第32話 転移罠
毒沼を抜けた翌朝、勇者パーティーは予定より大きく遅れていた。
マルクの手足には包帯が巻かれ、エリオットの浄化で毒の進行は止まっている。
だが、歩く速度は落ちていた。
リシアも前日の氷魔法で魔力を消耗している。
ダリオは表面上は元気そうに振る舞っていたが、呪われた宝剣の影響がまだ残っているのか、時折右手を握ったり開いたりしていた。
カイルは先頭を歩きながら、王国から支給された地図を見ていた。
地図には、魔王城へ向かう道が一本、迷いなく描かれている。
毒沼を抜け、外縁の石碑を越え、古い砦跡を通り、魔王城の正門へ向かう。
あまりにも整いすぎている道だった。
昨日までなら、何の疑問も持たなかったかもしれない。
王国が用意した地図。
王国が選んだ進路。
勇者に与えられた正式な情報。
それに従うのは当然だと思っていた。
だが、今は違う。
毒沼は危険だった。
地図には、毒沼の詳しい性質も、避けるべき場所も書かれていなかった。
あれが単なる記載漏れなのか、意図的なものなのか。
カイルには判断できない。
「カイル、また地図?」
リシアが声をかけた。
「ああ」
「気になるの?」
「気にならない方がおかしい」
そう答えてから、カイルは自分の言葉に少し驚いた。
以前の自分なら、こんな言い方はしなかった。
王国の地図を疑うなど、考えもしなかった。
ダリオが大剣を肩に担ぎながら言う。
「昨日の毒沼で懲りたからな。俺も、もう宝箱と綺麗な道は信用しねえ」
「宝箱は最初から信用しないでほしかったわ」
リシアが呆れたように言った。
ダリオは気まずそうに顔をそらす。
「それは反省してる」
そのやり取りに、少しだけいつもの空気が戻りかけた。
だが、それもすぐに消える。
道の先に、石造りの小さな祠が見えた。
半壊した壁。
苔むした柱。
中央には、古い台座。
台座の上には、青黒い宝石のようなものが置かれている。
周囲には魔物の気配がない。
不自然なほど静かだった。
カイルは手を上げ、全員を止めた。
「近づくな」
ダリオがすぐに足を止める。
リシアも杖を構え、エリオットは祈りの姿勢を取った。
マルクだけが少し遅れて立ち止まる。
「祠ですね。地図にも印があります」
マルクが地図を覗き込んだ。
「ここは休息地点と書かれています。魔王領へ向かう討伐隊が使っていた場所だと」
「休息地点にしては、静かすぎる」
カイルは祠を見つめた。
台座の宝石が、かすかに光っている。
リシアが目を細める。
「あれ、魔石ね。でも、色が変。転移系の魔力に似てる」
「転移?」
ダリオが眉をひそめる。
「罠か?」
「わからない」
リシアは首を横に振った。
「私は専門じゃない。探知はできるけど、構造までは読めない」
その言葉に、沈黙が落ちた。
レインなら。
誰も口にしなかったが、空気がそう言っていた。
カイルは唇を引き結んだ。
「マルク、簡易探知を」
「はい」
マルクは慎重に杖を掲げた。
魔法陣が展開され、青い光が祠を包む。
以前の宝剣の時よりも、彼の表情は硬い。自信満々だったあの頃とは違い、今は失敗を恐れているようだった。
「爆発反応はありません。毒もなし。ただし、転移魔力が台座の周囲に集中しています」
「安全か?」
カイルが尋ねると、マルクは言葉に詰まった。
「安全とは……断言できません」
以前なら、カイルは苛立ったかもしれない。
はっきりしろ。進むぞ。そう言ったかもしれない。
だが、今はその曖昧さを責められなかった。
断言できない時に、断言しない。
それも必要な判断だ。
「祠は避ける」
カイルは決めた。
「台座には触れない。距離を取って通過する」
全員が頷いた。
祠の横を大きく迂回する。
カイルは足元を見ながら進んだ。
石畳の割れ目。
苔の生え方。
