第42話 ミラの選択
エルネ村へ戻った時、空は薄い朝焼けに染まっていた。
地下避難路を抜け、森の細道を通り、崩れた門の前まで来た瞬間、ミラは思わず足を止めた。
廃村だったはずの場所。
夜になると井戸が泣き、風が壊れた家々を鳴らし、誰も自分の名前を呼んでくれなかった場所。
けれど今は違う。
井戸の水は澄み、畑には掘り返された土の跡があり、広場の脇には干した薬草が揺れている。崩れた門の内側には、ガルドが作った雑な鳴子が吊るされていた。
「……帰ってきた」
ミラが小さく呟いた。
その声に、レインは隣で頷いた。
「ああ。帰ってきた」
帰ってきた。
その言葉が、ミラの胸に温かく沈んでいく。
以前のミラに、帰る場所などなかった。
ここにいただけだ。
ここから出られなかっただけだ。
一人で、井戸の声を聞きながら、生きるために木の実を拾っていただけだった。
でも今は違う。
ここは、戻りたいと思える場所になっていた。
「おい!」
村の奥から大きな声が響いた。
ガルドだった。
巨大な斧を肩に担ぎ、門の方へ歩いてくる。片腕はまだ完全ではないはずなのに、相変わらず無理をしている顔だった。
「遅えぞ。こっちは三回くらい王国兵をぶん殴る準備をしてた」
セラが呆れたように言う。
「殴ってないでしょうね」
「来なかったからな」
「来ていたら?」
「ほどほどに殴った」
「あとで腕を診るわ」
「なぜだ」
「無茶をした顔をしているからよ」
ガルドは気まずそうに顔をそらした。
そのやり取りに、ミラは小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
魔王城で見たものは、重すぎた。
王国の嘘。
ゼルグレイスの百年。
王女ミラの記憶。
ヴァルガスの本性。
封印の再構築。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
それでも、村の広場でガルドとセラがいつものように言い合っているのを見ると、自分はまだ今ここにいるのだと感じられた。
ノルが地下入口からふわりと浮かび上がる。
「帰還確認。封印との連結も安定しておる。ひとまず、世界が焼ける心配は少し遠のいたな」
「少しなのか」
レインが言うと、ノルは偉そうに光った。
「世界というものは、常に何かしら危うい。管理とはそういうものだ」
「急に大きな話をするな」
「わしは大きな存在だからな」
「石板の大きさは変わらないけどな」
「古代魔導具だ!」
ガルドが笑い、セラが肩をすくめた。
ミラも笑いかけた。
だが、胸元の首飾りが淡く光った瞬間、その笑みは少しだけ揺れた。
青い石は、もう暴れてはいない。
封印に無理やり引かれる痛みもない。
けれど、以前とは違っていた。
この首飾りが何なのか、ミラはもう知っている。
百年前の王女が未来へ渡した願い。
王国が封印鍵と呼んだもの。
そして今、封印をみんなで支えるための支点になったもの。
ミラは首飾りを握った。
レインがそれに気づく。
「苦しいのか?」
「ううん。痛くはない」
「ならよかった」
「でも、少し怖い」
レインは急かさず、黙って待ってくれた。
ミラは井戸のそばへ歩いた。
水面には、朝の光が映っている。
かつてこの井戸は泣いていた。
百二十三人の最後の声を抱えていた。
今も完全に消えたわけではない。耳を澄ませば、遠い悲しみが水底に残っているような気がする。
けれど、井戸はもう泣くだけではない。
水をくれる。
薬になる。
畑を潤す。
食卓を作る。
過去を抱えたまま、今を生かしている。
ミラは、そのことが少しだけ自分に似ていると思った。
「ノル」
ミラが呼ぶと、石板が近づいてきた。
「何だ、鍵の継承者よ」
「その呼び方、やめて」
「む。では、ミラ」
「うん」
ミラは頷いた。
「私は、これからどうなるの?」
広場が静かになった。
ガルドもセラも、レインも黙ってミラを見ている。
ノルは少しだけ光を落とした。
「封印の再構築により、おぬしの首飾りは新たな支点となった。だが、おぬし一人が封印を背負っているわけではない。エルネ村の水脈、地下施設の記録、ゼルグレイス、そして王家の記憶が分担しておる」
「じゃあ、私はここを離れられないの?」
「離れることは可能だ。ただし、長期間離れれば封印の安定に影響する可能性はある」
レインの表情が険しくなる。
「つまり、ミラをここに縛るのか」
「そうではない」
