第3話 王都を去る鑑定士
王都を出たレインは、しばらく街道沿いを歩いていた。
空はよく晴れている。
遠くには、勇者パーティーを見送る鐘の音がまだかすかに響いていた。
その音が聞こえるたび、レインの胸の奥が少しだけ痛んだ。
勇者カイルたちは、今ごろ北の街道を進んでいるはずだ。
白銀の鎧をまとった勇者。
大剣を担いだ剣士。
美しい杖を持つ魔法使い。
人々に祝福される神官。
そこに、自分の姿はもうない。
「……考えても仕方ないか」
レインは足を止め、肩にかけた荷物を持ち直した。
手元にあるのは、着替えが少し。工具袋。鑑定用の手帳。古い短剣。保存食が二日分。銀貨は、以前の報酬で残っていた数枚だけ。
カイルの渡そうとした支度金を受け取っていれば、もう少し楽だったかもしれない。
けれど、あの金を受け取った瞬間、本当に自分の役目が銀貨数枚で終わったような気がしてしまう。
それだけは、どうしても嫌だった。
街道の分かれ道に、小さな停留所があった。
木の看板には、かすれた文字で「辺境方面乗合馬車」と書かれている。
王都から離れる商人や旅人が使う、安い馬車だ。
レインは停留所の前で、古びた馬車を見つけた。
荷台を客席に改造しただけの簡素なものだ。幌はつぎはぎだらけで、車輪には乾いた泥がこびりついている。
「辺境方面、まだ乗れるか?」
御者台に座っていた中年の男が、眠そうな目を上げた。
「銀貨一枚。途中で降りても返金なし。魔物が出たら運が悪かったと思ってくれ」
「ずいぶんな説明だな」
「安い馬車ってのは、そういうもんだ」
レインは苦笑し、銀貨を一枚渡した。
荷台にはすでに数人が座っていた。
大きな布袋を抱えた行商人。
膝に小さな包みを乗せた老婆。
幼い子どもを連れた母親。
そして、深くフードをかぶった若い男。
レインは端の席に腰を下ろした。
馬車がゆっくり動き出す。
王都の城壁が、少しずつ遠ざかっていく。
レインは何度も振り返りそうになり、そのたびに前を向いた。
戻ったところで、何もない。
自分を必要とする場所など、王都にはもうない。
「兄ちゃん、冒険者かい?」
隣の行商人が声をかけてきた。
「一応、そうだった」
「だった?」
「今日、仕事を失った」
「ああ……そいつは悪いことを聞いたな」
行商人は気まずそうに頭をかいた。
だがすぐに、レインの腰の短剣と工具袋に目を向ける。
「戦士って感じじゃないな。細工師か?」
「鑑定士だ」
「鑑定士? へえ。物の値打ちを見るってやつか」
「そんなところだ」
レインは曖昧に答えた。
行商人は少し身を乗り出した。
「じゃあ、この腕輪なんか見られるか? 王都の露店で安く買ったんだが、掘り出し物だったら嬉しい」
差し出された腕輪は、くすんだ銀色をしていた。
表面には魔除けらしき文様が刻まれている。
レインは受け取り、指先で触れた。
「鑑定」
小さく呟くと、腕輪の情報が意識に流れ込んでくる。
材質、劣化具合、込められた魔力。
そして、文様の一部に紛れた別の術式。
「これは魔除けじゃない。盗難避けの印に見せかけた追跡術式だ」
「つ、追跡?」
「持ち主の位置を、術者に知らせる。たぶん盗品だ。買った露店も怪しい」
行商人の顔が青くなった。
「ま、まじかよ」
「すぐ外した方がいい。布に包んで、次の町の衛兵に渡すといい」
レインが腕輪を返すと、行商人は慌てて懐から布を取り出した。
「助かったよ、兄ちゃん。いや、鑑定士ってのは便利なんだな」
「便利、か」
レインは小さく笑った。
勇者パーティーでは、そんなふうに言われたことはなかった。
馬車は王都近郊の整った道を抜け、やがて森沿いの街道へ入った。
道は徐々に悪くなり、車輪が石を踏むたびに荷台が揺れる。
子どもが母親にしがみついた。
老婆は膝の包みを抱え直す。
御者は慣れているのか、欠伸をしながら手綱を操っていた。
その時、レインの耳に、かすかな軋みが届いた。
木が擦れる音。
車輪の回転に合わせて、一定の間隔で鳴っている。
レインは荷台から身を乗り出し、後ろの車輪を見た。
「御者さん、少し止めてくれ」
「あ?」
「左後ろの車輪の軸が傷んでる。このまま進むと折れる」
御者は面倒そうに振り返った。
「さっき出る前に見た。問題ねえよ」
