第39話 宰相の本性
宰相ヴァルガスが封印の間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
王国兵のものとは違う。
魔物の気配とも違う。
もっと冷たく、もっと粘ついた魔力が、広間の床を這うように広がっていく。
黒い杖の先端には、濁った青い石が埋め込まれていた。
ミラの首飾りに似ている。
だが、光はまるで違った。
ミラの首飾りが澄んだ水のような光なら、ヴァルガスの石は泥に沈んだ月のようだった。
レインはミラの前に立ち、短剣の柄に手を添える。
「ヴァルガス……」
カイルが低く名を呼んだ。
その声には、怒りと困惑が混じっている。
「あなたが、ここまで来るとは思わなかった」
「勇者が命令を遂行していれば、私が出向く必要はなかった」
ヴァルガスは静かに言った。
彼の背後には、黒外套の兵士たちが並んでいる。
昼間の復興支援団とも、夜襲の兵とも違う。
完全に戦うための部隊だった。
セラが顔をこわばらせる。
「研究区直属の封印部隊……」
「久しいな、セラ」
ヴァルガスの視線が彼女へ向いた。
「持ち出した資料は役に立ったか」
「ええ。あなたたちがどれだけ人を道具扱いしていたか、よくわかったわ」
「研究に犠牲はつきものだ」
その言葉に、セラの目が怒りで揺れた。
「子どもを壊しておいて、犠牲の一言で済ませるの?」
「歴史を動かす力の前では、個人の痛みなど小さい」
ヴァルガスはまるで当然のことのように答えた。
ミラが小さく震える。
レインは一歩も下がらなかった。
「ミラを封印鍵として王都へ運ぶつもりだったな」
「正しくは、王国の管理下で保護するつもりだった」
「拘束具と眠り薬で?」
「必要な処置だ。鍵に勝手な意思を持たれては困る」
その言葉に、レインの中で静かな怒りが燃え上がった。
「ミラは鍵じゃない」
「では何だ」
「人だ」
ヴァルガスは、ほんのわずかに笑った。
「青いな」
彼は杖の先を黒い扉へ向ける。
「人として扱えば、世界が守れるのか。少女の意思を尊重して、王国の未来が開けるのか。力を前にして、綺麗事を並べる者ほど無責任なものはない」
「力を欲しがって国を焼いたのは、王国でしょう」
リシアが言った。
ヴァルガスは彼女を見た。
「魔法使いなら理解できるはずだ。力は管理されねばならない。大きすぎる力を、辺境の廃村や一人の少女の判断に委ねる方が危険だ」
「だから王国が独占する?」
「王国こそ秩序だ」
その声に迷いはなかった。
カイルが聖剣を握りしめる。
「俺たちに魔王を討たせようとしたのは、その秩序のためか」
「そうだ」
ヴァルガスは隠そうともしなかった。
「魔王ゼルグレイスは守護核。彼を討てば封印は弱まる。聖剣は外郭封印を破るのに適している。勇者という看板は、民を納得させるのに都合がよい」
カイルの顔が歪む。
「俺たちは、最初から道具だったのか」
「勇者とは、王国の剣だ。剣が自分の意思で鞘を選ぶ必要はない」
その瞬間、カイルの目から最後の迷いが消えた。
「俺は、あなたの剣じゃない」
「ならば、折れた剣だ」
ヴァルガスは冷たく言った。
「役目を果たせない勇者に価値はない」
その言葉は、かつてカイルがレインへ向けたものとよく似ていた。
カイルは唇を噛む。
だが、今度は崩れなかった。
「価値を決めるのは、あんたじゃない」
ダリオが大剣を構える。
「俺たちも、ようやくそれを覚えたんでな」
エリオットが祈りの光を広げる。
「王国の名で行われるすべてが、正義とは限りません」
マルクも震えながら杖を上げた。
「僕も、もう命令だけでは動きません」
ヴァルガスは彼らを一瞥した。
「感情に流された者たちか。やはり、勇者パーティーから鑑定士を外した時点で、計画に綻びが出たな」
レインの目が細くなる。
「俺の追放にも、あなたが関わっていたのか」
「直接ではない。だが、勇者一行に真実視の可能性を持つ鑑定士がいることは把握していた。外れてくれたのは好都合だった」
「好都合?」
「お前が魔王城に同行していれば、途中で気づいただろう。宝剣の呪いも、毒沼の性質も、転移路の意味も、封印区域の真実も。だから勇者が自らお前を切り捨てたのは、実に都合がよかった」
