第5話 ナス・シティ(跳躍)
「そんな、上空まで歪んでいるというのか……!」
地球を一周した自爆テロ級の衝撃から、もはや神がかった生存能力で生き延びた老人は、ついに五つ目の狂気、上空への大跳躍に全てを賭ける「ナス・シティ」の土を踏んでいた。
街の建物はどれも、下部が細く上部がふっくらと膨らんだ、艶やかな紫色のナス型をしていた。そして、この街の朝は、全員が屈伸をすることから始まる。
「ぶつかるな! 逃げるな! 止まるな! 目の前の障害物は、すべて上空へ飛び越えろ!」
これが街の鉄則。前進、後退、停止、横スライドという「二次元の平面移動」がもたらした過去四つの破滅を、またしても都合よく、しかし今度は三次元的に間違って解釈したナス市長が編み出した「超次元の安全策」だった。
住民たちは全員、バネのように膝を深く曲げ、猛烈なハイジャンプを繰り返しながら生活していた。彼らにとって、目の前の問題に向き合うことも、横にズラすことも「平面に囚われた凡人の発想」であり、すべてを「スルーして跳び越える」ことだけが至高の学びとされていた。
ここでもやはり、「過去から学ぶこと」と「ただ問題を一過性のものとして飛び越え、忘れること」が、見事に混同されていた。
老人が上空を見上げると、一人のビジネスマンがスーツ姿でビル3階の高さまで跳び上がり、そのまま着地と同時に、道路に落ちていた巨大な鉄くずに激突して足をくじいていた。
「痛っ……! だが、私の跳躍力は、あの鉄くずという名の『過去の障害』を確かに一度は凌駕した! 私は進化したのだ!」
男は涙目で強がりながら、再び高く跳び上がってどこかへ消えていった。
「それは問題を解決したのではなく、一瞬だけ視界から消して、着地した瞬間に元の現実にぶつかっているだけです」
老人が重力に逆らう住民たちにツッコむが、誰も上空にいるため老人の声は届かない。
パン屋の主人にいたっては、小麦粉をこねる工程すら「跳び越えて」いた。
「私は昨日、パンを焼く時間が長すぎて焦がした! だから今日は、こねる工程も焼く工程もすべてジャンプ(省略)する! はい、これが『空気パン』だ!」
主人が差し出したのは、ただの空っぽの手だった。客たちは「これぞ、すべてのプロセスを飛び越えた、究極の糖質ゼロ・ブレッドだ!」と感動しながら、空気を頬張って虚無を噛み締めていた。ただの手抜きである。
「過去の失敗から『手順を省略すること』だけを学び、本質をジャンプして中身をスカスカにしている……。この街の連中も、頭のネジが上空へ吹っ飛んでいるな」
老人が呆れ果ててノートにペンを走らせた、その時だった。
ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!
街の四方八方の地平線から、レタス(前)、キャベツ(後)、トマト(停)、キュウリ(横)の、もはや怨念の塊となった全ベジタブル軍団の残党が、このナス・シティを包囲するように地を這って押し寄せてきたのだ!
「前へ!」「後ろへ!」「止まれ!」「右へ!」
四方向からの絶対的な平面圧力。
「大変だ! 地上の悪魔たちが、我々を押しつぶしにきたぞ!」
ナス市民たちは一瞬怯えたが、すぐに紫色のマントを羽織ったナス市長が、大空を指差して叫んだ。
「恐れるな! 我々には『高さ』がある! 全員、限界を超えて飛び越えろ! 地上のいざこざなど、すべて上空でスルーするのだ!」
「飛び越えろオオオオ!」
何万というナス市民が、一斉に深く身を屈め、地鳴りを立てて大気圏をも突き破らんとする大跳躍を敢行した。彼らの「地上の泥臭い問題と関わりたくない、すべてを一過性のブームのように飛び越えて忘れたい」という凄まじい現実逃避のエネルギーが、彼らの体から深い紫色のオーラとなって噴出する。
ドガァァァァァン!!!
地上では、四つの軍団がナス・シティの中央で激しくぶつかり合い、大爆発を起こした。しかし、ナス市民たちは全員が雲の上まで跳び上がっていたため、地上の大爆発に巻き込まれることはなかった。
「はっはっは! 見たか老人!」
はるか上空から、ナス市長の勝ち誇った声が響く。
「どれだけ大きな問題が地上を埋め尽くそうとも、我々がそれを『飛び越えて』しまえば、存在しないも同然なのだ! 向き合わず、立ち止まらず、上空へ逃げることこそが、すべての失敗を無効化する新時代の学びなのだ!」
老人は、激しい風圧でめくれ上がるノートを押さえながら、ぽつりと呟いた。
「……確かに、地上にいないのなら、地上のトラップにはかからん。だが……」
老人は静かに、己のノートのページを過去へとめくった。
レタス(前進)、キャベツ(後退)、トマト(停止)、キュウリ(横)。彼らに共通していた最後の結末。それは「ブレーキの概念を学ばない」ことだった。
案の定、雲の上で、ナス市民たちはパニックに陥っていた。
「首、市長! 飛び越えたはいいですが、着地のやり方を誰も学んでいません!」
「な、何だと!?」
高く跳び上がりすぎたナス市民たちは、地球の重力を完全に振り切り、そのまま宇宙空間へと飛び出してしまったのだ。
「あ、足場がない!」「どこへ向かえばいいんだ!」
宇宙空間に放り出された市民たちは、前も、後ろも、横も、止まることもできず、ただ無重力の中で手足をバタバタとさせながら、暗黒の宇宙の彼方へと慣性で流されていく。
「ま、学びを……! 着地のプロセスを学んでおくべきだったアアア!」
ナス市長の叫び声も、真空の宇宙では音にならず、静かに消えていった。
静まり返った地上のクレーターの中で、老人はぽつんと一人立ち尽くし、ボロボロになったノートに最後の、本当に最後の文字を刻んだ。
【記録:どれだけ華麗に問題を飛び越え、目先の現実をスルーし続けても、着地という『結果』と向き合うプロセスを学ばなければ、最後は誰も手が届かない虚無の宇宙で迷子になるだけである】
老人がペンを置くと、文字通り誰もいなくなった世界の中心で、彼の眼鏡がカランと地面に落ち、キラリと冷たく、しかしどこか満足げに光った。
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