第36話 魔王ゼルグレイス
闇の奥で、黒い翼が開いた。
それだけで、広間の空気が重くなる。
天井は高く、壁には古い封印紋が幾重にも刻まれていた。床には円形の魔法陣が広がり、その中心に黒い玉座がある。玉座の背後には、巨大な扉がそびえていた。
その扉は、閉じている。
だが、完全に眠っているわけではなかった。
扉の隙間から、黒い光がわずかに漏れている。光というより、闇が形を持ってにじみ出しているようだった。
その前に、魔王ゼルグレイスが立っていた。
黒い角。
夜そのもののような翼。
人間よりはるかに大きな体。
長い銀灰色の髪。
そして、深い金色の瞳。
王都の教会に飾られていた魔王討伐画と、姿は似ている。
けれど、決定的に違っていた。
目の前の魔王は、笑っていなかった。
人を見下す邪悪な怪物にも見えなかった。
その瞳にあったのは、あまりにも長い時間を一人で耐えてきた者の疲労だった。
カイルが聖剣を構える。
「魔王ゼルグレイス……!」
勇者として染みついた反応だったのだろう。
聖剣の光が広間に走り、リシアたちも一斉に身構える。
ガルドはいない。村に残っている。
この場にいる前衛は、カイルとダリオだけだった。
だが、魔王は動かなかった。
攻撃もしない。
威圧するように魔力を放つこともしない。
ただ、静かにレインを見た。
「ようやく来たか」
重い声が広間に響く。
「真実を読む者よ」
レインの背筋に冷たいものが走った。
ノルもそう呼んだ。
真実を読む者。
自分はただの鑑定士だ。
そう思ってきた。
勇者パーティーでは役立たずと呼ばれ、戦えないから不要だと捨てられた。
だが、この地下施設に来てから、レインの目は何度も過去を見てきた。
井戸の声。
子どもの靴。
ルミナリアの記録。
壁画の中の魔王。
それらはすべて、この瞬間へつながっていたのかもしれない。
「あなたが、ゼルグレイスなのか」
レインが尋ねる。
魔王は頷いた。
「かつて、そう呼ばれた。今は、魔王という名だけが残っている」
カイルが一歩前に出た。
「なら、答えろ。お前は本当に世界を滅ぼそうとしたのか。ルミナリアを利用したのか。それとも……」
カイルは言葉を詰まらせた。
それとも、王国が嘘をついていたのか。
その問いを、まだ口にしきれなかった。
ゼルグレイスはカイルを見た。
「勇者か」
「ああ」
「では、お前は私を討ちに来たのだな」
カイルは聖剣を握る手に力を込める。
「そう命じられた。だが、今はその命令を疑っている」
「遅いが、疑わぬよりはよい」
その声には嘲りはなかった。
カイルは眉をひそめたが、言い返さなかった。
ミラがレインの隣で、小さく震えていた。
彼女の首飾りは、強く光っている。
ゼルグレイスの金色の瞳が、ミラへ向いた。
「王家の血が、まだ残っていたか」
ミラは息を呑む。
「私は……王女ミラなの?」
「違う」
ゼルグレイスは即座に言った。
その答えに、ミラの目が揺れる。
「お前は、お前だ。百年前の王女ではない。だが、その血と記憶の欠片を継いでいる」
レインはミラの前に半歩出た。
「ミラを鍵として扱うつもりか」
ゼルグレイスの視線がレインに戻る。
「鍵であることは事実だ。だが、鍵であることと、道具であることは違う」
その言葉に、レインは少しだけ息を止めた。
ノルと同じことを言っている。
ゼルグレイスは巨大な扉の方へ振り返った。
「この奥に、王国が欲したものがある。ルミナリアが守り、アストレアが奪おうとし、百年前に多くの命を焼いたものだ」
「古代兵器か」
セラが低く言った。
ゼルグレイスは頷く。
「名を持たぬ兵器だ。いや、名を与えるべきではないものだ。国を守る盾として作られ、やがて国を滅ぼす剣となった。使えば敵を焼く。だが同時に、使う者の心も国も焼く」
広間の奥で、黒い扉が低く鳴った。
まるで、内側から何かが目を覚まそうとしているようだった。
エリオットが顔を青くする。
「こんなものを、王国は欲しがっているのですか」
「力とは、そういうものだ」
ゼルグレイスは静かに答えた。
「持たぬ者は欲しがる。持つ者は使いたくなる。使った者は、次も使わずにはいられなくなる」
カイルは命令書を握りしめた。
「王国は、俺たちにあなたを討たせようとしていた。封印の間を破壊させようとしていた」
「知っている」
「知っていたのか?」
「百年、ここにいた」
ゼルグレイスの声は低く沈んだ。
「王国が何度も封印を調べに来たことも知っている。ルミナリアの記録を焼いたことも知っている。私を魔王として語り継ぎ、都合のよい悪役に仕立てたことも知っている」
