第27話 ミラ誘拐未遂
夜のエルネ村は、静かだった。
井戸の水面には月が映り、崩れた家々の影が地面に長く伸びている。
風は弱い。
草の揺れる音さえ、今夜はやけに大きく聞こえた。
村の中央から少し離れた廃屋に、薄い灯りがともっている。
その廃屋は、ミラが普段使っている家ではない。
屋根は半分落ち、壁も傾いている。だが、外から見れば人が隠れているようには見える。
レインがわざとそう整えた。
壊れた寝台に布をかけ、ミラの使っていた古い外套を置く。
井戸の近くで拾った首飾りの反応を残すため、ミラには昼のうちにその廃屋へ入ってもらった。
さらに、王国が仕掛けた監視石の反応を少しずらし、そこに人が集まっているように見せてある。
王国側が監視石を信じれば、ミラはその廃屋にいると思うはずだった。
本当のミラは、井戸の反対側にある壊れた納屋の陰に隠れている。
隣にはセラがつき、薬草を煎じた眠気覚ましを用意していた。
レインは廃屋の裏手、崩れた壁の陰に身を潜めていた。
短剣を握る手に汗が滲む。
戦いは苦手だ。
正面から剣を交えれば、王国兵には勝てない。
それでも今夜、退くわけにはいかなかった。
ガルドは村の入口付近で待機している。
巨大な斧を持つ彼が最初から見えていれば、相手は警戒する。だから、今はあえて姿を隠していた。
ノルは地下入口の近くに浮かび、周辺の魔力反応を監視している。
「来たぞ」
ノルの声が、レインの耳元にだけ響いた。
地下施設の術式を使った簡易通信らしい。
相変わらず説明は偉そうだったが、便利なものは便利だった。
「数は?」
レインは小声で尋ねる。
「六。うち二名が魔力抑制具を所持。一名が眠り薬。残りは護衛だ」
「ラウルは?」
「後方にいる。指揮役だな。直接は入らぬつもりらしい」
慎重な男だ。
レインは息を整えた。
やがて、村の外れで小さな音がした。
鳴子は鳴らない。
敵はそれを避けている。
昼間に村を観察していたのだろう。
黒い影が、壊れた柵を越えて入ってくる。
王国兵ではあるが、昼間のように堂々とした格好ではない。
黒い外套で鎧を隠し、足音を殺している。
手には剣ではなく、短い棍棒や縄、布袋を持っていた。
殺すためではない。
捕らえるための装備だった。
先頭の男が、廃屋を指さす。
「あそこだ。反応は中にある」
「娘を優先しろ。鑑定士は抵抗したら眠らせる」
「元傭兵は?」
「見つけ次第、処分命令だ」
レインは奥歯を噛んだ。
昼間は復興支援と言っていた。
水と食料を持ってきた善意の使者を装っていた。
だが夜になれば、これだ。
王国にとって、ミラは保護すべき少女ではない。
首飾りと血筋を持つ鍵でしかない。
影の一人が廃屋の扉へ近づいた。
別の男が布袋を取り出す。
セラが見つけたものと同じ、眠り薬だろう。
男は扉の隙間から中へ粉を吹き込もうとする。
その時、廃屋の中で小さな音がした。
がたん。
男たちが身構える。
「中にいるぞ」
「薬を入れろ」
布袋の粉が、廃屋の中へ撒かれた。
数呼吸の後、男たちは扉を蹴破って中へ入る。
「動くな!」
怒声が響いた。
次の瞬間。
廃屋の中から、激しい咳き込みが聞こえた。
「なっ……煙が……!」
「逆流してるぞ!」
セラの仕掛けだった。
眠り薬の粉は、廃屋の奥に置いた湿った布と反応し、相手側へ煙が戻るようにしてあった。密閉されていない廃屋では効果は薄いが、狭い入口付近にいた者の目と喉を刺激するには十分だった。
兵たちがよろめきながら外へ出てくる。
その足元に、レインが仕掛けた細い縄があった。
一人目が転ぶ。
二人目が巻き込まれる。
三人目が舌打ちし、剣を抜こうとする。
「ガルド!」
レインが叫んだ。
暗がりから、巨大な影が飛び出した。
