第4話 地図にない廃村
エルネ村へ向かう道は、地図に描かれているよりもずっと細かった。
乗合馬車を降りたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
御者は「この先は馬車じゃ無理だ」と言い、街道脇の古い道標を指さした。
道標には、ほとんど読めない文字が刻まれている。
苔に覆われ、風雨に削られ、長い間、誰にも見向きされてこなかったようだった。
レインは古地図と道標を見比べた。
「この先が、エルネ村か」
「やめといたほうがいいと思うがな」
御者が渋い顔をした。
「その辺りは、もう誰も住んじゃいない。昔は小さな村があったらしいが、今じゃ廃村だ。獣も出る。夜になる前に、次の宿場まで歩いたほうがいい」
「宿場までは?」
「歩けば半日」
レインは空を見た。
今から半日歩けば、完全に夜になる。森道で魔物に出くわす危険もある。
それなら、廃村でも屋根のある場所を探した方がまだましだ。
「一晩だけ休める場所を探すよ」
「物好きだな」
御者は肩をすくめた。
「まあ、あんたには助けられた。これ以上止めはしねえ。気をつけろよ、鑑定士さん」
「ああ。そっちも車輪、早めに直した方がいい」
「わかってるよ。今度はちゃんと聞く」
御者は苦笑し、馬車を街道の先へ進めていった。
レインは一人、道標の先へ足を踏み入れた。
細い道は、森の中へ続いていた。
人が通らなくなって久しいのだろう。足元には雑草が伸び、木の根が土を割っている。ところどころ石畳の名残があるが、大半は泥と落ち葉に埋もれていた。
枝葉の隙間から差し込む夕日が、赤く細い線になって道を照らす。
レインは古地図を何度も確認しながら進んだ。
地図では、街道から村までそれほど遠くない。だが実際には、道が何度も曲がり、倒木に塞がれ、迂回を強いられた。
「本当に、こんなところに村があるのか」
呟いた声は、森に吸い込まれた。
王都を出てから、何度も同じことを考えている。
これからどうするのか。
どこへ行くのか。
何のために、自分はまだ歩いているのか。
勇者パーティーに戻りたいわけではない。
戻れるとも思っていない。
だが、鑑定士としてどこかの商会に雇われるにしても、王都での評判はカイルたちの影響を受けるだろう。勇者パーティーを外された鑑定士。戦えない役立たず。そういう噂は、広まるのが早い。
辺境なら、自分を知る者はいない。
そう思ってここまで来た。
けれど、それは希望というより、逃げ道に近かった。
やがて森が開けた。
レインは足を止めた。
そこに、村があった。
いや、村だったものがあった。
朽ちた木柵。
崩れた家々。
屋根の抜けた納屋。
雑草に覆われた畑。
傾いた見張り台。
夕暮れの光の中で、廃村はまるで息を殺しているように静かだった。
鳥の声すら聞こえない。
風が吹いているのに、草の揺れる音だけが妙にはっきり響く。
「ここが、エルネ村……」
レインは村の入口に立つ。
木の門は半分朽ち落ち、片側だけが斜めに残っていた。
門柱には何かの紋章が刻まれていたようだが、削れていて判別できない。
念のため、レインは門柱に触れた。
「鑑定」
すぐに情報が流れ込んでくる。
材質。
劣化具合。
破損原因。
残留魔力。
古い樫材。百年以上経過。火災痕あり。刃物による損傷あり。魔力反応、微弱。
そこまでは普通だった。
だが次の瞬間、レインの視界に赤黒い光がちらついた。
炎。
悲鳴。
誰かが門を閉めようとしている。
外から、鎧をまとった兵たちが押し寄せてくる。
「うっ……!」
レインは思わず手を離した。
心臓が強く鳴っている。
今のは何だ。鑑定で、映像が見えた。
いや、気のせいかもしれない。疲れているのだ。今日は色々ありすぎた。
そう自分に言い聞かせ、レインは村の中へ入った。
家々はほとんど使えそうになかった。
壁が崩れているもの。床が抜けているもの。扉がなくなっているもの。
人が暮らしていた痕跡はあるが、どれも古い。
ある家の前には、割れた皿が落ちていた。
別の家には、小さな木馬の玩具が転がっていた。
畑の隅には、錆びた鍬が半分土に埋もれている。
突然人が消えたような村だった。
長い年月が経っているのに、なぜか生活の途中だけが置き去りにされている。
レインは背筋に冷たいものを感じた。
村の中央まで進むと、古い井戸があった。
石組みの井戸だ。
周囲には雑草が生い茂り、滑車は錆びつき、桶は壊れている。
それでも井戸そのものは崩れていなかった。
レインは喉の渇きを覚えた。
だが水が飲めるかどうかは確認しなければならない。
井戸の縁に手を置き、いつものように鑑定を発動する。
「鑑定」
その瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
流れ込んできた情報は、いつものものではなかった。
水質。
深度。
石材の劣化。
そうした数値や状態ではない。
文字が浮かんだ。
暗い水面の底から、にじみ出るように。
「この井戸は、百年前、百二十三人の最後の声を聞いた」
レインは息を止めた。
意味がわからなかった。
井戸が声を聞いた?