「外側は問題ない。でも軸の内側に割れがある」
「兄ちゃん、俺は二十年馬車を走らせてんだ。乗ったばかりの客に言われなくてもわかる」
御者は取り合わなかった。
レインは唇を引き結ぶ。
まただ。
また、自分の言葉は届かない。
それでも、放っておくわけにはいかなかった。
「せめて速度を落としてくれ。森道に入る前だけでも」
「心配性だねえ」
御者は文句を言いながらも、少しだけ馬の速度を落とした。
その直後だった。
森の奥で、鳥が一斉に飛び立った。
レインは反射的に顔を上げる。
空気が変わった。
湿った獣の匂い。
下草を踏みしめる重い足音。
「止まれ!」
レインが叫んだ瞬間、森の中から黒い影が飛び出した。
狼に似た魔物だった。
ただし大きさは普通の狼の倍以上ある。背中には硬い棘が並び、口元からは黒い涎が垂れていた。
母親が悲鳴を上げる。
御者が手綱を引く。
馬が暴れ、馬車が大きく傾いた。
「くそっ、魔狼だ!」
行商人が荷物を抱えてうずくまる。
魔狼は低く唸りながら、馬車の前に回り込んだ。
御者は腰の短剣を抜いたが、手が震えている。戦える者など、この馬車にはいない。
レインも短剣に手を伸ばしかけた。
だが、自分が真正面から挑んでも勝てない。
そんなことはわかっている。
だから、見る。
レインは魔狼に意識を集中させた。
「鑑定」
魔狼の情報が断片的に流れ込む。
種族、状態、傷、習性。
左後ろ脚に古傷。
聴覚過敏。
腹部に飢餓反応。
群れからはぐれ、興奮状態。
倒す必要はない。
遠ざければいい。
「御者さん、馬を右へ寄せて。全員、耳を塞げ!」
「はあ!?」
「早く!」
レインは行商人の荷物から、金属製の鍋を見つけた。
許可を取る余裕はない。鍋と鉄の留め具を掴み、馬車の縁に立つ。
魔狼が跳びかかろうと身を沈めた。
レインは息を吸い、鍋を全力で叩いた。
甲高い音が森に響く。
魔狼がびくりと身を震わせた。
もう一度。
さらにもう一度。
音は金属的で、耳を刺す。
荷台の客たちは悲鳴を上げながら耳を塞いだ。
魔狼は苦しそうに頭を振り、左後ろ脚をかばうように後退する。
レインは音を鳴らし続けながら、馬車の反対側へ誘導した。
「今だ、走って!」
御者が手綱を打った。
馬車が動き出す。
速度を落としていたおかげで、傷んだ車輪はかろうじて持ちこたえた。
馬車は魔狼の横を抜け、森道を駆けていく。
しばらくして、魔狼の唸り声は遠ざかった。
荷台には、荒い息だけが残った。
レインは鍋を抱えたまま、座り込んだ。
手が震えている。膝にも力が入らない。
「た、助かったのか?」
行商人が呟いた。
御者が馬車を止め、左後ろの車輪を確認する。
彼の顔色が変わった。
「……軸が割れてやがる」
レインが言った通りだった。
御者はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「悪かった。あんたの言うことを最初から聞くべきだった」
「いや、止められなかったし、魔物も倒してない。ただ逃げただけだ」
「逃げられたから生きてるんだろうが」
行商人が笑った。
老婆も静かに頷く。
「立派なものだよ、若いの」
母親は泣きながら、子どもの頭を撫でていた。
「ありがとうございます」
その言葉に、レインは返事ができなかった。
ありがとう。
助かった。
立派だ。
そんな言葉を向けられることに、慣れていなかった。
御者は応急修理を終えると、荷台の下から古い地図を取り出した。
「礼になるかはわからんが、これを持っていけ。辺境の古地図だ。昔の村や廃道が載ってる」
「いいのか?」
「あんたがいなきゃ、俺たちは森で魔狼の餌だった」
レインは地図を受け取った。
古びた羊皮紙には、今の地図には載っていない小さな村名がいくつも記されている。
その中の一つが、ほとんど消えかけた文字で書かれていた。
「エルネ村……」
なぜか、その名前から目が離せなかった。
馬車は再び、辺境へ向かって進み出す。
王都はもう見えない。
勇者パーティーの歓声も聞こえない。
けれど、レインの手の中には古い地図がある。
そしてその地図の片隅に、まるで自分を待っていたかのような、地図に忘れられた村の名があった。




