第31話 毒沼の失敗
魔王城は、黒い山脈の向こうに見えていた。
遠目には城というより、巨大な岩の塊だった。
尖塔は空を刺すように伸び、周囲には薄い霧が漂っている。山肌には枯れた木々がへばりつき、鳥の声も獣の気配もない。
勇者カイルは、その城を見上げながら歩いていた。
魔王ゼルグレイスがいる場所。
王国から討伐を命じられた敵。
自分が倒すべき存在。
そう信じて進んできた。
だが、胸の奥には小さな違和感が残っている。
王国から届いた命令書には、魔王を討伐せよと書かれていた。
そこまではいい。勇者として当然の命令だ。
しかし、その後に続いていた言葉が引っかかっていた。
封印の間を破壊せよ。
なぜ、魔王討伐に封印の破壊が必要なのか。
魔王が封印されているなら、倒した後に封印を維持する方が安全ではないのか。
カイルは命令書を何度も読み返した。
だが、そこに理由は書かれていなかった。
「カイル、足元」
リシアの声で、カイルは我に返った。
目の前には、黒ずんだ湿地が広がっていた。
ぬかるんだ地面。
淀んだ水たまり。
ところどころに浮かぶ紫色の泡。
鼻を突く、甘ったるく腐った匂い。
魔王城へ続く道は、その湿地の中央を抜けている。
ダリオが顔をしかめた。
「嫌な場所だな」
神官エリオットも眉をひそめる。
「瘴気が混じっています。長居は危険です」
攻撃魔法使いのマルクは、杖を握りしめながら言った。
「火で焼き払いますか?」
「やめて」
リシアが即座に止めた。
「この匂い、燃える気体が混じっているかもしれない。爆発するわ」
マルクは不満そうに口を閉じた。
以前なら、ここでレインが前に出ていただろう。
泥の色。
水面の泡。
生えている草の種類。
瘴気の濃度。
通れる場所と危険な場所。
細かすぎるほど調べ、全員を待たせたはずだ。
その面倒な時間を、カイルは何度も苛立ちながら待っていた。
だが今、その時間がないことが逆に不安だった。
「迂回路は?」
カイルが尋ねると、マルクが地図を広げた。
「ありません。少なくとも、王国から支給された地図では、この湿地を抜ける道が最短です」
「最短か」
その言葉が、妙に嫌だった。
最短路。
効率。
進軍予定。
王国はいつも、それを重視する。
だが、最短の道が安全とは限らない。
カイルは湿地を見つめる。
「リシア、凍らせられるか?」
「表面だけなら。でも、下の泥までは無理。歩けば割れるかもしれない」
「エリオット、瘴気の浄化は?」
「できますが、範囲は限られます。全員を覆いながら進むと、かなり消耗します」
ダリオが大剣を肩に担ぎ直した。
「悩んでも仕方ねえだろ。道はあるんだ。慎重に行けばいい」
その声には、以前のような勢いはなかった。
呪われた宝剣の一件以来、ダリオはどこか慎重になっている。
本人は隠しているつもりだろうが、剣を握る手にも迷いがあった。
カイルは頷いた。
「一列で進む。俺が先頭に立つ。足元をよく見ろ」
パーティーは湿地へ足を踏み入れた。
最初の数歩は問題なかった。
地面は柔らかいが、沈むほどではない。
水たまりを避け、枯れた草の上を選べば進める。
だが、十数歩進んだところで、リシアが小さく咳き込んだ。
「リシア?」
「大丈夫。少し匂いがきついだけ」
エリオットが浄化の祈りを唱える。
淡い光が一行を包み、腐ったような匂いが少し薄れた。
その時、マルクが足を滑らせた。
「うわっ!」
彼の片足が、黒い泥の中へ沈む。
膝下まで一気に埋まった。
「動くな!」
カイルが叫ぶ。
しかし、マルクは焦って足を引き抜こうとした。
泥が粘り、さらに体勢が崩れる。
彼の手が近くの水たまりに触れた。
じゅ、と嫌な音がした。
「痛っ!」
マルクが悲鳴を上げる。
手袋の表面が焼けるように溶けていた。
「毒沼だ!」
リシアが叫ぶ。
エリオットがすぐに駆け寄ろうとする。
「待て、地面を見ろ!」
カイルは叫んだ。
自分でも、なぜその言葉が出たのかわからなかった。
だが、見えた。
マルクの周囲だけ、草の色が違う。
黒い水たまりの縁に、紫色の小さな泡が浮いている。
乾いているように見えた地面の下にも、毒を含んだ泥が広がっている。
レインなら、最初に気づいただろう。
カイルは歯を食いしばった。
「リシア、氷で足場を作れ! エリオットは浄化を広げるな。マルクの手だけだ!」
「わかった!」
リシアが杖を振る。
マルクの周囲に薄い氷の板が広がる。完全ではないが、足場にはなる。
エリオットがマルクの手に浄化と治癒を施す。
「我慢してください。毒が皮膚に入り込んでいます」
「くそっ、くそっ!」
マルクは青ざめながら呻いた。
ダリオが剣の鞘を伸ばし、マルクに掴ませる。
「引くぞ!」
「折れるなよ!」
「お前が暴れなきゃな!」
ダリオとカイルが力を合わせ、マルクを泥から引き抜いた。
泥がずるりと音を立て、彼の足がようやく抜ける。
