第5話 井戸の底の声
少女は、ミラと名乗った。
白に近い銀色の髪は肩のあたりで不揃いに切られていて、身にまとっている服も何度も繕われている。年は十六か十七くらいに見えた。けれど、その瞳には年齢よりもずっと幼い不安が浮かんでいた。
レインは両手を見える位置に上げた。
「怖がらせるつもりはない。俺はレイン。王都から来たけど、王国兵じゃない」
「王都……」
ミラはその言葉に肩を震わせた。
やはり、王国に何かされた記憶があるのだろうか。
「王都が怖いのか?」
レインが尋ねると、ミラは首を横に振った。
「わからない。でも、その言葉を聞くと、胸がざわざわする」
「覚えていないのに?」
「うん」
ミラは自分の胸元を押さえた。
「頭は覚えてない。でも、体が覚えてるみたい」
レインは何も言えなかった。
自分の鑑定で見えた炎と悲鳴。井戸に浮かんだ不可解な言葉。百年前、百二十三人の最後の声。ミラの怯え方は、この廃村の過去と無関係には思えなかった。
けれど、初対面の少女にそれをぶつけるわけにはいかない。
「ミラは、ずっとこの村に?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「気がついたら、ここにいたの。最初のことは覚えてない。気づいた時には、あの家で寝てた」
ミラが指さした先には、他の家より少しだけ形を保っている小さな家があった。屋根には穴が空いているが、壁は残っている。入口には布がかけられ、雨風をしのぐ工夫がされていた。
「一人で暮らしてるのか?」
「うん」
「食べ物は?」
「森で木の実を拾う。畑に残ってた芋も少しある。あと、雨の日は水がたまるから」
ミラは何でもないことのように言った。
レインは井戸を見た。
濁った水。魔力の気配。おそらく、そのまま飲むには危険だ。
「井戸の水は使っていないのか?」
「使わない。あの井戸は、泣いてるから」
「泣いてる?」
ミラは小さく頷いた。
「夜になると、声が聞こえるの。たくさんの人の声。助けてって言う声とか、名前を呼ぶ声とか、走ってって言う声とか」
レインの背筋に冷たいものが走った。
自分がさっき聞いたのは、ミラの声だと思った。だが、ミラは井戸の声を聞いていたと言う。
「ミラの声が、井戸の底から聞こえた気がしたんだ」
「私の?」
「ああ。『また、王国が来るの?』って」
ミラの顔色が変わった。
「それ……私、言ってない」
「わかってる」
レインは井戸を見つめた。
あれは現在の声ではなかったのかもしれない。井戸に残された過去の声。誰かが百年前に言った言葉。あるいは、この村そのものに染みついた記憶。
そんなことが鑑定で見えるなど、聞いたことがない。
レインのスキルは、物の状態を見るものだ。ずっとそう思っていた。だがこの村に入ってから、門柱でも井戸でも、過去の映像のようなものが見えた。
自分の力は、本当にただの鑑定なのか。
「ねえ」
ミラが不安げに声をかけた。
「レインも、いなくなる?」
その問いは、胸の柔らかいところをまっすぐ突いた。
レインは答えに詰まった。
本当は、一晩だけ休むつもりだった。夜が明けたらこの村を出て、次の宿場へ向かう。どこかの町で仕事を探す。それが一番現実的だ。
この村は危険だ。
王国に怯える少女がいる。
百年前の声を残す井戸がある。
鑑定では説明できない映像が見える。
関わらない方がいい。
そう思うのに、ミラの瞳から目を逸らせなかった。
「……今日は、ここで休ませてもらってもいいか?」
結局、レインの口から出たのは、そんな言葉だった。
ミラは一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「うん。屋根、少しだけあるよ」
案内された家は、廃屋というには手が入っていた。
床には乾いた草が敷かれ、雨漏りする場所には板が渡してある。隅には木の実や芋が籠に入れられていた。割れた皿を並べた棚もある。どれも貧しいが、必死に暮らしてきた跡があった。
