第28話 逃亡薬師の告白
夜明け前のエルネ村は、ひどく冷えていた。
王国の夜襲部隊は撤退した。
ミラは奪われずに済んだ。
レインも、ガルドも、セラも大きな怪我はない。
だが、誰も勝ったとは思っていなかった。
村の中央には、王国兵が落としていった拘束具が置かれている。
小柄な者を縛るために調整された魔力抑制具。
その内側に隠されていた紙片には、はっきりと書かれていた。
「対象少女を確保後、首飾りを外すな。封印鍵として王都研究区へ移送」
封印鍵。
その言葉は、焚き火の火よりも強く、ミラの心を焼いているようだった。
ミラは井戸のそばに座り、両手で首飾りを握っている。
顔は青白く、唇も震えていた。
「私……鍵なの?」
小さな声だった。
誰もすぐには答えられなかった。
ガルドは斧を抱えたまま、悔しそうに地面を睨んでいる。
ノルは地下入口の上で黙って浮かんでいた。普段なら余計な一言を挟みそうなものだが、今は何も言わない。
セラだけが、拘束具をじっと見つめていた。
その顔には、怒りとも後悔ともつかない表情が浮かんでいる。
「セラ」
レインが声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「この道具に見覚えがあるのか?」
セラは答えなかった。
けれど、その沈黙が何より雄弁だった。
レインは続ける。
「王国研究機関にいたと言っていたな。封印鍵という言葉も、知っているんじゃないのか」
セラの指が、かすかに震えた。
彼女は一度目を閉じ、深く息を吸った。
「知っているわ」
声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、押し殺した痛みがあった。
「話すべきだと思っていた。でも、どこまで話せばいいのか迷っていた。あなたたちを巻き込むことになるから」
ガルドが低く言う。
「もう十分巻き込まれてる」
「そうね」
セラは苦く笑った。
「なら、話すわ。私が王国研究機関から逃げた理由を」
焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。
セラは膝の上で手を組み、淡々と語り始めた。
「私は王都の研究機関で、魔力障害の治療薬を作っていた。最初は本当に、病人を助けるための仕事だったの。魔力が暴走する子ども、呪具に触れて体を壊した兵士、魔力酔いで動けなくなった労働者。そういう人たちの治療をしていた」
「それが、どうして逃亡に?」
レインが尋ねる。
「配属が変わったのよ」
セラの目が、焚き火の向こうを見た。
「王都研究区の地下に、封印術研究室という部署があった。表向きは古代遺跡の安全管理。けれど実際には、ルミナリア関連の遺物を調べていた」
ミラの肩が小さく跳ねる。
「ルミナリア……」
「ええ」
セラはミラを見た。
その目に、いつもの皮肉はなかった。
「彼らは、ルミナリア王家の血を引く者を探していた。理由は、封印を開くため。古代兵器を管理していた封印には、王家の血統認証が使われていると考えられていたから」
レインは紙片を見た。
「だから、ミラを封印鍵と呼んだのか」
「そう。彼らにとって、あなたは人間ではない。封印を開くための条件。必要な部品。それだけよ」
ミラは首飾りを握る手に力を込めた。
「私は……道具じゃない」
「ええ。違う」
セラは即座に言った。
「でも、研究機関の人間はそう見ない。少なくとも、上層部は」
ガルドが低く唸った。
「胸糞悪いな」
「もっと悪い話があるわ」
セラは視線を落とした。
「王都には、ルミナリアの血を引くかもしれない人間が何人か集められていた。孤児、流民、辺境出身者、身元のはっきりしない子どもたち。みんな、保護という名目だった」
「まさか」
レインの声が低くなる。
セラは頷いた。
「検査されたわ。首飾りや古い遺物に反応するか。血に封印術式が含まれているか。記憶継承の兆候があるか。私は、その検査で体調を崩した子たちの薬を作らされていた」
ミラの顔から血の気が引いた。
「子どもたちは……どうなったの?」
セラは唇を噛んだ。
「ほとんどは反応なしと判断されて、どこかへ送られた。詳しい行き先は知らされなかった。反応があった子は、地下の別室へ移された」
「生きているのか?」
ガルドが尋ねる。
セラはすぐに答えなかった。
その間が、答えのようなものだった。
「私は、全員を見たわけじゃない。でも、ある日、十歳くらいの男の子が運ばれてきた。高熱を出して、全身に封印紋のような痣が浮かんでいた。その子はずっと言っていたの。『知らない記憶が入ってくる』って」
セラの声が、わずかに震えた。
「私は上司に検査を止めるよう言った。これ以上やれば死ぬと。でも返ってきた答えは、『鍵として不完全なら、記録だけ取れ』だった」
ミラが両手で口元を覆った。
レインも、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「その子は?」
セラは目を伏せた。
「翌朝、いなくなっていた」
誰も言葉を発しなかった。