ノルは珍しく、すぐに言い返さなかった。
「封印は命令ではなく、選択を求めておる。ミラが支点であることを拒めば、別の方法を探す必要がある。負担は増えるが、不可能ではない」
「拒んでもいいの?」
ミラが尋ねると、ノルは静かに答えた。
「当然だ。ゼルグレイスも言ったであろう。選択とは、逃げることも含む」
ミラは井戸の水面を見つめた。
逃げてもいい。
その言葉は、優しかった。
もし、誰かに「お前は王女の血を継ぐ者だからここに残れ」と言われたら、ミラはきっと怖くなった。
もし、「封印のために生きろ」と言われたら、首飾りを外したくなったかもしれない。
でも、逃げてもいいと言われた。
だから、考えることができた。
ここに残る意味を。
この村をどうしたいのかを。
自分が何者として生きたいのかを。
「私は」
ミラはゆっくり口を開いた。
「王女ミラじゃない」
誰も否定しなかった。
「でも、王女ミラの記憶を見た。お母さまの言葉も聞いた。忘れてもいい、でもいつか真実を知る人が現れたら、一緒に選んでほしいって」
ミラは首飾りを握る手に力を込めた。
「私は、選びたい」
レインが静かに聞いている。
その目が、ミラを鍵ではなくミラとして見てくれていることがわかった。
「ここに残る」
ミラは言った。
「封印のためだけじゃない。王女の記憶のためだけでもない。私がここにいたいから。井戸の水を戻してもらって、畑を作って、みんなとご飯を食べて、この村が少しずつ生き返るのを見たから」
風が吹き、薬草が揺れた。
「私は、エルネ村のミラとしてここに残る」
ガルドが斧を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「いいんじゃねえか。王女様より、そっちの方が呼びやすい」
「王女様って呼ばないで」
「じゃあ、ミラ」
「うん」
セラは少しだけ柔らかい表情で言った。
「残るなら、薬の調整を続けるわ。記憶の逆流を抑える薬も、首飾りの反応を安定させる薬も、まだ改良できる」
「ありがとう、セラ」
「お礼を言われるほどじゃないわ。私も、ここにいる理由ができたから」
ノルは満足げに光った。
「よかろう。では、わしが正式に記録しよう。鍵の継承者ミラは――」
「エルネ村のミラ」
ミラが訂正する。
「……エルネ村のミラは、自らの意思で封印支点の一部となり、同時にエルネ村の再建を選択した」
ノルはそう言って、青白い光で空中に文字を刻んだ。
その文字はしばらく宙に浮かび、やがて井戸の水面へ溶けるように消えた。
レインがミラの隣に立つ。
「本当にいいのか?」
「うん」
「重い選択だぞ」
「わかってる。でも、一人じゃないでしょう?」
ミラがそう言うと、レインは少しだけ目を伏せた。
やがて、小さく頷く。
「ああ。一人じゃない」
その言葉を聞いて、ミラは胸の奥が温かくなった。
昔の自分なら、この村で一人だった。
でも今は違う。
レインがいる。
セラがいる。
ガルドがいる。
ノルがいる。
地下にはゼルグレイスがいる。
そして、いつか真実を届けるために、カイルたちも王都へ向かっている。
遠くで、馬のいななきが聞こえた。
ミラは顔を上げる。
村の入口に、数人の旅人が立っていた。
ぼろぼろの荷物を背負った親子。
杖をついた老人。
怪我をした若い男。
みな疲れ切った顔をしている。
先頭の女が、おずおずと声を上げた。
「ここに、水が戻った村があると聞きました」
レインとミラは顔を見合わせた。
噂が、もう届き始めている。
水の戻った村。
王国の嘘に消された村。
そして、これから誰かを受け入れる村。
ガルドが小さく笑う。
「村長、出番だぞ」
「誰が村長だ」
レインが困った顔をする。
ミラは笑った。
そして一歩前へ出た。
「はい。水はあります」
旅人たちの顔に、かすかな希望が浮かんだ。
ミラは井戸を振り返る。
百年前の悲しみを抱えた井戸。
けれど今は、誰かを生かす水をたたえた井戸。
「ここは、エルネ村です」
ミラははっきりと言った。
「まだ壊れた場所ばかりだけど、休むことはできます」
その言葉を口にした瞬間、ミラは自分の選択が本当のものになった気がした。
王女としてではない。
鍵としてでもない。
誰かに使われるためでもない。
エルネ村のミラとして。
ここで生きる。
ここを守る。
そして、ここから真実を広げていく。
井戸の水面が、朝の光を受けてきらりと揺れた。




