第44話 役立たず鑑定士の村
エルネ村に最初の旅人たちが来た翌日、レインは朝から井戸のそばに立っていた。
水を求めて来たのは、親子三人と老人、それから足に怪我をした若い男だった。
彼らは王国の北方街道から外れ、森を抜けてここまで来たという。
理由は、どれも似ていた。
村が魔物に襲われた。
税が払えず土地を追われた。
王国軍の徴発で家畜を持っていかれた。
病人を抱えて、町に入る金もなかった。
エルネ村はまだ、誰かを受け入れられるほど豊かな場所ではない。
家は壊れ、畑は荒れ、食料も少ない。
井戸の水が戻ったとはいえ、村全体を支えるには何もかも足りなかった。
それでも、レインは彼らを追い返せなかった。
「水は飲める。ただし、最初は少しずつだ。体が弱っているなら、一気に飲むと腹を壊す」
レインが木の器に水を汲むと、幼い男の子が目を丸くした。
「ほんとうに飲んでいいの?」
「ああ。煮沸したものなら、もっと安全だ」
「にふつ?」
「火にかけて沸かすことだ」
男の子はよくわからない顔のまま、水を両手で受け取った。
一口飲んだ瞬間、その表情が変わる。
「おいしい」
それを聞いて、ミラが嬉しそうに笑った。
「でしょ。ここの水、少し甘いんだよ」
「水って甘いの?」
「私も、最初はそう思った」
ミラは井戸の縁をそっと撫でる。
以前なら、彼女は井戸に近づくことさえ怖がっていた。
夜になると声が聞こえ、泣いていると怯えていた。
けれど今は違う。
井戸はまだ過去を抱えている。
百年前の声も、完全に消えたわけではない。
それでも、ミラは井戸を怖いものだけとは思わなくなっていた。
水をくれるもの。
人を生かすもの。
この村がもう一度始まるための中心。
そう思えるようになっていた。
レインは旅人たちの荷物を見た。
破れた袋。
濡れた毛布。
欠けた鍋。
錆びた小刀。
薬草の入った小瓶。
ほとんどが限界だった。
「荷物を見てもいいか?」
若い男が警戒した。
「何をする気だ」
「壊れているものと、まだ使えるものを分ける。食べられないものが混じっていないかも見る」
「盗るのか?」
「盗らない」
レインは淡々と答えた。
「俺は鑑定士だ」
その言葉を聞いた瞬間、若い男の表情に落胆が浮かんだ。
「鑑定士か……」
その声には、隠しきれない軽さがあった。
戦士でもない。
魔法使いでもない。
神官でもない。
ただの鑑定士。
レインは、その反応に慣れていた。
王都でも、勇者パーティーでも、何度も向けられてきた目だった。
役に立つのか。
戦えるのか。
いざという時、何ができるのか。
だが、今のレインは昔のように俯かなかった。
「その小瓶、開けない方がいい」
レインは若い男の腰袋を指さした。
「え?」
「薬草だと思って持っているんだろうが、中に眠り苔が混じっている。煎じ方を間違えると、半日以上動けなくなる」
若い男の顔色が変わった。
「これ、町の薬売りから買ったんだぞ」
「たぶん、薬売りも気づいていない。乾燥すると見分けにくいからな」
レインは小瓶を受け取り、中身を布の上に広げた。
葉の色。
茎の曲がり。
わずかな匂い。
鑑定で状態を確かめながら、使える薬草と危険なものを分けていく。
セラが横から覗き込んだ。
「合っているわ。こっちは熱冷まし。こっちは腹痛止め。こっちが眠り苔ね」
「薬師さんもいるのか?」
老人が驚いたように言う。
「元、だけれどね」
セラは短く答えた。
「ここでは薬師でいい。怪我を見せて。歩き方がおかしいわ」
若い男は戸惑いながらも、足を差し出した。
セラが包帯を外すと、傷口は赤く腫れていた。
「よくここまで歩いたわね」
「歩かなきゃ、死ぬだけだったから」
「死にたいなら止めないけれど、ここまで来たなら治しなさい」
「言い方……」
ガルドが呆れたように呟く。
セラは振り返らない。
「あなたも後で腕を診るわよ」
「俺は何も言ってねえだろ」
「顔が言っていたわ」
「薬師ってのは顔まで診るのか」
「必要ならね」
旅人たちは、そのやり取りを聞いて少しだけ笑った。
張りつめていた空気が緩む。
レインはその間に、彼らの鍋を鑑定した。
