第38話 王女ミラ
黒い扉の前で、ミラの首飾りが強く光っていた。
青い石の奥に、白い花の紋章が浮かぶ。
三本の光が花を囲み、床に刻まれた封印紋へ流れ込んでいく。
ミラは胸元を押さえた。
苦しい。
けれど、ただ痛いだけではなかった。
何かが、奥から目を覚まそうとしている。
知らないはずの廊下。
知らないはずの声。
知らないはずの温もり。
それらが、胸の内側から次々に溢れてくる。
「ミラ!」
レインの声がした。
彼はすぐ隣にいる。
それがわかっているのに、ミラの視界は別の場所へ引きずられていった。
白い城。
高い窓から、朝の光が差し込んでいる。
誰かが髪を梳いてくれている。
優しい手。
柔らかな声。
「ミラ、じっとして。今日は大切な日ですよ」
振り返ると、そこに王妃がいた。
顔はぼやけているのに、涙が出るほど懐かしい。
「お母さま」
ミラの口から、自然に言葉がこぼれた。
だが、それは今のミラの声ではない。
百年前の幼い王女の声だった。
場面が変わる。
城の広間。
ルミナリア王が、人々の前に立っている。
王は幼いミラを抱き上げ、民に笑いかけていた。
「この子が大きくなる頃にも、井戸の水が澄み、畑に実りがあり、人々が笑って暮らせる国であるように」
人々が拍手する。
職人が笑う。
子どもたちが手を振る。
その景色は、エルネ村で見た廃墟とはまるで違っていた。
生きている国。
笑っている人々。
守られていた暮らし。
それが、次の瞬間、炎に変わった。
鐘が鳴る。
兵士が走る。
王国アストレアの旗が迫る。
白い石の城壁に火が移り、悲鳴が空を裂く。
「王女を地下へ!」
「子どもたちを先に!」
「封印区画へ王国兵を入れるな!」
幼い王女ミラは、王妃に手を引かれて走っていた。
「お母さま、どこへ行くの?」
「地下へ。あなたは生きるのです」
「お父さまは?」
「国を守っています」
「お母さまも一緒に来て」
王妃は答えなかった。
ただ、幼いミラを強く抱きしめる。
「あなたは忘れていい。怖いことも、悲しいことも、私たちの顔も。けれど、いつか真実を読む人が現れたら、その人と一緒に選びなさい」
「何を?」
「ルミナリアの願いを、どう未来へ渡すかを」
王妃は首飾りを幼いミラの首にかけた。
青い石が光る。
「あなたは鍵ではありません。あなたは人です。だから、誰かに使われてはいけない。選ぶのです」
その言葉が、今のミラの胸に刺さった。
視界がまた変わる。
地下道。
泣く子どもたち。
扉を押さえる騎士。
王国兵の足音。
小さな靴が片方、石段に落ちる。
幼い王女ミラは振り返る。
戻りたい。
母のところへ。
父のところへ。
燃える城へ。
けれど、誰かが抱き上げて走った。
「生きてください、王女」
「いや! お母さま!」
その叫びが、百年を越えて今のミラの喉から漏れた。
「お母さま……!」
現実へ引き戻された時、ミラは膝をついていた。
レインが彼女を支えている。
セラが薬瓶を持って駆け寄り、ノルが周囲に淡い防護陣を展開していた。
「飲める?」
セラが薬瓶を差し出す。
ミラは震える手で受け取り、少しだけ口に含んだ。
苦い。
けれど、胸の奥で暴れていた記憶が少しずつ落ち着いていく。
「ミラ、大丈夫か」
レインの声が近い。
ミラは彼を見た。
焦げた城ではない。
泣いている王妃でもない。
ここにいるのは、レインだった。
井戸を直してくれた人。
廃村に残ってくれた人。
自分を鍵ではなくミラと呼んでくれた人。
「……私、見た」
ミラはかすれた声で言った。
「王女ミラの記憶を?」