土の沈み方。
怪しいものを探す。
レインほど正確には見えない。
だが、見ようとすることはできる。
祠を通り過ぎようとした時だった。
マルクが小さく声を上げた。
「待ってください」
カイルが振り返る。
マルクは祠の柱に刻まれた文字を見ていた。
「ここ、王国語の文字があります」
「読むな。離れろ」
カイルは即座に言った。
だが、遅かった。
マルクはすでに最初の一文を口にしていた。
「王命により、封印の道を開く――」
その瞬間、台座の宝石が強く光った。
カイルの背筋が凍る。
「全員、離れろ!」
叫びと同時に、祠の周囲に魔法陣が浮かび上がった。
地面に隠れていた紋様が光り、祠全体が青黒い光に包まれる。
リシアがマルクへ手を伸ばした。
「マルク!」
だが、光は一瞬で広がった。
視界が歪む。
足元が消える。
空気がねじれる。
カイルは聖剣を地面に突き立て、踏みとどまろうとした。
だが、体が引きずられる。
誰かの叫び声が聞こえた。
次の瞬間、世界が反転した。
カイルは石の床に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
肺から息が漏れる。
すぐに起き上がり、周囲を確認する。
暗い石造りの通路だった。
壁には古い魔石灯が並んでいるが、半分以上は消えている。空気は冷たく、湿っている。どこか地下のようだった。
「リシア! ダリオ! エリオット! マルク!」
返事はすぐにはなかった。
カイルは聖剣を構え、耳を澄ませる。
遠くで水滴が落ちる音。
風の音。
そして、低い唸り声。
魔物がいる。
カイルは歯を食いしばった。
分断された。
転移罠だ。
いや、罠だったのか。
それとも、王国が用意した道だったのか。
祠には王国語が刻まれていた。
王命により、封印の道を開く。
マルクが読んだ途端に発動した。
つまり、王国に関係する術式だった可能性が高い。
「くそ……」
カイルは低く吐き捨てた。
その頃、リシアは別の通路に倒れていた。
彼女はすぐに杖を探し、近くに落ちているのを見つけて安堵した。
「カイル! 誰か!」
声は石壁に反響するだけだった。
近くには誰もいない。
リシアは唇を噛んだ。
「最悪……」
壁に手をつき、魔力の流れを探る。
転移の残滓がある。だが、行き先は複数に分かれている。全員が別々の場所へ飛ばされた可能性が高い。
リシアは杖を握りしめた。
「レインなら、あの文字を読む前に止めてたわね」
自嘲するように呟く。
言っても仕方ない。
レインはいない。
今は自分で考えるしかない。
一方、ダリオは狭い部屋に飛ばされていた。
部屋の中央には、錆びた鎖がいくつも垂れている。
壁には古い武器が突き刺さり、床には白い骨が転がっていた。
「趣味の悪い場所だな、おい」
ダリオは大剣を構えた。
右手が少し震える。
呪われた宝剣の記憶が、まだ残っている。
力が欲しいか。
あの声を思い出し、彼は奥歯を噛んだ。
「いらねえよ、くそが」
その時、骨の山が動いた。
ダリオは大剣を構え直す。
「来いよ。今度は、自分の剣でやる」
エリオットは、古い礼拝堂のような場所にいた。
天井は崩れ、床には割れた石像が散らばっている。
不思議なことに、その石像は王国の女神像ではなかった。白い花を抱く女性像。見たことのない意匠だった。
エリオットは胸の前で祈ろうとして、手を止める。
「ここは……本当に魔王の領域なのですか?」
聖職者として学んできた魔王領の知識と、目の前の光景が合わない。
邪悪な祭壇ではない。
むしろ、誰かを慰めるための場所に見えた。
彼は不安を覚えながら、仲間を探すため歩き出した。
マルクは、暗い水路のそばで膝をついていた。
自分が文字を読んだせいだ。
その思いが、頭から離れない。