カイルの顔が青ざめた。
レインも胸の奥が冷えた。
追放はカイルたちの判断だった。
そこにヴァルガスの直接命令はなかったとしても、彼はそれを利用した。
人の弱さも、傲慢さも、無知も、すべて計画の一部として。
「あなたは、どこまで知っていた」
レインが尋ねる。
「ルミナリアの真実か。魔王の契約か。王女の血か。古代兵器か」
「すべてだ」
ヴァルガスは淡々と答えた。
「知らねば、隠せない」
封印の間に、重い沈黙が落ちた。
「ルミナリアが悪ではなかったことも知っていたのか」
「知っていた」
「ゼルグレイスが封印を守っていたことも」
「知っていた」
「王国が侵略したことも」
「歴史とは、勝者が整理するものだ」
レインの拳が震えた。
「整理?」
「そうだ。民に複雑な真実は必要ない。王国は正義。魔王は悪。ルミナリアは裏切りの国。その物語が百年、国を支えてきた」
ゼルグレイスが静かに口を開いた。
「その物語のために、どれほどの死者を沈黙させた」
「死者は語らぬ。語る者がいなければな」
ヴァルガスの視線がレインに向く。
「だから、お前は危険だ。真実を読む者は、物語を壊す」
黒い杖の石が強く光った。
床に黒い魔法陣が広がる。
ノルが叫ぶ。
「来るぞ! 腐食術式だ!」
次の瞬間、黒い魔力が封印紋へ流れ込んだ。
赤い光が床を走り、黒い扉が大きく震える。
扉の向こうで、何かが叫んだ。
ミラが耳を塞ぐ。
「いや……!」
「ミラ!」
レインが支える。
セラが即座に薬瓶を開け、ミラの口元へ運ぶ。
「飲んで! 記憶と魔力が逆流してる!」
ミラは苦しそうに薬を飲んだ。
ゼルグレイスが玉座に手を置き、封印へ魔力を注ぎ込む。
だが、ヴァルガスの術式は止まらない。
「やめろ!」
カイルが聖剣を構え、ヴァルガスへ踏み込む。
黒外套の兵士たちが立ちはだかる。
ダリオが大剣で一人を弾き飛ばし、リシアが氷の壁を作る。
エリオットの光が黒い魔力を浄化し、マルクの雷が敵の魔導具を砕いた。
戦いが始まった。
だが、ヴァルガスの狙いは彼らではなかった。
彼はミラを見ている。
「鍵よ、扉を開け」
黒い杖の光が、ミラの首飾りへ伸びた。
ミラの体がびくりと震える。
「っ……!」
首飾りが勝手に光を放ち、黒い扉の紋章とつながろうとする。
レインはその光の流れに手を伸ばした。
「鑑定!」
黒い術式が視界に流れ込む。
強制照合。
血統認証の奪取。
意思層の遮断。
鍵機能の抽出。
レインは吐き気を覚えた。
これは封印術ではない。
人から意思だけを切り離し、機能だけを使うための術式だ。
「ふざけるな……!」
レインは短剣を抜いた。
だが、斬るべきものは物体ではない。
術式だ。
見えない命令の線。
ヴァルガスの杖からミラの首飾りへ伸びる、黒い鎖。
レインは目を凝らす。
綻びを探す。
嘘を探す。
歪んだ命令の接続点を探す。
見えた。
杖の青い石。
濁った首飾りの欠片。
百年前、王国が奪ったルミナリア王家の遺物。
「そこか!」
レインは短剣を投げた。
刃はヴァルガス本人ではなく、杖の石を狙った。
ヴァルガスは目を細め、黒い障壁を張る。
短剣は弾かれた。
だが、その一瞬、術式が揺らいだ。
「カイル!」
レインが叫ぶ。
カイルは理解した。
聖剣の光を細く絞り、ヴァルガスの杖へ向かって放つ。
力任せではない。
レインが見つけた一点へ。
光が黒い障壁を貫き、濁った青い石にひびを入れた。
ヴァルガスの顔が初めて歪む。
「貴様ら……!」
ミラの首飾りを縛っていた黒い鎖が途切れた。
ミラは大きく息を吸い、レインの腕の中で崩れ落ちる。
「ミラ!」
「大丈夫……まだ、私……いる」
彼女は震えながらも、自分の声で言った。
レインは安堵する間もなく、ヴァルガスを睨んだ。
宰相はひび割れた杖を握りしめ、低く笑った。
「やはり、真実視は危険だ。だが、まだ終わっていない」
黒い扉の向こうで、轟音が響いた。
腐食術式は完全には止まっていない。
封印の一部が、裂け始めていた。
ヴァルガスは黒い魔力をまとい、冷たい目で全員を見渡した。
「ならば、鍵も勇者も魔王も、まとめて使い潰すまでだ」
その姿は、もはや王国の宰相ではなかった。
百年の嘘を守るためなら、世界すら焼きかねない怪物だった。




