最愛の決別
俺は何度も時間を見ては、その数字が十四時に変わるのを待っていた。
ノワール・シャーロックの活動休止後は、とにかく独りでいることに拘っていたこともあり、業務連絡以外のやり取りを交わすことはなかった。
あらゆるものを遮断していた俺は、道端に転げ落ちている蝉の抜け殻に似ていたと思う。
部屋の白い天井をベッドの上から見ているだけの毎日を、今は覚えていない。
パソコンの前に座ったはいいものの、なかなか気持ちは落ち着かず、周辺のものを意味もなく触れていた。
すると、ガチャリと扉が開く音が、後方にある壁の向こうから聞こえた。
不法侵入…?
万全のセキュリティが備わっているこのマンションに、素人の泥棒があらゆる糸をすり抜けてきたことは信じ難いが、物音は今も止まっていない。
爪先に力を入れ、恐る恐る音がする方へ近づく。
さながらサバイバルゲームのように壁に背をつけ、人影がないかクリアリングしていくと、辿り着いたのはリビングだった。
ポケットからスマホを取り出し、親指で番号を打つ。
一人だったら制圧できるだろうか。
複数だったら…遅かれ早かれ、無傷では済まなさそうだ。
気づかれない程度の息を吐いたあと、110と番号が表示されている画面で発信ボタンを押してから、リビングの扉を勢いよく開けた。
《もしもし、事件ですか?事故ですか?》
「………せ…」
「………」
「………芹菜…?」
目の前にいたのは、いなくなったはずの芹那だった。
数ヶ月ぶりに見た芹菜は、最後に会った日よりもずっと痩せていて、いつも綺麗に巻いていたミルクティー色の髪はなく、茶色く長い髪をひとつに束ねている。
《どうされましたか?》
「あ、あ…すみません。勘違いです…」
ひとまず、繋がっていた通話を切る。
スマホを持っている手を下ろした途端、芹菜は俺に飛びついた。
「ごめんなさいッ…瑛二くん…!ごめんなさい…本当にごめんなさい…っ」
「芹菜…」
「こんな、こんなに大事になるなんて思わなくてっ…、わ、私のせいで、私のせいで台無しに、いつも頑張ってたの…わかっ、わかってたのにぃ…ッ」
顔は俺の胸に埋めているが、嗚咽混じりの声ですぐに泣いているのだとわかった。
彼女を責めるべきか、優しく頭を撫でるべきか、俺はひどく冷静だった。
取り乱す芹菜の両腕をなぞるように掴み、ゆっくりと体を離した。
「謝らなくていい」
「でもっ…私が…」
「ただ、理由は知っておきたいんだ」
その言葉に、芹菜は俺を抱きしめる力を弱める。
「………聞いてくれるの?」
「…聞かせてほしい」
君があの時、何を思っていたのか。
俺はどうすれば、君に辛い選択を選ばせずに済んだのか。
誰のせいでもなく、俺の未熟さが今の結果だ。
芹菜が行動に移さずとも、きっと同じような問題がこの世界線で起きていた。
それだけは綺麗事でも、取り繕いでもない、純粋な本心だった。
だからこそ、大切な人ーーー芹菜の手を汚させるべきじゃなかったんだ。
二人は無言のまま椅子に腰掛け、向かい合った。
手の中にあったスマホを机の上に置き、真っ直ぐ目の前にいる芹菜を見据えると、彼女の目は可哀想なほど赤く腫れていて、長い間涙を流し続けていたことが窺える。
呼吸を整え終えた芹菜は、色のない唇を開いた。
「………初めは、応援していたの」
ノワール・シャーロックという存在が大きくなるにつれて、俺と二人で過ごす時間が減ったこと。
同じテーブルでご飯を食べることがなくなったこと。
愛情表現が次第に薄くなっていたこと。
自分のことよりも視聴者のことを大切に想っていると感じることが増えたこと。
その全て『ノワール・シャーロックを失えば元通りになる』と本気で信じ、そのために俺の情報をさまざまなSNSに売りつけたと、芹那は涙ながらに打ち明けてくれた。
不思議に思うことは一つもなく、芹菜は俺との未来だけを真剣に考えてくれていたのだと、息苦しさが楽になった。
本当に俺は利己的で、傲慢な男だ。
「ごめん、芹菜。気づかなくて…、本当にごめん」
頭を下げると、芹菜は「謝らないで」と俺の顔を上げるよう促した。
「………もう、だめだよね。だめなんだよね…?私たちって」
唇を噛み締めて、俺は深く頷く。
「全部…俺が悪かったんだ。このまま、芹菜がこの家に戻ってきても…正直、わからない」
「…どうして瑛二くんは、私のことを責めないの?」
小刻みに震えていた声は芯を取り戻したようで、俺の耳を突き刺すようにその質問は投げかけられた。
「…好きだったから」
「………え?」
「俺も芹菜が、好きだったんだ。だから、俺と芹菜の立場がもし、逆だったら………責められないよ」
本当に君のことが好きだったんだ。
何もしてあげられなかった俺に、静かに寄り添ってくれていた芹菜との場所が、あまりにも心地好かった。
相手に甘える関係を続けたところで、きっと思い描く将来は叶えてあげられない。
『このまま二人で』ーーーそう漠然と願えていたのは、彼女の犠牲の上でしか成り立たない絵空事だったのだ。
「今まで本当にありがとう、芹菜」
その直後、スマホが震え、画面に通知が表示される。
海月のひめと書かれた名前の人物から送られてきたメッセージだった。
自分が何者かもわからず、ただ怖くて、どの世界を見ないよう俯いた俺に、もう一度前を向く意味を教えてくれた。
「…終わらせよう、俺たち」
もう、決めたことがあるんだ。
「………うん。そうだね」
最後に、と芹菜は俺に求めたのは「同じテーブルでご飯を食べて、そのあと同じベッドで一緒に寝たい」という単純な願いだった。
そんなこともできていなかったからだ。
今日が芹菜と過ごす最後の夜だ。