「僕が……また……」
宝剣の時も見抜けなかった。
毒沼でも足を滑らせた。
そして今、祠の文字を読んで転移罠を発動させた。
レインの代わりとして加わったはずなのに、何一つ代わりになれていない。
足音がした。
マルクは慌てて杖を構える。
暗闇の奥から、何かが這い出してきた。
人の形に似ている。
だが、顔は崩れ、体には封印布のようなものが巻きついている。
マルクは震える手で杖を構えた。
「火球を……いや、ここで火は……」
自分の判断が信じられない。
その迷いの間に、怪物が近づいてくる。
マルクは泣きそうな顔で、別の魔法陣を描いた。
「雷よ、弾けろ!」
小さな雷撃が走り、怪物を弾き飛ばす。
倒せはしない。
だが、距離は取れた。
マルクは息を荒げながら後退した。
カイルは、通路の奥から聞こえる魔物の気配を警戒しながら歩いていた。
壁に刻まれた文字は、王国語ではない。
だが、途中に後から刻まれた王国語の標識があった。
「封印外郭、第三連絡路」
カイルは足を止めた。
魔王城ではない。
やはり、ここは封印施設だ。
王国はこの場所を知っていた。
王国語の標識がある。
そして、王国の命令書には封印の間を破壊せよとあった。
点がつながり始めている。
だが、まだ何かが足りない。
レインなら。
また、その名が浮かんだ。
カイルは苦笑した。
「いない奴に頼ってどうする」
それでも、今の自分がしていることは、レインがしていたことの真似だった。
立ち止まる。
見る。
疑う。
すぐに結論を出さない。
カイルは標識の下を調べた。
そこには、古い文字で別の言葉が刻まれていた。
読めない。
だが、指でなぞると、どこか祈りの言葉のように感じられた。
その時、遠くからリシアの声が響いた。
「カイル!」
「リシア!」
カイルは走り出そうとして、足を止めた。
床を見る。
通路の中央に、薄い光の線が走っている。
踏めば、また何かが発動するかもしれない。
カイルは大きく迂回した。
その自分の動きに、少しだけ苦笑する。
本当に、レインみたいだ。
だが、その慎重さのおかげで、光の線は発動しなかった。
カイルは通路の角を曲がる。
その先で、リシアが杖を構えて立っていた。
「無事か?」
「ええ。そっちは?」
「問題ない」
「問題だらけよ」
リシアはそう言いながらも、少し安心したように息を吐いた。
二人は周囲を確認し、他の仲間を探すことにした。
その途中、壁に大きな石碑があった。
苔と埃に覆われていたが、王国語の注釈が残っている。
カイルは慎重に読む。
「封印区域内における転移路は、王命を持つ者のみ使用を許可する」
リシアが眉をひそめた。
「王命を持つ者のみ?」
「俺たちは王国の命令書を持っている」
「だから発動した?」
「おそらく」
カイルは命令書を取り出した。
魔王ゼルグレイスを討伐せよ。
封印の間を破壊せよ。
この命令書そのものが、転移路を開く鍵だったのかもしれない。
ならば、王国は最初からこの道へ自分たちを導くつもりだった。
毒沼も、祠も、転移路も。
すべてが魔王城の中心へ向かうための道筋だったとしたら。
カイルは背筋が冷えるのを感じた。
「リシア」
「何?」
「俺たちは、本当に魔王を倒しに来たのか?」
リシアは答えられなかった。
遠くの通路で、ダリオの怒声が響いた。
続いて、マルクの雷撃音。
エリオットの祈りの声。
仲間たちはまだ生きている。
カイルは聖剣を握り直した。
「合流する。話はそれからだ」
だが、胸の中の疑問はもう消えなかった。
王国は何を知っている。
何を隠している。
そして、自分たちに何を壊させようとしているのか。
転移罠は、勇者パーティーを分断しただけではなかった。
カイルの中に残っていた王国への信頼にも、深い亀裂を入れていた。




