第4話 キュウリ・シティ(横移動)
前進、後退、停止が引き起こした絶対零度の氷河期から、もはやどういう理屈か分からない生命力で復活した老人は、四度、常識の通用しない狂気の土地に立っていた。
細長く青々としたキュウリのような高層ビルが横一列に並ぶ街、キュウリ・シティ。
この街の朝は、全員がカニのように横を向くことから始まる。
「前を見るな! 後ろを振り返るな! その場に留まるな! 常にサイドステップだ!」
これが街の鉄則。これまでの3つの街の破滅(自爆、幼児退行、凍結)を、またしても極端に誤解したキュウリ市長が編み出した「斜め上の安全策」だった。
住民たちは全員、体を真横に向け、猛烈な速度でサイドステップを踏みながら生活していた。
彼らにとって、前進や後退、あるいは停止は「破滅を招く縦軸の呪い」であり、横軸に生きることだけが唯一の正解とされていた。
ここでもやはり、「過去から学ぶこと」と「ただ本質をズラして横に逃げること」が、見事に混同されていた。
老人が横歩きで通り過ぎる市民を見ていると、一人の若者が横移動のまま、盛大に横に並んだゴミ箱に突っ込み、ひっくり返っていた。
「痛っ……! しかし、これは過去の失敗ではない! 私は正面衝突を完璧に回避したのだ!」
若者は立ち上がり、何事もなかったかのように再び真横に向かってステップを踏み出す。
「それは失敗から学んで対策したのではなく、ただ問題を横にスライドして目を背けただけです」
老人がツッコむが、若者は「縦軸の奴らはこれだから困る」と鼻で笑い、横へと去っていった。
パン屋の主人にいたっては、パンを焼くことすら「横スライド」させていた。
「私は昨日、パンの焦がし方を学んだ。だから今日はパンを焼かない! 代わりに、横の文房具屋から仕入れた『消しゴム』をパンの代わりに並べる! これぞリスクの横流し、究極の方向転換だ!」
棚には、1個100円の四角い消しゴムが美しく陳列され、客たちは「さすが、縦軸に囚われない最先端の味(?)だ」と納得して消しゴムを財布にしまっていた。ただの現実逃避である。
「過去の失敗に向き合わず、論点をズラし、横に逃げ続けることが『学ぶ』ことだと思っている……。この街の住人も、全員認知が歪んでいるな」
老人が呆れ果ててノートにペンを走らせた、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!
街の境界線から、もはや三つの味がブレンドされた、この世の終わりを告げる大轟音が響き渡った。
なんと、北からは「前進・レタス軍団」、南からは「後退・キャベツ軍団」、そして東からは凍結から解凍されて激怒している「停止・トマト軍団」が、このキュウリ・シティを十字に圧殺するルートで同時に押し寄せてきたのだ!
「前へ!」「後ろへ!」「止まれ!」
三方向からの絶対的な圧力。逃げ場はない。
「大変だ! 縦軸の悪魔たちが、我々を押しつぶしにきたぞ!」
キュウリ市民たちは一瞬パニックになったが、すぐに市長が不敵な笑みを浮かべて叫んだ。
「慌てるな! 我々には『横軸』がある! 全員、右へ右へとサイドステップを踏み、全ての衝撃を受け流す(スルーする)のだ!」
何万というキュウリ市民が、一斉に右を向き、地響きを立てて一糸乱れぬ超高速サイドステップを開始した。彼らの「絶対に問題と正面から向き合いたくない、すべてを横にスライドさせたい」という凄まじい責任転嫁のエネルギーが、彼らの体から青緑色のオーラとなって噴出する。
ドガァァァァァン!!!
レタス、キャベツ、トマトの三軍団が中央で大激突した。
しかし、その激突の瞬間、キュウリ市民たちは全員が凄まじい残像を残しながら「真横」へと高速移動したため、三つの軍団のエネルギーは誰にも当たらず、空振りに終わった。
それどころか、キュウリ市民たちの放つ「横滑りエネルギー」があまりにも強大すぎて、空間のベクトルそのものが「横」に固定されてしまった。
「うわあああ! 体が勝手に横に滑る!」
突撃してきたレタス市民も、キャベツ市民も、トマト市民も、全員が強制的に真横を向かされ、カニ歩きで右側へとズサーッとスライドさせられていく。
「はっはっは! 見たか老人!」
キュウリ市長が、横移動しながら高笑いする。
「どれだけ強い圧力が正面から来ようとも、我々が全力で話を逸らし、論点をズラし、横に逃げ続ければ、どんな問題も空の彼方へ受け流せるのだ! 向き合わないことこそが最強の防衛策だ!」
迫り来る三つの脅威は、すべてキュウリ市民と一緒に真横へと綺麗にスライドしていき、街には謎の平穏が訪れた。全ての人間が、楽しそうに右へ右へと蟹股でステップを踏んでいる。
老人は、激しく右へと引っ張られる懐中時計のチェーンを押さえながら、ぽつりと呟いた。
「……確かに、まともにぶつからないという意味では、一番しぶとい生存戦略なのかもしれん……」
もはや自分の知性やノートの記録など、この世界の「ズレっぷり」の前には何の役にも立たない。老人は諦めの境地に達し、自分も右へとサイドステップを踏み始めようとした。
しかし、老人がふと、世界の「端」を見たとき、本当の絶望が完結した。
キュウリ市民たちは「向き合わない」ことの全能感に酔いしれ、ブレーキの概念を学ばないまま、今も猛烈な速度で右へとサイドステップを続けている。
しかし、この世界(地球)は丸い。
右へ、右へと、ひたすら横移動を続けたキュウリ市民の大集団は、地球を綺麗に真横に一周し、ものすごい速度で「自分たちの街の左側」から戻ってきた。
そして、前しか見ていないレタス、後ろしか見ていないキャベツ、動かないトマト、そして横しか見ていないキュウリが、地球を一周した超遠心力を伴って、自分たちの背後(左側)から、自分たち自身の横腹に向かって、光速で突撃する形になったのだ。
「あ」と市長が声を上げた瞬間。
ドガッシャアアアアアン!!!!
正面衝突を避け続けたツケが、地球を一周して「真横からの自爆」という形で一撃で精算された。全ての街の市民が、自分たちの生み出したエネルギーの濁流に巻き込まれ、文字通り木っ端微微塵に吹き飛んだ。
静まり返った更地の中で、老人は奇跡的に(横に吹っ飛んだおかげで)生き残り、ボロボロになったノートを開いた。
【記録:どれだけ上手に問題を先送りし、横にスライドさせて目を背け続けても、地球が丸い限り、ツケは必ずいつか真横から自分をブン殴りに来る】
老人がペンを置くと同時に、彼の眼鏡がカランと地面に落ち、誰もいなくなった世界の中心で、キラリと冷たく光った。
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