第37話 百年前の契約
封印の間は、低く震えていた。
黒い扉の向こうで、何かが目を覚まそうとしている。
床に刻まれた封印紋は赤く明滅し、壁の魔石灯が不安定に揺れる。
王国の第二部隊が、外郭から腐食術式を仕掛けているのだ。
それでも、魔王ゼルグレイスは静かだった。
黒い翼を畳み、玉座の前に立つその姿は、王都で語られる破壊者ではない。
百年以上、たった一人で扉の前に立ち続けた守護者だった。
「百年前、ルミナリアは小さな国だった」
ゼルグレイスが語り始めた。
「土地は狭く、兵も少ない。アストレア王国のような大軍も、広大な領土も持たなかった。だが、ルミナリアには古い魔導技術があった」
レインは黙って聞いていた。
ミラは胸元の首飾りを握りしめている。
カイルは聖剣を下ろしたまま、悔しげに顔を伏せていた。
リシア、ダリオ、エリオット、マルクも、誰一人言葉を挟まない。
「ルミナリアの技術は、本来、人を生かすためのものだった。水を清め、土を整え、病を癒やす。だが、どれほど穏やかな技術であっても、力であることに変わりはない」
ゼルグレイスの視線が、黒い扉へ向く。
「そして、力は必ず欲しがられる」
扉の奥で、また低い音がした。
「アストレアは最初、同盟を求めた。治癒魔導を渡せ。水脈制御を渡せ。封印術を渡せ。ルミナリアは一部を共有した。民を救う技術なら、国境を越えて役立つと信じたからだ」
セラが小さく息を呑む。
王国研究機関で、彼女が学んだ技術の一部。
それも元を辿れば、ルミナリアの善意から流れたものだったのかもしれない。
「だが、王国が最も欲したものは、ここに封じられていた兵器だった」
「どうしてルミナリアは、そんなものを持っていたんだ」
ダリオが思わず尋ねた。
ゼルグレイスは、彼を責めるでもなく答えた。
「持っていたのではない。託されてしまったのだ。さらに古い時代、名も残らぬ国々が争いの果てに作ったものが、この地に封じられた。ルミナリア王家は、それを使わぬために守ってきた」
「使わないために、守る……」
ミラが呟く。
「そうだ。剣を抜くためではない。二度と抜かれぬよう、鞘ごと抱えていた」
ゼルグレイスの声が、わずかに重くなる。
「だが王国は、それを理解しなかった。いや、理解した上で欲したのだろう。巨大な力があれば、周辺諸国を従わせられる。戦争を終わらせられる。王国の秩序を世界に広げられる。そう信じた」
カイルが拳を握った。
王国の秩序。
先ほどの王国兵も、同じ言葉を使った。
秩序のため。
王命のため。
その言葉で、どれだけのものが踏みにじられてきたのか。
「ルミナリア王は拒んだ。兵器を渡せば、王国は必ず使うと知っていたからだ」
「それで、王国は攻めたのね」
リシアの声には怒りがあった。
「そうだ」
ゼルグレイスは頷いた。
「王国はルミナリアを、魔王と結託した危険な小国と呼んだ。私の名を利用したのだ」
「あなたは、なぜルミナリアにいたのですか」
エリオットが尋ねた。
「王国の教えでは、魔王は最初から人類の敵とされています。ですが、あなたは……」
「私は、人ではない」
ゼルグレイスは静かに言った。
「だが、人を滅ぼすために生まれたわけでもない。かつて私は、ルミナリアと契約を結んだ。王家は封印を守り、私は封印の外から迫る脅威を退ける。互いに干渉しすぎず、ただこの地を守る。それだけの契約だった」
「王国は、それを悪用した」
レインが言うと、ゼルグレイスは金色の瞳を彼へ向けた。
「そうだ。人ならざる私の存在は、悪役にしやすかった。黒い翼、角、強い魔力。民に恐怖を植えつけるには十分だ」
王国は、わかりやすい物語を作った。
魔王と手を組んだ小国。
世界を救うための侵攻。
正義の王国。
討つべき悪。
その物語の裏で、ルミナリアは焼かれた。
ミラの首飾りが震えるように光った。
彼女の瞳に、涙が浮かぶ。
「王女ミラは……どうなったの?」
ゼルグレイスの表情が、ほんのわずかに沈んだ。
「王妃によって、地下道へ逃がされた。王家の血と記憶を未来へ繋ぐために」
「生き延びたの?」
「しばらくはな」
ミラの唇が震える。
レインは彼女の隣に立った。
ゼルグレイスは続けた。
「王女は遠い集落へ逃れ、名を変え、子を残した。だが、ルミナリアの名を取り戻すことはできなかった。王国の追跡は長く続いた。血は薄れ、記憶は欠け、やがて王家の継承は断片だけになった」
「それが、私……」
「お前は王女そのものではない。だが、王女が残した願いの先にいる」
ミラは俯いた。
「願い……」
「生きてほしい。忘れてもいい。けれど、いつか真実を知る者が現れたら、その時は自分の意思で選んでほしい。王女ミラの願いは、それだけだった」