底に小さな亀裂。
火にかければ漏れる。
だが、銅片を当てて叩けば一時的には使える。
「ガルド、この鍋を直せるか?」
「俺は鍛冶屋じゃねえぞ」
「斧の刃を直していた」
「あれは感覚だ」
「なら、感覚で頼む」
「便利に使いやがって」
文句を言いながらも、ガルドは鍋を受け取った。
大きな手で亀裂を確かめ、壊れた農具から使えそうな金具を外す。
「銅片があればな」
「旧倉庫に残っていた」
レインが工具袋から出すと、ガルドはにやりと笑った。
「準備がいいじゃねえか、村長」
「村長じゃない」
「じゃあ、何だ」
「鑑定士だ」
「役立たず鑑定士の村、ってわけか」
ガルドは冗談のつもりで言ったのだろう。
だが、その言葉に旅人たちが一瞬、黙った。
役立たず。
その言葉は、まだレインの胸の奥に刺さる。
けれど、ミラがすぐに言った。
「違うよ」
彼女は井戸のそばに立ち、まっすぐガルドを見た。
「ここは、役立たずじゃない鑑定士の村」
ガルドが目を丸くする。
「俺は冗談で」
「知ってる。でも、レインは役立たずじゃない」
ミラは真剣だった。
「井戸を直した。森で部品を見つけた。王国の嘘を見抜いた。封印も読んだ。私を鍵じゃなくて、ミラって呼んでくれた」
彼女の声に迷いはなかった。
「だから、この村は役立たず鑑定士の村じゃない。役立たずって言われた鑑定士が、役に立つことを一つずつ見つけた村だよ」
広場が静まり返った。
レインは、何を言えばいいかわからなかった。
ガルドが照れくさそうに頭をかく。
「悪かったよ。言い方が雑だった」
「いつも雑」
「そこまで言うか」
ミラは少しだけ笑った。
旅人の男の子が、レインを見上げた。
「鑑定士さんって、すごいの?」
レインは答えに詰まる。
以前なら、すごくはない、と即座に言っていただろう。
戦えないし、魔法も使えない。勇者パーティーを追放された役立たずだと。
けれど、今はそう言いたくなかった。
「すごいかどうかは、わからない」
レインはしゃがんで、男の子の目線に合わせた。
「でも、壊れたものがどこで壊れているかは見える。危ないものがなぜ危ないかも、少しわかる。水が飲めるかどうかも調べられる」
「じゃあ、すごいよ」
「そうか?」
「うん。だって、お水飲めたもん」
その言葉は単純だった。
でも、レインの胸には深く届いた。
勇者パーティーで求められた強さとは違う。
魔王を斬る力でも、魔法で敵を焼く力でもない。
けれど、誰かが水を飲めるようになる力。
壊れた鍋を直し、毒を避け、眠れる場所を探す力。
それも、確かに人を救う。
レインはようやく、少しだけそう思えた。
午後になると、村の仕事は一気に増えた。
旅人たちに休む場所を用意しなければならない。
壊れた家の中から、屋根が落ちにくいものを選ぶ。
床板が腐っていないか確かめる。
壁の隙間を布で塞ぐ。
井戸水を沸かす。
セラの指示で、怪我人と健康な者の寝床を分ける。
レインは村の地図を広げ、使える家に印をつけていった。
「この家はだめだ。梁が腐っている。次の強い雨で落ちる」
「じゃあ壊すか」
ガルドが言う。
「壊した木材は使える。屋根の補修に回す」
「こっちは?」
「床下に獣が巣を作っている。煙で追い出してからだ」
「魔物か?」
「普通の穴狐だ。たぶん」
「そのたぶんは信用していいのか?」
「牙の大きさから見て、半分くらい」
「半分かよ」
ガルドは斧を担ぎ、文句を言いながらも動いた。
ミラは旅人の子どもたちに井戸の使い方を教えていた。
「桶はゆっくり下ろして。急に落とすと石にぶつかるから」
「ミラお姉ちゃんは、ずっとここにいたの?」
女の子が尋ねる。
ミラは少しだけ迷い、それから頷いた。
「うん。ずっと一人だった。でも、今は一人じゃない」
「さびしくない?」
「たまに怖くなる。でも、もう平気」
「どうして?」
ミラは井戸の向こうにいるレインたちを見た。
「呼んだら、誰かが返事してくれるから」
その言葉に、レインは手を止めた。
ミラは気づいていない。
けれど、その言葉は、レインにとっても同じだった。
勇者パーティーにいた頃、彼はいつもそこにいた。