百二十三人?
最後の声?
鑑定とは、物の状態を見る力のはずだ。
少なくともレインは、ずっとそう思ってきた。
こんな文章が見えたことは、一度もない。
レインはもう一度、井戸を鑑定しようとした。
その瞬間、視界が暗く染まった。
火の粉が舞っている。
誰かが泣いている。
小さな子どもを抱えた女が、井戸のそばで膝をつく。
背後では、鎧の足音が近づいてくる。
誰かが叫んだ。
地下へ。
早く、地下へ。
次の瞬間、映像は消えた。
レインは井戸の縁から手を離し、よろめいた。
冷や汗が額を伝う。
呼吸が荒い。
まるで自分がその場にいたかのように、炎の熱と悲鳴の残響が体に残っていた。
「何なんだよ……この村は」
問いかけに答える者はいない。
いや。
井戸の底から、かすかな音がした。
水音ではない。
風でもない。
声だった。
「……また」
レインは凍りついた。
井戸の底を覗き込む。
暗くて何も見えない。水面らしきものが、わずかに揺れているだけだ。
それでも、声は確かに聞こえた。
「また、王国が来るの?」
幼い少女の声だった。
レインは短剣に手をかけ、周囲を見回す。
「誰だ?」
返事はない。
崩れた家々が夕闇の中で沈黙している。
畑の草が風に揺れる。
見張り台の影が、長く地面に伸びている。
「隠れているなら、出てきてくれ。俺は王国兵じゃない」
その言葉を口にした瞬間、背後の草むらが揺れた。
レインは振り返る。
崩れた家の陰に、一人の少女が立っていた。
白に近い薄い銀色の髪。
古びた布をまとった細い体。
大きな瞳は、警戒と恐怖に揺れている。
少女は、レインをじっと見つめていた。
「本当に……王国の人じゃないの?」
レインは、短剣から手を離した。
「ああ。俺はただの鑑定士だ」
少女は少しだけ首を傾げる。
「鑑定士?」
「物の状態を見る仕事だ。たぶん、君を怖がらせるようなものじゃない」
少女はすぐには近づいてこなかった。
レインも動かなかった。
下手に近づけば逃げられる。あるいは、もっと怯えさせる。
夕日が山の向こうへ沈みかけている。
廃村の影が濃くなる中、少女の髪だけが淡く光って見えた。
「君は、この村の子か?」
レインが尋ねると、少女はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で答える。
「わからない」
「わからない?」
「私は、ここにいる。でも、どうしてここにいるのか、覚えてない」
レインは言葉を失った。
少女は胸元をぎゅっと握りしめる。
「名前は、ミラ」
そして、井戸の方をちらりと見た。
「この村で、ずっと一人だった」
レインは、もう一度井戸を見た。
百年前、百二十三人の最後の声を聞いた井戸。
記憶を失い、廃村で一人暮らす少女。
そして、王国という言葉に怯える理由。
一晩だけ休むつもりだった。
それだけのはずだった。
だがレインは、もうこの村をただの廃村とは思えなくなっていた。




