第41話 世界の嘘
ヴァルガスは、砕けた杖の前で膝をついていた。
濁った青い石は粉々になり、床の上に散っている。
黒い魔力は消えた。
腐食術式も止まった。
黒い扉の亀裂は閉じ、封印の間にはようやく静けさが戻り始めていた。
だが、ヴァルガスの目だけは折れていなかった。
「真実を見たところで、民が信じると思うか」
その声は低く、冷たかった。
「百年だ。百年もの間、王国は魔王を悪として語り、ルミナリアを裏切りの小国として記録し、勇者を正義として称えてきた。人々はその物語の中で生きている」
ヴァルガスはゆっくり立ち上がった。
黒外套の兵士たちは倒れ、封印部隊の魔導具も砕かれている。
それでも、彼はまるで自分がまだ勝者であるかのように言った。
「今さら真実など見せたところで、人は受け入れない。信じたいものだけを信じる。王国は善。魔王は悪。世界はそうできている」
カイルが聖剣を握りしめた。
「その世界を作ったのは、あなたたちだ」
「違う」
ヴァルガスは即座に否定した。
「人が望んだのだ。複雑な歴史など民には重すぎる。誰が悪で、誰が正義か。そう示してやらねば、人は迷う。迷えば国は乱れる」
「だから、嘘をついたのか」
「秩序を守ったのだ」
その言葉に、レインは静かに立ち上がった。
体は重い。
真実視の反動で、視界はまだ少し揺れている。
けれど、目を逸らす気はなかった。
「違う」
レインの声が封印の間に響いた。
ヴァルガスの目が、彼へ向く。
「あなたは秩序を守ったんじゃない。嘘を守ったんだ」
「若造が、何を知ったように」
「見た」
レインは言った。
「ルミナリアの井戸を。旧倉庫に残された子どもの靴を。逃げた人たちの声を。王女ミラの記憶を。ゼルグレイスが契約を受け入れた瞬間を」
レインは一歩前へ出る。
「あなたたちが焼いた記録も、埋めた死体も、消した村も、全部黙ってなんかいなかった。物は覚えている。場所は覚えている。人が忘れさせられても、真実はどこかに残る」
ヴァルガスの顔から、初めて余裕が消えた。
「だから危険なのだ、真実視は」
「危険なのは、真実じゃない」
ミラが声を上げた。
彼女はレインの隣に立った。
顔色はまだ悪い。
だが、首飾りの青い光は穏やかだった。
「嘘で人を動かすことだよ。王国は私を鍵って呼んだ。ゼルグレイスさんを魔王って呼んだ。ルミナリアを裏切りって呼んだ。そう呼べば、何をしてもいいと思った」
ヴァルガスはミラを見た。
「王女の血を継ぐ者が、王国へ刃向かうか」
「私は王女ミラじゃない」
ミラははっきり言った。
「でも、王女ミラの願いは知ってる。忘れてもいい。でも、いつか真実を知る人が現れたら、一緒に選んでほしいって」
彼女は胸元の首飾りを握った。
「私は選んだ。王国の嘘には使われない」
封印の間に、青い光が広がった。
それは攻撃ではなかった。
だが、倒れていた王国兵たちの胸元にある記録石が、次々に反応した。
セラが目を見開く。
「記録石が……起動してる」
ノルが楽しげに光った。
「ほう。封印の再構築時に、ここの記憶が外部記録へ流れたようだな」
「どういう意味だ」
ダリオが尋ねる。
「王国の封印部隊は、任務記録を王都へ送るための記録石を持っておる。つまり、今この場で起きたことの一部は、王都側の受信塔にも届いておる可能性が高い」
ヴァルガスの顔色が変わった。
「止めろ」
ノルは得意げに言う。
「もう遅い。わしは優秀な古代魔導具なのでな」
「お前がやったのか」
レインが尋ねると、ノルは光を瞬かせた。
「半分は偶然。半分はわしの才能だ」
「ほとんど偶然じゃないか」
「結果がよければよい」
リシアが記録石を見つめる。
「じゃあ、今の会話も……?」
「全部ではない。だが、ヴァルガスが魔王を守護核と知っていたこと、ルミナリアの真実を知りながら隠していたこと、勇者を利用しようとしていたこと。その程度は残っているであろう」
カイルがヴァルガスを睨んだ。
「あなたの言う物語が、初めて揺らいだな」
ヴァルガスは唇を歪めた。
「民が信じるものか。記録などいくらでも偽造と言える。勇者が裏切ったと言えばいい。鑑定士が魔王に惑わされたと言えばいい。王女の血を持つ少女が封印を乱したと言えばいい」
「そうやって、また嘘を重ねるのか」
エリオットが静かに言った。
「神官として、私は王国の教えを信じてきました。ですが、今ここであなたの言葉を聞いて、ようやくわかりました。信仰と嘘は違う。秩序と隠蔽も違う」