「なぜ、何もしなかった」
ダリオが思わず言った。
「お前ほどの力があれば、王国に乗り込むことだってできたんじゃねえのか」
ゼルグレイスは、黒い扉を見上げた。
「私がここを離れれば、封印が弱まる」
広間に沈黙が落ちる。
「私は守護核だ。ルミナリア王との契約により、この身で封印を支えている。百年前から、ずっとな」
レインは玉座を見た。
黒い石で作られた玉座。
そこから、床の魔法陣へ幾筋もの魔力が伸びている。
ゼルグレイスの足元からも、同じように封印紋へ魔力が流れていた。
レインはゆっくり玉座に近づいた。
「触れてもいいか」
ゼルグレイスは少しだけ目を細めた。
「真実を読む覚悟があるなら」
カイルが警戒する。
「レイン、無理はするな」
その言葉に、レインは一瞬だけカイルを見た。
以前なら、そんな言葉はなかった。
だが今は、気遣いとして聞こえた。
「大丈夫だ。たぶん」
ミラが小さく言う。
「レインのたぶんは、半分信用する」
「半分か」
「今は半分で我慢して」
そのやり取りに、ほんのわずかだけ空気が緩んだ。
レインは玉座に手を置いた。
「鑑定」
次の瞬間、視界が闇に沈んだ。
百年前の広間。
傷ついたルミナリア王。
泣きながら王女を抱く王妃。
崩れかけた封印。
迫る王国兵。
そして、黒い翼を広げたゼルグレイス。
王が血に濡れた手で、ゼルグレイスへ向かって言う。
「この封印を、後世へ繋いでくれ」
「代償は」
「我が国の名が消える。そなたの名も汚れる。王国は必ず、そなたを魔王として語るだろう」
「構わぬ」
ゼルグレイスは扉の前に立つ。
「民が生き、世界が残るなら、悪名は私が持っていく」
王妃が涙を流す。
「あなたを、一人にしてしまう」
「人は長くは生きられぬ。だが、記憶は残せる。いつか真実を読む者が来るなら、それでよい」
封印が発動する。
黒い鎖がゼルグレイスの体を貫き、玉座へ縛りつける。
痛みが走ったはずだ。
だが彼は声を上げなかった。
ただ、閉ざされる扉の前で、最後まで立っていた。
映像が途切れた。
レインは玉座から手を離し、膝をついた。
「レイン!」
ミラが駆け寄る。
レインは荒い息を吐きながら、ゼルグレイスを見上げた。
もう疑いようがなかった。
この魔王は、世界を滅ぼそうとした敵ではない。
百年以上、世界を滅ぼしうるものを封じ続けてきた守護者だった。
「あなたは……ずっと一人で守っていたのか」
レインが言うと、ゼルグレイスは静かに答えた。
「一人ではない。ここには、死者の記憶がある。ルミナリアの願いがある。それに、待つことには慣れている」
その言葉が、かえって孤独に聞こえた。
カイルは聖剣を下ろした。
完全に。
「俺は、あなたを討てない」
ゼルグレイスはカイルを見た。
「討たねば勇者ではない、とは言わぬのか」
「勇者が何なのか、今はわからない」
カイルは正直に答えた。
「だが、少なくとも、守っている者を理由も知らずに斬ることではないと思う」
ゼルグレイスの金色の瞳が、ほんのわずかに細められた。
「遅いが、悪くない答えだ」
その時、広間の奥の黒い扉が大きく震えた。
床の封印紋が赤く明滅する。
ノルの声が鋭く響いた。
「王国の第二部隊が外郭に侵入した! 腐食術式を起動しておる!」
セラが顔をこわばらせる。
「封印を無理やり壊すつもりね」
ゼルグレイスは玉座へ戻るように一歩下がった。
「時間がない」
レインは立ち上がる。
「どうすれば封印を守れる」
ゼルグレイスは、ミラとカイル、そしてレインを順に見た。
「選択は二つだ。私を守護核として再固定するか、新たな鍵で封印を再構築するか」
ミラの首飾りが強く光った。
レインの胸が嫌な音を立てる。
「新たな鍵って……ミラのことか」
ゼルグレイスは否定しなかった。
「ただし、道具として使えば壊れる。自ら選ばねば、封印は受け入れぬ」
ミラの顔が青ざめる。
レインは即座に言った。
「ミラを犠牲にはしない」
「犠牲にせよとは言っていない」
ゼルグレイスの声は静かだった。
「だからこそ、真実を知る必要がある」
黒い扉の向こうで、何かが低く鳴いた。
それは獣の声にも、機械の軋みにも、人の嘆きにも聞こえた。
ゼルグレイスは言った。
「私を倒せば、封印は解ける」
広間全体が震えた。
「そして封印が解ければ、王国が欲した力は、王国だけでなく世界を焼くだろう」
レインは拳を握った。
王国の嘘。
魔王の真実。
ミラの選択。
勇者の後悔。
すべてが、この封印の間に集まりつつあった。




