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海に棲む男

 


 約束の午前六時。


 帰り支度する私を迎えにきた彼は、黒い帽子を深く被り、着慣れたパーカーとスウェットパンツを見に纏っていた。


「コンビニの入口に、怪しい奴はいなかったよ」


 耳打ちで教えてくれた情報に、ひとまず胸を撫で下ろす。


 何歩か先に進んでから、隣にいるうじくんを見上げた。


「気をつけて、うじくん。どんな人かも知らないし、何を持っているか、何をするかも今は不明だから」


「…大丈夫。一応護身用に殺虫剤持ってきた」


「殺虫剤…」


 大きく膨らんでいるポケットに手を添えて、得意げに微笑む彼に、私も頬を緩めた。


 刃物を向けられたら、この殺虫剤で対抗するつもりなのだろうが、なりふり構わず突進してくるような危険な人だったら、どう太刀打ちするのか。


 そうなったら、二人とも地面に這って最期を迎えるのかもしれない。


 冗談めいた笑えない話をつい考えてしまうのは、隣にうじくんが居てくれるおかげだろう。


「…朝って、こんなに眩しいんだね」


「そうだよ。目が痛いでしょ?」


「うん。ほとんど開かない」


「自分から言い出したんだから、ちゃんと役割は果たしてよね」


「それはちゃんと…大丈夫」


 つばの広い帽子で太陽の光を遮っているのに、片目すら満足に開けれていないうじくんの顔を見て、また笑いが込み上げてくる。


 急に真剣な表情をしたかと思えば、間抜けな部分を覗かせたり、変な人だと一括りにするには惜しい。


「とりあえず、いつも通りのルートで帰るからね」


「…はい」


 気を張り直し、背後に人の気配がないか耳を澄ませた。


「………まだ…いないみたい」


 いつもなら既に足音が重なって、追尾してくる時間だ。


 今日はいない?

 シフトが入っている日は欠かさず付けて回ってきた人が?


 いや、うじくんがいたからに違いない。


 そうだとしたら。


「…入口に変な人がいなかったって、言ったよね?」


「え…うん。いなかったよ。店の周りもぐるっと見て回った」


「………車」


「車?」


「…黒い車、停まってなかった?」


 芹菜という女が押しかけてきた日の朝、黒い車が停まっているのを見た。


「………停まってた、かも」


 誰かにつけられていると自覚してからは、いつも後ろばかり気にしていたせいで、あの車が視界に入っていなかったのだ。


 盲点だった。


 あの大きな車だと細道は確かに通れない。

 だから、あえて車から降りて、徒歩で私の背中を追っていたのか。


「車のナンバーは………だめだ、思い出せない」


 曖昧な記憶を掘り起こすという、無駄だと理解できていることに何度も試していると、それを宥めるように私の両腕に彼の手が添えられた。


「焦るのはやめよう。まずは君を無事に家に帰すよ」


「…そ、か。ありがとう」


「…大丈夫だからね」


 落ち着いて呼吸すると、瞬きの回数も減り、ようやくいつもと同じ風景に戻る。


「もう大丈夫」と表情で伝えると、再び二人で足を進めた。


 ほんの十分足らずだったが、お互いに沈黙はなかった。


 緊張感の糸は切れそうになるくらい張り詰めるべきだと、私も彼もその本心は間違っていなかったが、どんな正しさよりも、雲を掴むようなこの恐怖をかき消したかったんだと思う。


 きっとこれから何が起きても、こんな風に笑い飛ばせたらと。



 ーーーしかし、生温い期待はいとも簡単に裏切られる。


 自宅のマンションまで妙な人影もなく、待ち伏せする怪しい人物もいなかったが、うじくんの助言で郵便受けの中身を確認した。


 すると、差出人のない茶封筒が一枚。


 うじくんと顔を見合せ、静かに頷く。

 耳に響き始める心臓の音を押し込むように唾を飲み込んだ後、封筒の中に入っている白い紙を開いた。


【僕はのひちゃんの味方だから、男を利用する必要はないよ。リスクに触れるのは嫌だったよね。でも心配しないで。僕がこれからも見守ってるからね。】


 気持ちの悪い文面の最後には【海豚】という名前が、律儀に記されている。


「………いるか…、のひちゃんのリスナーだよね?」


「…うん」


 容疑者の候補として挙げていたが、まさか本当に視聴者が現実世界にまで干渉してくるとは。


 性別は、恐らく男。


 悪意がないどころか、善意として私のつきまとい行為を自己肯定している。


「とにかく、あのコンビニでバイトを続けるのは…よくない気がする。この家もしばらく離れた方が…むしろ引っ越すっていう選択肢も必要な状況だと思ってる」


「そうだけど、ここを契約するのも大変だったのに…」


 今の家を見つけるまで、VTuberという職業を隠し、個人事業主という申告で物件を探したが、審査が通らず諦めたことも多かった。


 安定した月収が入ることを証明するために、手っ取り早くコンビニのアルバイトとして働いていた。


 急を要する事態なのは確かだが、今の私を受け入れてくれる、条件のいいマンションが今日明日で見つけられるのだろうか。


「とりあえず、顧問弁護士に聞いてみる」


「…それが一番安心だね」


「ここまで送ってくれて本当にありがとう。うじくんも顔は見られてないとはいえ、背格好は多分覚えられているから、気をつけてね」


 軽く手を振って見送ろうとしたが、彼は何か言いたげな様子で立ち尽くしている。


「誰か、家にいてくれる人とか…呼んだ方がいいと思う。基本的に家から出ることはないと思うけど、デリバリーもオートロックをくぐり抜ける機会を作ってしまうことになるし…危険なことに変わりない」


 普段は口下手がうじくんが、珍しく饒舌になった。


 上京してから、頼れる親もいなければ、友人と呼べる関係性の人間もいない私にとって、自嘲できる提案だ。


「うじくんの言う通りだね。いたら呼ぶよ」


 自分の危機に「助けてほしい」と泣いて縋りつける人を探すより、防犯グッズを買い揃えた方が早いか。


 なんて冷静に思考が動くほど、私は諦めがついていた。


 「…三浦さん」


 「ん?」


 「本当に、三浦さんには…何かあってほしくない」


 「うん?私も何も無いまま、平和に暮らしたいよ?」


 「…俺の、ところに来ない?」


 「………え?」


 あまりに自然な時の流れを、私は止めた。


 「守らせてほしい、俺に。君を」



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