第43話 勇者と鑑定士
エルネ村に旅人たちが来た日の夕方、カイルが一人で井戸の前に立っていた。
勇者パーティーは王都へ向かう準備をしている。
ヴァルガスが逃げた以上、王都で何が起きるかわからない。封印の間で送られた記録石の内容が届いていたとしても、宰相ほどの男なら、それを偽造だと片づける手も用意しているはずだった。
だから、勇者本人の証言が必要になる。
王国に選ばれた勇者が、王国の嘘を語る。
それは、カイルにとって剣で魔物を斬るよりもずっと重い戦いだった。
「出発は明朝か」
背後から声がした。
振り返ると、レインが立っていた。
手には工具袋。井戸の滑車を直していたのだろう。指先には油と泥がついている。
「ああ」
カイルは頷いた。
「王都へ戻る。リシアたちも一緒だ」
「危険だぞ」
「わかっている」
「ヴァルガスは逃げた。先に王都へ戻って、自分に都合のいい話を作っているはずだ」
「それもわかっている」
カイルは井戸の水面を見た。
澄んだ水が夕焼けを映している。
王都を出る時、カイルは自分が世界を救う勇者だと疑っていなかった。
だが今は違う。
自分が何を救おうとしていたのか。誰の物語に乗せられていたのか。何も見えていなかった。
「それでも戻るのか」
レインが尋ねた。
「ああ」
カイルは静かに答えた。
「俺は王国の勇者として称えられてきた。民は俺の言葉を聞く。なら、その立場で言わなければならないことがある」
「王国に利用された勇者が、王国の嘘を暴くのか」
「皮肉だな」
「かなりな」
レインの声は淡々としていた。
カイルは小さく笑った。
以前なら、その言い方に苛立っていたかもしれない。だが今は、そこにある距離を当然のものとして受け止められた。
二人の間には、まだ消えないものがある。
王都の北門。
追放宣告。
仲間たちの沈黙。
渡されかけた支度金。
あの日、レインが一人で門を離れていった背中。
謝ったからといって、なかったことにはならない。
「レイン」
カイルは口を開いた。
「もう一度、言わせてほしい」
「謝罪なら、封印の間で聞いた」
「それでも言う」
レインは少しだけ眉を動かしたが、止めなかった。
カイルは深く頭を下げた。
「すまなかった。俺はお前を見ていなかった。鑑定士という役割だけを見て、戦えないという一点だけで価値を決めた。お前が何を守っていたのか、何を防いでいたのか、知ろうともしなかった」
井戸の水音が、静かに響く。
「許してくれとは言わない」
カイルは頭を下げたまま続けた。
「ただ、俺はもう同じことをしない。誰かを役割だけで切り捨てる勇者には戻らない」
しばらく沈黙があった。
やがて、レインの声がした。
「頭を上げろ」
カイルは顔を上げた。
レインは井戸の縁に腰を下ろし、夕焼けの方を見ていた。
「正直、まだ腹は立ってる」
「ああ」
「思い出すと、胸の奥が冷えることもある。自分には価値がないんだと、本気で思った」
「……すまない」
「だから、簡単には許せない」
その言葉は、まっすぐだった。
カイルは黙って受け止めた。
レインは続ける。
「でも、封印の間で、お前は立ち止まった。王国の命令に背いて、扉を開けなかった。俺の背中も守った」
「それで償えるとは思っていない」
「償いじゃない」
レインはカイルを見た。
「それは、今のお前が何を選ぶかの話だ。俺を追放した過去は消えない。でも、今のお前が王国の嘘を暴こうとしていることも、嘘じゃない」
カイルは息を止めた。
レインの言葉は、許しではなかった。
だが、拒絶だけでもなかった。
それが今の二人にとって、たぶん一番誠実な距離だった。
「俺はエルネ村に残る」
レインは言った。
「井戸を見なきゃいけない。畑もある。旅人たちも来始めた。ミラの首飾りと封印の安定も確かめ続ける必要がある」
「ああ」
「だから、王都はお前に任せる」
カイルは目を見開いた。
「俺に?」
「勇者の言葉は重いんだろう」
レインは少しだけ皮肉っぽく言った。
「だったら、今度は正しく使え」
その言葉に、カイルの胸が熱くなった。
「わかった」
カイルは頷く。
「必ず伝える。ルミナリアは悪ではなかったこと。魔王ゼルグレイスは封印を守っていたこと。王国が俺たちを利用しようとしたこと。ミラを鍵として奪おうとしたこと」
「伝え方には気をつけろ」
「わかっている。いきなり全部話しても、民は混乱する」
「それだけじゃない」
レインは井戸の水を見た。
「真実は、ただ投げつければいいものじゃない。受け取る側にも時間がいる。王国に都合よく歪められないよう、証拠と順番が必要だ」
「証拠か」