レインが尋ねる。
ミラは頷いた。
「でも、全部じゃない。全部じゃないけど……わかったの」
彼女は首飾りを握りしめる。
「私は、王女ミラ本人じゃない」
ゼルグレイスが静かに見つめていた。
ノルも、何も言わない。
「でも、王女ミラの願いは、私の中にある。王妃さまの言葉も、逃げた子どもたちの声も、井戸の泣き声も」
ミラは黒い扉を見上げた。
「この首飾りは、封印を開くための鍵じゃない。王国に使われるための道具でもない。未来の誰かが、自分で選ぶために残されたものなんだと思う」
レインは静かに頷いた。
「なら、ミラはどうしたい?」
その問いに、ミラはすぐには答えなかった。
逃げたい気持ちはある。
怖い。
王国も、古代兵器も、封印も、全部怖い。
けれど、百年前の王女は逃げながらも生きた。
忘れていいと言われながら、それでも願いを未来へ渡した。
なら、今の自分も選ばなければならない。
「私は、封印を開けたくない」
ミラは言った。
「王国に、あの力を渡したくない」
黒い扉の奥で、低い唸りが響いた。
封印が揺れている。
王国の腐食術式が、外から扉を蝕んでいる。
「でも、ゼルグレイスさん一人に、これ以上背負わせたくもない」
ゼルグレイスの瞳がわずかに揺れた。
「百年、もう十分だよ」
ミラは立ち上がった。
足は震えている。
それでも、レインの腕を借りずに立った。
「私は、王女ミラじゃない。エルネ村のミラ。井戸の水を飲んで、畑を耕して、みんなと同じ鍋のスープを食べたミラ」
彼女は自分の胸に手を当てる。
「その私が選ぶ。封印を守る。でも、誰か一人を閉じ込めるやり方じゃなくて、みんなで支える形に変えたい」
セラが息を呑む。
「そんなことができるの?」
ノルが光を揺らした。
「理論上は可能だ。王家の血を持つ者が封印の権限を書き換え、守護核の負担を分散する。ただし、制御を誤れば鍵の継承者に記憶と魔力が逆流する」
「つまり危険ってことね」
「非常に危険だ」
レインは即座に言った。
「ミラ一人にはやらせない」
「うん」
ミラは微笑んだ。
「一人ではやらない。だから、レインも手伝って」
「もちろんだ」
「セラも」
「薬と制御補助なら、できる限りやるわ」
「ノルも」
「当然だ。わしを誰だと思っておる」
ミラはカイルたちを見る。
「勇者さんたちも、王国兵を止めてほしい」
カイルは聖剣を握り直した。
「ああ。今度は、壊すためじゃなく守るために剣を使う」
ダリオが笑う。
「そういうのなら得意だ」
リシアも杖を構える。
「封印術式の補助は無理でも、外から来る邪魔は止める」
エリオットは静かに祈りを捧げた。
「守るための祈りなら、迷いません」
マルクも震えながら頷く。
「僕も、今度は間違えません」
その時、広間の入口側から爆発音が響いた。
王国の第二部隊が迫っている。
黒い外套の兵士たち。
そして、その後ろから、冷たい拍手の音が聞こえた。
「美しい決意だ」
広間に、低い声が響く。
現れたのは、痩せた頬に灰色の髪を持つ男。
王国宰相ヴァルガスだった。
「だが、鍵に意思など不要だ」
ミラの首飾りが、激しく震えた。
ヴァルガスは黒い杖を掲げる。
「王女の血は、王国の秩序のために使われる」
レインはミラの前に立った。
「ミラは道具じゃない」
ヴァルガスの目が、レインへ向く。
「やはり危険だな、真実を読む鑑定士」
封印の間に、王国の黒い魔力が広がっていく。
百年前の王女の願いと、今を生きるミラの選択。
その両方を踏みにじろうとする者が、ついに姿を現した。




