好きの対象
【活動休止のお知らせ】
【いつも応援してくれるくらリスたち、そして関係者の皆さまへ。突然の報告になりますが、この度、海月のひめは活動を休止いたします。詳しい事情をお伝えできず、申し訳ございません。必ず帰ってきますので、待っていてください。】
海月のひめは、SNSに活動休止を発表した。
ファンの間では、帰りを待ち望む声、心配の声、それに肖り根拠の無い憶測を歩かせる声。
個人勢では稀有な人気を誇っていたため、さまざまな善悪が渦巻いた。
たった二年で約三十万人から支持されるほど、順風満帆だった故の反動だと思う。
「………暇だ」
うじくんの家に避難してから丸三日が経つ。
夜勤のバイトをしていたコンビニには、正直に現状を説明をすることで、店員側から私を付きまとっていた犯人である“海豚”へ情報が漏れることを恐れ、申し訳ないが適当な事情をつけて辞めさせてもらった。
配信活動も、労働も失い、現在は何もすることがない。
そのせいで…いや、それが原因かは断言できないが、明らかに私の脳内を占めているのが、この家主だ。
朝方と夜の二回、彼はこの家に戻ってくる。
その度に、私は緊張してしまうのだ。
もしかしたら…彼と体の関係を持ってしまうのではないかと。
少女漫画やアニメでしか恋愛やそういった知識を吸収していないが、大半の男女はひとつ屋根の下を過ごすと、異常に距離が近くなる。
そして大体は男から女に手を出す。
セオリー通りに物語が進むのであれば、そろそろうじくんは私に触れてくるだろう。
………なんていう妄想を何十、何百と繰り返しながら、暇を持て余していた。
なんて不埒な女。
使われていなかった一室を寝室にし、布団の中で両足をばたつかせていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。
急いで立ち上がり、くしゃくしゃの髪の毛を手櫛で直してから部屋を出る。
「あ、おはよう…?」
廊下にいたのはうじくんだった。
「おっ…お帰りなさい」
「…た、ただいま」
仮にも宿を貸してもらっている身のため、堂々と居座るのは性に合わず、こうして家主が帰ってきたら出迎えるようにはしている。
が、私の煩悩にまみれたこの頭では、この場面、同棲している恋人同士のように映っていた。
ダメだ。
私はもう、普通の状態でうじくんと接することはできない。
「…今から配信して、また高島さんのところ行くね」
「あ、はい…わかった」
どこかに寄ってきたのか、ビニール袋から食材を取り出し、手際よく冷蔵庫やキッチンの引き出しに入れてから、配信部屋へ一直線に吸い込まれていく。
顔を合わせるのは帰ってきた直後だけで、それからは家を出ていく時だけ。
実を言うと、寂しさを感じている自分がいる。
好きな女の子が同じ家にいて、会話する機会がいくつもあるのに、うじくんは全く私と話そうとしない。
コンビニでは、カウンター越しにもあんなに言葉を交わしていたのに、隔たりこそ無くなった今のほうが、それを避けているようにも思える。
一方的に「好き」と伝えられ、返事を求められることもなく、彼は変わらない日常を過ごしている。
まるであの日の告白が無かったことのよう。
なんて狡い男。
私は抱きしめられた時の、あの彼の温もりを忘れられずいるのに。
冷めていくばかりか、日に日に熱を帯びている感触に“好き”の二文字が浮かぶ。
相手をどう思えば、好きになるんだろう。
出会った当初は敬遠して、でも絆されて、仲を深めて、気がつけば告白されて、大事に彼の根城に匿われて。
私はうじくんをどう思ってる…?
間違いなく、彼に対して特別なものはある。
しかし、狭い人間関係の中で、彼とともにいる時間が他の人よりも長かっただけ。
たったそれだけのチープな理由なのだ。
前例がないからこそ、特別と表現できているにすぎない。
例えば、高島さんと親交を持つことで、この気持ちが再現できるのなら、うじくんへの想いは恋心ではなく、他の何かだということになる。
私の中に眠る謎を解き明かせば、恋愛感情というものを知れるかもしれない。
人を好きになることは、素晴らしいことだと数々の名作が告げているのだ。
もしも、彼と両想いだったとしたらーーー。




