めてそう思う。
陰気で、地味で、ゲームをすることしか能のない男が、どうしてチャンネル登録者九十万人以上の人気を博してしまったのか。
「今日もありがとう、みんな。僕を好きでいてくれる君たちが、僕も好きだよ」
【私も好き!】
【シャロくんが生きがいだから】
自らインターネットから遮断すると、歯の浮くような台詞をつらつらと並べていた人格が嘘のように消え失せる。
吸い込まれるようにベッドへ倒れ込み、でかい図体を丸めた。
俺は常々後悔している。
あぁ、もう辞めたい、と。




