社会進出
高い高い建物を前に、私は足がすくんでいた。
汗が滲んだ手で、ぐっと握り締めているのはスマホ。
教えられた住所を頼りに、ようやく辿り着いた場所は高層ビル。
何度確認しても、アプリのナビゲーションが終了するのは此処だった。
「大丈夫か、私…」
本日都心にあるビルに招かれたのは、例のコラボカフェを実現するため、担当者と打ち合わせの約束していたからだ。
ちなみにご存知の通り、コンビニでアルバイトする以外の社会経験はない。
あらゆる社会のマナーをネットで調べてはきたものの、咄嗟に活かせる自信は無く、体調がおかしくなりそうだ。
しかし、念願のコラボカフェを諦める道はない。
気合を入れ、腹を括って、右足を大きく踏み出した。
「お待ちしておりました」
出迎えてくださったのは、三十代くらいのスーツを着た男性で、とりあえず後についていくと、ある部屋の扉の前に案内される。
男性はノックを二回してから扉を開き、部屋に入るよう誘導された。
かっちりした紺のスーツを着た男性が二人、机を挟んで立っている。
「初めまして、私、道信と申します。今回の企画から運営まで、担当させていただきます。よろしくお願いいたします」
「私、荒木と申します。今回の打ち合わせの記録を取らせていただきます。よろしくお願いいたします」
ネットで見た名刺の渡し方だと感心しながらも、無造作に受け取った。
「く、海月のひめです…。よろしくお願いします…」
自ら口にすると、手足が震えるほどの羞恥心に襲われる。
現実世界で活動名を名乗ることが、こんなにも恥ずかしい行為だったなんて、知らなかった。
「お会いできて光栄です。こんなに可愛らしい方だなんて…」
「道信さん」
「あぁ…いえ、失礼しました。この話は野暮でしたね。どうぞ、そちらへお掛けください」
道信という男は咳払いをして、この場を仕切り直した。
「まず開催期間ですが…」
コラボカフェの概要、コンセプトの擦り合わせ、食事と物販の利益率、メニューや限定販売するグッズの考案など、約三時間に及ぶ協議の末、お互いの認識が合致したところで解散となった。
初めて対面でこういったビジネスを交わしたが、中盤からは緊張よりも高揚感というか、期待感が増して、楽しいと感じるようになっていった。
「のひめさんっ」
ビルの出入り口で、突然後ろから肩を掴まれる。
「な、何か…?」
振り向くと、荒木という男が息を切らせて、私を見下ろしていた。
「すみません、突然後ろから…。少しだけ、お伝えしたことがありまして…」
息苦しかったのか、荒木さんは固く締めていたネクタイを緩める。
「普段はお家での仕事なのに、ここまでご足労いただき、改めてありがとうございます」
「いえいえっ…そんな、全然大丈夫です…」
「上司の道信は少しネットに疎くて、失礼な態度や言葉がもしあったのなら、代わりに謝罪いたします。申し訳ございません。…ただ、のひめさんのご活躍は本当に目を見張るものだと、こちら側もかなり力を入れているので、必ず成功させましょう」
荒木さんは凛々しい顔をさらに際立たせた。
なんて良い人。
「はいっ」
私たちは力強く握手を交わし、コラボカフェの成功を祈るのだった。