井戸の水音だけが響く。
セラは続けた。
「その時、私は初めて自分が何に加担していたのか理解した。薬を作っていたつもりだった。苦しむ人を助けているつもりだった。でも、実際には、苦しませ続けるために薬を使っていた」
「それで逃げたのか」
レインが言うと、セラは頷いた。
「資料をいくつか持ち出して逃げた。でも、全部は無理だった。追っ手もかかった。だから辺境へ逃げて、研究機関が調べていた地名の中から、誰も近づかなさそうな場所を選んだ」
「それがエルネ村?」
「ええ。まさか、本当に反応の中心だったとは思わなかったけれど」
セラは自嘲するように笑った。
「逃げてきた先で、私はまた同じものに出会った。封印鍵。王家の血。研究機関の拘束具。笑えないわね」
ミラは震えながら、セラを見た。
「セラは、私のことを研究機関に渡した方がいいって思う?」
「思わない」
セラは迷わず答えた。
「もし一瞬でもそう思ったら、私は自分で自分を許せない」
「でも、私がいると危ないんでしょう?」
「あなたがいるから危ないんじゃない。あなたを道具として欲しがる人間がいるから危ないのよ」
その言葉に、ミラの瞳が揺れた。
レインは静かに頷いた。
「セラの言う通りだ。ミラが悪いわけじゃない」
「でも、封印鍵って……」
「鍵だとしても、開けるかどうかを決めるのはミラだ」
レインは拘束具を手に取った。
「王国が決めることじゃない」
ガルドが斧を地面に突いた。
「決まりだな。王国の連中がまた来たら、今度はもっと派手に返り討ちだ」
「派手にやる前に、準備が必要よ」
セラが冷静に言う。
「向こうは次に、もっと強い部隊を出す。薬も拘束具も、今回より厄介になる。逃げるなら今のうち」
レインはミラを見た。
ミラはしばらく俯いていた。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「逃げたくない」
声は小さかった。
だが、確かに芯があった。
「怖いよ。研究機関の話も、封印鍵って言葉も怖い。でも、逃げても追われるなら、私はここにいたい。この村のことを、ちゃんと知りたい」
セラが彼女を見つめる。
「本気?」
「うん」
「なら、私はあなたを研究機関に渡さない」
セラは自分の薬鞄を開いた。
中から数本の薬瓶と、古びた紙束を取り出す。
「持ち出した資料の写しよ。完全ではないけれど、封印鍵の検査方法、魔力抑制具の弱点、研究機関が使う眠り薬の調合法が書いてある」
レインは驚いた。
「そんなものを持っていたのか」
「言ったでしょう。全部は話していないって」
セラは少しだけ、いつもの調子を取り戻したように言った。
「これを使えば、次に来る拘束具や薬への対策が作れる。井戸水も使えるわ。あの水は魔力を安定させる。ミラの首飾りの暴走を抑える薬も作れるかもしれない」
ミラの目に、かすかな希望が宿る。
「本当に?」
「たぶんね」
セラはレインの方をちらりと見た。
「この村では、たぶんが信頼されるらしいから」
レインは苦笑した。
「責任が重いな」
「あなたはもう、十分重いものを背負っているでしょう」
セラは紙束をレインに渡した。
「私一人では、研究機関に勝てない。あなたの鑑定が必要よ。道具の弱点、薬の成分、封印術式の綻び。それを見抜けるのは、たぶんあなたしかいない」
まただ。
役立たずではなく、必要だと言われた。
レインは紙束を受け取る。
手が少し震えた。
「わかった。見る」
ノルが地下入口の上で光を瞬かせた。
「よい流れだ。ようやく反撃らしくなってきたではないか」
「見ていたのか」
「最初からな」
ガルドが呆れる。
「石のくせに趣味が悪いな」
「古代魔導具だ。そして、必要な時に必要な情報を聞くのは管理人格の務めである」
ノルは偉そうに言いながら、セラの紙束に光を向けた。
「王国研究機関の資料か。ふむ。雑だが、役には立つ」
「雑?」
セラの眉が動く。
「彼らはルミナリアの技術を理解しておらぬ。鍵を部品として扱う時点で三流だ」
「そこは同意するわ」
セラは静かに言った。
夜が明け始めていた。
東の空が白み、廃村の輪郭が少しずつ浮かび上がっていく。
井戸の水面が朝の光を受けて揺れた。
王国はミラを鍵として狙っている。
研究機関は、封印を開くためなら人の心も体も壊す。
セラはその罪から逃げ、今ここで向き合おうとしている。
レインは拘束具と資料を見比べた。
守るだけでは足りない。
次に王国が来る前に、こちらも知識と準備で対抗しなければならない。
ミラが小さく言った。
「セラ」
「何?」
「話してくれて、ありがとう」
セラは一瞬だけ目を見開いた。
そして、少し困ったように視線を逸らす。
「感謝されるような話じゃないわ」
「でも、ありがとう」
セラは答えなかった。
ただ、薬鞄を閉じる手が、ほんの少しだけ震えていた。
その朝、エルネ村には新しい役割が生まれた。
井戸は水を戻した。
畑は食料を戻そうとしている。
ガルドは村を守る斧になった。
セラは研究機関に抗う知識になった。
そしてレインは、王国の嘘を見抜くため、資料の一枚目を開いた。