だが、声を出しても届いていない気がしていた。
危険を伝えても、面倒だと流される。
異常を見つけても、臆病だと笑われる。
今は違う。
レインが「ここは危ない」と言えば、ガルドが動く。
「薬草に毒が混じっている」と言えば、セラが確認する。
「井戸の水を大事に使おう」と言えば、ミラが子どもたちに教える。
自分の声が、誰かに届いている。
それだけで、ここは居場所になっていく。
夕方、修理した鍋で大きなスープを作った。
芋。
野草。
旅人が持っていた豆。
セラが選んだ香草。
ほんの少しの干し肉。
質素なものだったが、人数が増えた分だけ湯気も多く、広場には久しぶりに村らしい匂いが広がった。
旅人たちは、井戸のそばで器を受け取った。
老人がスープを一口飲み、目を閉じる。
「生き返るようだ」
若い男も、包帯を巻いた足を伸ばしながら呟いた。
「こんな廃村で、温かいものが食えるとは思わなかった」
「廃村じゃない」
ミラが言った。
男は少し驚いて彼女を見る。
ミラは少し恥ずかしそうにしながらも、言い直した。
「まだ壊れてるけど、廃村じゃない。エルネ村」
男はしばらく黙っていた。
やがて、器を両手で持ち直す。
「そうだな。悪かった。エルネ村だ」
ミラは嬉しそうに笑った。
その夜、村には久しぶりに複数の寝息が戻った。
壊れた家の中に人が眠り、焚き火の周りで見張りが立ち、井戸の水面には星が映っている。
レインは一人、井戸のそばで手帳を開いていた。
今日見たことを書き留める。
旅人五名。
うち一名、足の傷。セラが処置。
鍋一つ修理。
使用可能な家、三軒。
危険な家、七軒。
畑の拡張候補、南側。
井戸水の使用量、増加。浄化魔導具の負荷を明日確認。
書いていると、ノルがふわりと隣に来た。
「村の記録か」
「ああ」
「王国へ提出する台帳でもあるまいに、細かいな」
「細かい記録がないと、あとで困る」
「ふむ。よい傾向だ」
「上からだな」
「わしは浮いておるからな」
レインは苦笑した。
ノルは井戸を見下ろす。
「この村は、変わるぞ」
「いい方向にか?」
「それは、おぬしたち次第だ」
珍しく、ノルは断言しなかった。
「水があれば人は集まる。人が集まれば、助け合いも生まれるが、争いも生まれる。王国の目も向く。真実を求める者も来る。逃げ場所を求める者も来る」
「簡単じゃないな」
「当然だ。村を作るとは、井戸を直すより難しい」
レインは手帳を閉じた。
「でも、やるしかない」
「なぜだ」
「ここを、帰る場所にしたいからだ」
ノルはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ光を柔らかくする。
「ならば、記録しておこう。役立たずと呼ばれた鑑定士は、水の戻った村で、帰る場所を作り始めた」
「その書き方はやめろ」
「気に入らぬか」
「少しだけ」
「では、こうだ」
ノルは空中に淡い文字を浮かべた。
――真実を読む鑑定士、エルネ村再建を開始。
レインはその文字を見て、少しだけ息を吐いた。
「大げさだ」
「歴史とは、少し大げさなくらいでちょうどよい」
ノルは得意げに光った。
遠くで、子どもの寝言が聞こえた。
ミラの笑い声も、かすかに聞こえた。
セラが薬瓶を片づける音。
ガルドが見張り台で大きなくしゃみをする音。
レインは顔を上げる。
エルネ村は、まだ壊れている。
王国の嘘も、ヴァルガスの影も、消えてはいない。
封印の問題も、王都での戦いも、これからだ。
それでも、ここには水があり、火があり、人が眠っている。
それだけで、村は始まる。
かつて役立たずと呼ばれた鑑定士は、井戸の水面に映る星を見つめた。
そして静かに思った。
自分はもう、追放された場所を振り返ってばかりはいない。
ここに、守りたい村がある。
ここに、自分の声が届く人たちがいる。
役立たず鑑定士の村。
誰かがそう呼ぶなら、それでもいい。
いつかその言葉を、まったく別の意味に変えてみせる。
レインは手帳を開き、最後に一行を書き足した。
エルネ村、再建一日目。
井戸、異常なし。
人の気配、あり。