「記録石、命令書、研究機関の資料、封印部隊の装備。ゼルグレイスやノルの記録も複写できる。俺も、見たものを手帳にまとめておく」
「君は王都には来ないのか」
「今は行かない」
レインははっきり言った。
「俺が行けば、ヴァルガスは俺を標的にする。ミラも危険になる。それに、俺は王都の民にとっては無名の鑑定士だ。最初に声を上げるのは、勇者の方がいい」
カイルは苦笑した。
「また役割の話だな」
「今回は、自分で選ぶ役割だ」
その言葉に、カイルは静かに頷いた。
そうだ。
役割そのものが悪いのではない。
誰かに押しつけられ、道具として使われることが問題なのだ。
勇者。
鑑定士。
王女の血を継ぐ少女。
魔王。
どの名も、誰かを縛る鎖にもなれば、自分で選んだ旗にもなる。
「レイン」
「何だ」
「俺は、勇者でいたい」
レインは少し意外そうにカイルを見た。
「王国の剣としてじゃない。命令に従うだけの勇者でもない。間違えた時に立ち止まり、守るべきものを選び直せる勇者でいたい」
レインは黙っていた。
カイルは続ける。
「そのために、俺にはまだ見えないものが多すぎる。だから、また間違えそうになったら、止めてほしい」
「都合がいい頼みだな」
「ああ。そう思う」
「俺は、もうお前のパーティーの鑑定士じゃない」
「わかっている」
「命令も聞かない」
「それもわかっている」
「必要だと思えば、勇者相手でも容赦なく止める」
カイルは少し笑った。
「それが一番助かる」
レインは呆れたように息を吐いた。
「変わったな」
「遅すぎたけどな」
「遅くても、変わらないよりはいい」
その言葉は静かだった。
カイルは、胸の奥にあった重い石が少しだけ動いた気がした。
そこへ、ミラが井戸の方へやって来た。
「レイン、旅人さんたちに水を配ってきたよ」
彼女はカイルに気づき、少しだけ足を止めた。
まだ警戒は残っている。
けれど、以前のような怯えだけではなかった。
カイルはミラへ向き直る。
「ミラ」
「はい」
「王都で、君のことも話す。王国が君を鍵として扱おうとしたことも」
ミラは首飾りに触れた。
「私は、王女じゃなくて、エルネ村のミラです」
「ああ」
カイルは頷いた。
「そう伝える」
ミラは少し考えてから言った。
「伝えるなら、王女ミラのことも、悪く言わないでください」
「もちろんだ」
「ゼルグレイスさんのことも」
「約束する」
ミラは少しだけ安心したように笑った。
「なら、お願いします。勇者さん」
カイルはその呼び方に、以前とは違う重さを感じた。
勇者さん。
それは称賛ではなく、依頼だった。
剣を振るうだけではなく、真実を運ぶ者として呼ばれた名だった。
「任せてくれ」
カイルは答えた。
やがて、リシアたちが旅支度を終えて広場へ集まった。
ダリオはレインを見ると、照れくさそうに頭をかいた。
「その、なんだ。王都で一発、でかい声出してくるわ」
「余計なことは言うなよ」
「お前、俺を何だと思ってる」
「余計なことを言う剣士」
「否定できねえのが腹立つな」
リシアはレインに小さな包みを渡した。
「魔石灯の予備よ。地下で使えると思う」
「助かる」
「……前に、あなたの道具の手入れを当たり前みたいに受け取っていたこと、今さらだけど恥ずかしいと思ってる」
「そうか」
「だから、これはお礼。少し遅すぎるけど」
レインは包みを受け取った。
「使わせてもらう」
エリオットは深く頭を下げ、マルクもぎこちなく続いた。
彼らの謝罪も、後悔も、すぐにすべてを修復するものではない。
けれど、何かが少しずつ変わっているのは確かだった。
朝日が村の入口を照らし始めた。
勇者パーティーは王都へ向かう。
レインたちはエルネ村に残る。
同じ目的を持ちながら、別々の場所で戦うことになる。
カイルは最後にレインへ手を差し出した。
レインはその手を見た。
一瞬、王都の北門で差し出された革袋を思い出した。
あの時の手は、別れを押しつける手だった。
今の手は違う。
対等な約束を求める手だった。
レインは少しだけ迷い、それから手を握った。
「王都を頼む」
「エルネ村を頼む」
二人の手が離れる。
勇者と鑑定士。
かつて同じパーティーにいながら、互いを見誤った二人。
今は別の道に立ちながら、同じ真実を守ろうとしている。
カイルたちが村を出ていく。
その背中を見送りながら、ミラがぽつりと言った。
「また会えるかな」
レインは答えた。
「会えるさ。たぶん」
「そのたぶんは?」
「今回は、少し信用していい」
ミラは笑った。
井戸の水面が、朝の光を受けて揺れる。
勇者は王都へ。
鑑定士は水の村へ。
世界の嘘を暴く戦いは、ここから二つの道に分かれて進み始めた。