ブーツの表面は変色し、ところどころ溶けていた。
マルクは氷の上へ倒れ込み、荒く息をした。
リシアが厳しい顔で言う。
「このまま進むのは危険よ」
「戻るか?」
ダリオが聞く。
カイルは周囲を見た。
来た道も安全ではない。
後方の泥も、彼らが踏んだことで水が染み出し始めている。
進むにも戻るにも、足場を選ばなければならない。
そして誰も、その足場を正確には見極められない。
「……少し待て」
カイルは膝をつき、湿地の地面を見た。
草の色。
泡の大きさ。
泥の沈み方。
水面の油膜。
レインは、いつもこういうものを見ていたのか。
何気ない景色の中から、危険だけを拾い上げていたのか。
「カイル?」
エリオットが声をかける。
「この泡が多い場所は避ける。草が白く変色している場所もだ。黒い水たまりの縁は踏むな。泥が乾いて見える場所でも、表面がひび割れていないところは沈む」
リシアが目を見開いた。
「あなた、そんなことわかるの?」
「わからない」
カイルは正直に言った。
「だが、見ないよりはましだ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
慎重に進む。
それは、以前ならレインの役目だった。
今は、カイルがやるしかない。
パーティーは進路を変えた。
カイルが先頭で地面を確かめ、リシアが一時的に足場を凍らせる。エリオットは消耗を抑えながら浄化をかけ、ダリオがマルクの体を支えた。
進む速度はひどく遅い。
予定はさらに狂っていく。
だが、誰も急げとは言わなかった。
半刻ほどかけて、ようやく毒沼の中心部を抜けた。
全員が泥だらけだった。
マルクの手と足には包帯が巻かれ、リシアの顔色も悪い。エリオットは魔力をかなり使い、ダリオも疲労を隠せていない。
カイルは最後に湿地を振り返った。
毒沼は、静かに泡を吐いている。
もし、最初にマルクが落ちた場所で火魔法を使っていたら。
もし、焦って全員が駆け寄っていたら。
もし、毒の泡に気づかず進んでいたら。
結果はもっと悪かったはずだ。
「また助けられた気がするな」
ダリオがぽつりと言った。
カイルは彼を見る。
「誰にだ」
「レインにだよ」
ダリオは泥のついた手袋を見下ろした。
「いねえのに、あいつが言いそうなことばっか考えちまった。足元を見ろとか、草の色が変だとか、泡に触るなとか」
リシアも小さく頷いた。
「私も。火を使うなって、先に思った。前なら、レインが言う前にうるさいって言ってたのに」
エリオットはマルクの包帯を結びながら言う。
「彼の慎重さを、私たちは軽く見ていましたね」
マルクは唇を噛んだ。
「僕は……レインさんの代わりに入ったのに」
誰も責めなかった。
マルクは攻撃魔法使いだ。
鑑定士ではない。
同じ役目を求める方が間違っていた。
その間違いをしたのは、誰か。
カイルは自分だとわかっていた。
「先へ進む」
彼は静かに言った。
「だが、今後は無理に急がない。怪しいものは必ず止まって確認する」
ダリオが苦笑する。
「レインみたいだな」
「そうだな」
カイルは否定しなかった。
そのことに、仲間たちが少し驚いた顔をした。
カイルは魔王城を見た。
黒い城は、さっきよりも近い。
だが、その姿は勇者を待つ悪の城というより、沈黙した巨大な墓標のように見えた。
胸の違和感は、さらに大きくなっている。
封印の間を破壊せよ。
その命令が、また頭をよぎった。
毒沼を抜けた先に、古い石碑が立っていた。
カイルは近づき、表面の苔を払う。
文字は王国語ではなかった。
だが、下の方に後から刻まれた王国語の注釈があった。
「この先、魔王城外縁。封印区域につき、王命なき立ち入りを禁ず」
リシアが眉をひそめる。
「封印区域?」
エリオットも不安そうに呟く。
「魔王の居城ではなく、封印区域……」
カイルは石碑を見つめた。
まただ。
魔王を倒すために進んでいるはずなのに、出てくる言葉は封印ばかりだ。
カイルは命令書を取り出し、もう一度見る。
魔王ゼルグレイスを討伐せよ。
あわせて、封印の間を破壊せよ。
毒沼の失敗で、彼はようやく理解し始めていた。
見えている道が、正しい道とは限らない。
与えられた命令が、正しい目的とは限らない。
レインなら、きっと立ち止まって調べただろう。
カイルは石碑から手を離した。
「今日はここで休む」
ダリオが驚いた。
「進まないのか?」
「進まない。マルクの治療が先だ。それに、この先は調べながら進む」
リシアが静かに頷いた。
「その方がいいと思う」
エリオットも同意した。
「私もです」
カイルは魔王城を見上げた。
勇者パーティーは、まだ進める。
けれど、以前のように何も疑わず突き進むことは、もうできなかった。
毒沼に足を取られたのは、マルクだけではない。
彼ら全員が、王国の敷いた見えない泥の上を歩いているのかもしれなかった。