レインは静かに息を吐いた。
ミラの存在は、王国が言うような「封印鍵」ではない。
百年前に生き延びた少女が、未来へ渡した願いそのものだった。
「そして、百年前の最後の日」
ゼルグレイスの声が、さらに低くなる。
「王国軍は封印中枢に迫った。封印は戦闘の衝撃で傷つき、兵器は目覚めかけていた。ルミナリア王は、最後の手段を選んだ」
「あなたを守護核にする契約か」
レインが言うと、ゼルグレイスは頷いた。
「私がこの身を封印に繋げば、兵器の目覚めを止められる。だが、その代わり私はここを離れられなくなる。封印を維持するため、魔王城という名の墓所に縛られる」
「なぜ受けたんだ」
カイルが尋ねた。
その声には、勇者としての敵意はもうなかった。
ただ、理解できないものを前にした人間の問いだった。
「王が頼んだからではない」
ゼルグレイスは答えた。
「王妃が泣いたからでもない。民が哀れだったからでもない」
「なら、なぜ」
「私も、この世界に生きるものだからだ」
広間が静まり返った。
「人は私を魔王と呼ぶ。恐れる。憎む。物語の悪にする。それでも、私はこの空の下に存在している。世界が焼かれれば、私のいる場所も失われる。ならば守る理由には十分だ」
カイルは何も言えなかった。
魔王は世界を滅ぼそうとしたのではない。
自分のいる世界を守ろうとした。
それだけのことだった。
「契約の代償として、私は悪名を背負った。王国は私を魔王と呼び、ルミナリアを裏切りの国と呼んだ。だが、それで封印が残るならよいと思った」
ゼルグレイスの瞳に、初めて深い痛みが浮かんだ。
「だが、王国は百年経っても諦めなかった」
セラが資料を握る。
「研究機関は、封印鍵を探していた。王家の血を持つ者を集めて、検査していたわ」
「知っている」
「知っていたの?」
「封印に近づく者の声は、わずかに届く。泣く子どもの声も、痛みに耐える者の声も、届いていた」
セラの顔が歪んだ。
「じゃあ、あなたは……」
「助けられなかった」
ゼルグレイスは静かに言った。
「ここを離れれば封印が崩れる。力を伸ばせば王国に感知され、さらに強い干渉を招く。私は声を聞きながら、何もできなかった」
その声には、百年分の悔いが滲んでいた。
セラは唇を噛み、何も言えなくなった。
ミラが一歩前へ出た。
「それでも、守ってたんだね」
ゼルグレイスが彼女を見る。
「たくさんの声を聞きながら、ずっとここにいたんだね」
「そうだ」
「つらかった?」
その問いに、魔王は長く沈黙した。
やがて、静かに答えた。
「つらかった」
たった一言だった。
だが、その一言で、広間の空気が変わった。
魔王は怪物ではなかった。
孤独を感じる存在だった。
痛みを抱え、悔いを抱え、それでも扉の前に立ち続けた者だった。
その時、封印紋が激しく明滅した。
ノルの声が響く。
「外郭の腐食が進んでおる! 第二部隊が強制解錠を開始した!」
セラが扉を見る。
「このままでは?」
「封印の一部が裂ける」
ゼルグレイスは玉座へ向かった。
「私が出力を上げて抑える」
「体は持つのか?」
レインが尋ねる。
「持たせる」
「答えになっていない」
「長くは持たぬ」
ゼルグレイスは静かに言った。
「だから、選ばねばならない」
ミラの首飾りが、強く光を放った。
黒い扉の封印紋と、首飾りの青い石が呼応している。
ミラは胸元を押さえた。
「私に、できることがあるの?」
レインはすぐに言った。
「無理はしなくていい」
「でも」
「王国のためでも、封印のためでもない。ミラ自身が選ぶことだ」
ミラはレインを見た。
その目には恐怖があった。
だが、恐怖だけではなかった。
ゼルグレイスが静かに言う。
「百年前の契約は、私とルミナリア王が結んだ。だが、今の封印を未来へ繋ぐには、新たな選択が必要だ」
「選択……」
「王女の血を継ぐ者よ。お前は、封印を閉ざすことも、開くことも、逃げることもできる」
ミラは震えた。
「逃げてもいいの?」
「当然だ」
魔王は言った。
「選択とは、そういうものだ」
レインはミラの横に立った。
カイルも聖剣を構え直す。
「王国兵は俺たちが止める」
リシア、ダリオ、エリオット、マルクも並んだ。
セラは薬瓶を握り、ノルは封印紋の解析を始める。
百年前の契約は、魔王を孤独な守護者にした。
だが今、同じ扉の前に立っているのは一人ではない。
ミラは首飾りを握りしめ、黒い扉を見上げた。
その奥で、世界を焼く力が目を覚まそうとしている。
そして彼女は、自分の意思で一歩を踏み出そうとしていた。