マルクも震えながら言った。
「僕は王国に選ばれた魔法使いだと思っていました。でも、選ばれたんじゃない。都合よく使われていただけだった」
ダリオが大剣を肩に担ぐ。
「俺は難しい話は苦手だ。けどな、子どもを鍵扱いして、守ってる奴を魔王扱いして、仲間を道具にするような奴が作る世界なんざ、ろくなもんじゃねえ」
セラはヴァルガスへ一歩近づいた。
「研究機関で消えた子どもたちの記録も、私は持っているわ」
ヴァルガスの目が細くなる。
「証拠になると思うか」
「今まではならなかった。でも、勇者が証言し、魔王城の記録が残り、封印部隊の記録石が王都へ届いたなら、全部を握り潰すのは簡単じゃない」
「甘いな」
「ええ、甘いかもしれない」
セラは冷たく答えた。
「でも、あなたよりはましよ」
ヴァルガスは周囲を見渡した。
王国兵は動けない。
杖は砕けた。
封印は再構築され、ミラを強制的に鍵として使うこともできない。
彼の計画は、崩れた。
だが、彼はまだ笑った。
「よかろう。ならば、王都で続きをしよう」
ヴァルガスの足元に、黒い転移陣が浮かぶ。
ノルが叫んだ。
「逃がすな! あれは緊急離脱術式だ!」
カイルが聖剣を振る。
リシアの氷が床を走る。
だが、転移陣の方が早かった。
ヴァルガスの姿が黒い光に包まれる。
「レイン・アルカード」
消える直前、ヴァルガスはレインを見た。
「真実を読む者よ。お前が読んだ真実を、世界が受け入れるとは限らない」
「それでも読む」
レインは答えた。
「見なかったことにはしない」
ヴァルガスの姿が消えた。
封印の間には、静寂が戻った。
しばらく、誰も動かなかった。
勝ったのか。
逃げられたのか。
世界の嘘は暴かれたのか。
それとも、まだ物語は王国の手の中にあるのか。
答えは出なかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
もう、何も知らなかった頃には戻れない。
カイルはレインの前に立った。
「レイン」
「何だ」
「王都へ戻る。俺は勇者として、見たことを証言する」
レインは彼を見る。
「それで王国に処分されるかもしれないぞ」
「だろうな」
「怖くないのか」
「怖い」
カイルは正直に言った。
「でも、今度は逃げたくない。お前を追放した時、俺は自分に都合のいい物語を信じた。もう同じことはしたくない」
レインはすぐには答えなかった。
許したわけではない。
傷は残っている。
言われた言葉も消えない。
けれど、カイルが今、変わろうとしていることもまた、見えていた。
「好きにすればいい」
レインは言った。
「ただし、嘘をついたら鑑定する」
カイルは少しだけ笑った。
「ああ。頼む」
ミラが黒い扉を見上げた。
扉は静かに閉じている。
ゼルグレイスを縛っていた鎖は薄れ、彼は玉座に座りながらも、以前ほど苦しそうではなかった。
「ゼルグレイスさんは?」
ミラが尋ねる。
「しばらくはここに残る」
ゼルグレイスは答えた。
「だが、もう一人ではない。封印はエルネ村とルミナリアの記録にも支えられている。私も、少しは眠れるだろう」
その言葉に、ミラは泣きそうに笑った。
「よかった」
ノルが得意げに言う。
「わしの管理のおかげだな」
「みんなのおかげだ」
レインが言うと、ノルは不満げに光った。
「少しはわしを特別扱いせぬか」
「考えておく」
「絶対考えぬ言い方だ」
封印の間に、小さな笑いが生まれた。
世界の嘘は、まだ完全には壊れていない。
王都では、ヴァルガスが次の物語を作ろうとしているだろう。
民は混乱するかもしれない。
王国はレインたちを反逆者と呼ぶかもしれない。
それでも、真実はもう一度、声を持った。
井戸の底の声。
森の靴に残った記憶。
地下の記録室。
魔王の百年。
王女ミラの願い。
すべてが繋がり、世界の嘘に小さな亀裂を入れた。
レインは封印の間の入口へ向かって歩き出した。
ミラが隣に並ぶ。
「どこへ行くの?」
「エルネ村へ戻る」
「王都じゃなくて?」
「まず、村だ。井戸も畑も、ガルドも待ってる」
ミラは少しだけ笑った。
「うん。帰ろう」
その言葉が、レインの胸に静かに染みた。
帰る場所。
勇者パーティーを追放された時、そんなものはなかった。
けれど今はある。
水の戻った村。
嘘に消された国の記憶を抱えた村。
そして、これから真実を世界へ届けるための最初の場所。
レインは振り返らずに歩いた。
世界の嘘は、まだ大きい。
だが、もう見抜く目は閉じない。