ミラは火打ち石を使い、小さな火を起こした。
鍋に水を注ぎ、薄く切った芋を入れる。
「水は?」
「雨水。大丈夫。ちゃんと布でこしてる」
レインは鍋を見た。
鑑定すると、少し土の匂いはあるが毒はない。飲める。
「手伝うよ」
「お客さんなのに?」
「泊めてもらうんだから、それくらいは」
レインは持っていた保存食を少し出した。硬焼きパンと乾燥肉。ミラは目を丸くした。
「いいの?」
「一人じゃ食べきれない」
本当は食べきれる。だが、ミラの細い腕を見ると、そう言うしかなかった。
二人で食べた食事は、王都の宿で出るものに比べればひどく質素だった。芋は固く、乾燥肉は塩辛い。硬焼きパンは顎が痛くなるほどだった。
それでも、ミラは大事そうに食べた。
「おいしい」
「そうか?」
「うん。誰かと食べると、味が違う」
レインは黙ってスープを飲んだ。
勇者パーティーにいた時も、食事は仲間と取っていた。けれど、そこに自分の居場所があったかと聞かれると、すぐには頷けない。いつも端に座り、皆の装備や体調を気にしながら、会話には入れなかった。
ミラは、そんなレインを不思議そうに見ていた。
「レインは、どうしてこの村に来たの?」
「古い地図に載っていたんだ。一晩休める場所があればと思って」
「それだけ?」
「それだけだ」
言ってから、レインは少し笑った。
「俺は今日、仕事を失った。行く場所がなかっただけだ」
「仕事?」
「勇者パーティーの鑑定士をしていた」
「勇者……すごい人?」
「世間では、そう言われてる」
「レインも、すごい人?」
レインは首を横に振った。
「俺は違う。戦えないし、魔法も使えない。役立たずだって言われて、追い出された」
ミラは眉を寄せた。
「役立たずじゃないよ」
「会ったばかりだろ」
「でも、井戸の声を聞いた。私以外で初めて」
その言葉に、レインは息を止めた。
ミラは真剣な顔で続ける。
「この村は、ずっと誰かに気づいてほしかったんだと思う。だから、レインを呼んだのかもしれない」
「村が、人を呼ぶわけないだろ」
「でも、来たよ」
ミラは微笑んだ。
「レインが来てくれた」
レインは返す言葉を見つけられなかった。
夜が深くなるにつれ、村はますます静かになった。
焚き火の音だけが、家の中に小さく響く。
ミラは疲れていたのか、壁際で丸くなって眠った。
レインは眠れなかった。
この村を出るべきだ。
朝になったら、ミラに保存食を少し渡し、次の宿場へ向かう。
自分一人で抱えられる問題ではない。王国が関わっているならなおさらだ。
そう決めたはずだった。
だが、ミラが眠る横顔を見ると、胸が重くなる。
「誰かが来てくれたの、初めてだったから」
あの言葉が、耳から離れない。
レインは静かに立ち上がり、外へ出た。
夜のエルネ村は、昼間よりも不気味だった。
崩れた家々が黒い影になり、井戸だけが月明かりを受けて白く浮かび上がっている。
その時、村の外れで何かが光った。
金属の反射だ。
レインは短剣を抜き、慎重に近づいた。
壊れた柵の向こう。
背の高い草の中に、人が倒れていた。
鎧を着ている。
胸には王国アストレアの紋章。
王国兵だった。
すでに息はない。死んでから数日は経っているようだった。
レインは喉を鳴らし、兵士の手元を見た。
硬く握られた指の間に、羊皮紙が挟まっている。
無理に開くと、血で汚れた命令書が出てきた。
月明かりの下、レインはそこに書かれた文字を読んだ。
「ルミナリア遺構を確認せよ。生存者がいた場合、速やかに処分せよ」
レインの手から、命令書が落ちかけた。
生存者。
処分。
それが誰を指すのか、考えるまでもなかった。
背後で、小さな足音がした。
振り返ると、ミラが家の入口に立っていた。
不安げに、レインと王国兵の死体を見ている。
「レイン……?」
レインは命令書を握りしめた。
朝になったら出ていく。
その選択肢は、もう消えていた。