「待ってたぜ!」
ガルドの斧が唸る。
ただし刃ではなく、柄の部分だ。
先頭の兵の腹に叩き込まれ、男は声もなく崩れ落ちた。
続く兵が短剣を構えるが、ガルドは斧の腹でその腕を弾き飛ばす。
「くそ、元傭兵だ!」
「処分しろ!」
「できるもんならな!」
ガルドが笑う。
その声に、敵の意識が一斉に向いた。
その隙に、レインは廃屋の裏から回り込み、眠り薬を持っていた男の手首を短剣の柄で打った。
男が薬袋を落とす。
「お前が鑑定士か!」
別の兵がレインへ向かってくる。
正面からは勝てない。
レインは後ろへ下がりながら、相手の装備を鑑定する。
右膝の留め具が緩い。
左肩の防具が重い。
視界は煙で狭まっている。
「ミラ!」
納屋の陰から、ミラが石を投げた。
狙いは兵ではない。
兵の右足の前にある、壊れた桶だ。
石が桶に当たり、乾いた音が響く。
兵が一瞬そちらを見た。
レインはその隙に、地面の泥を蹴り上げる。
「ぐっ!」
兵の視界が塞がる。
レインは低く踏み込み、緩んだ右膝の留め具を短剣の柄で叩いた。
防具がずれ、兵の体勢が崩れる。
そこへガルドの拳が横から飛んできた。
兵は地面に沈んだ。
「助かった」
「こっちの台詞だ。あんた、相変わらず嫌なところを見るな」
「褒めてるのか?」
「もちろんだ」
残る兵たちは混乱していた。
廃屋にいるはずの少女はいない。
眠り薬は自分たちに返された。
監視石の反応は偽装だった。
元傭兵は正面に現れ、鑑定士は装備の弱点を正確に突いてくる。
その時、村の外からラウルの声が響いた。
「退きなさい」
兵たちが動きを止める。
ラウルは村の入口近くに立っていた。
昼間と同じ整った服装だが、表情にはもう笑みがない。
「想定より厄介です。今夜はここまで」
「隊長、ですが」
「命令です」
その声には、逆らえない冷たさがあった。
兵たちは倒れた仲間を引きずり、じりじりと後退する。
ガルドが追おうとしたが、レインは止めた。
「深追いするな。外に伏兵がいるかもしれない」
ガルドは舌打ちしたが、踏みとどまった。
ラウルはレインを見た。
「見事です。監視石に気づき、反応を偽装し、眠り薬まで返すとは」
「支援団の置き土産にしては、物騒だったからな」
「あなたは本当に危険な鑑定士だ」
「それも褒め言葉として受け取っておく」
ラウルの視線が、納屋の陰にいるミラへ向いた。
レインはすぐに前へ出る。
ラウルは静かに言った。
「その少女を守れると思っているのですか?」
「守る」
「王国を敵に回して?」
「先に敵として来たのは、そっちだ」
「王国は敵ではありません。秩序です」
ラウルの声は淡々としていた。
「秩序に従わない者は、いずれ踏み潰される」
レインは答えた。
「秩序の名で子どもをさらうなら、それはただの暴力だ」
ラウルの目が細くなる。
「次は、正式な命令を持って来ます」
「夜襲よりは礼儀正しいな」
「礼儀が必要な相手かどうかは、上が決めます」
そう言い残し、ラウルは森の闇へ消えた。
兵たちの気配も遠ざかる。
しばらくして、ノルが低く言った。
「周囲の魔力反応、減少。撤退したようだ」
張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。
ミラが納屋の陰から走ってくる。
「レイン!」
「大丈夫だ。怪我はない」
「本当に?」
「たぶん」
「またたぶん」
ミラは泣きそうな顔で笑った。
セラが近づき、レインの腕を確認する。
「擦り傷。あと、無茶」
「無茶は診断名か?」
「私の中ではそうよ」
ガルドは倒れた兵たちが残していった縄と拘束具を拾い上げた。
「胸糞悪い道具だな」
レインはその一つを鑑定した。
魔力抑制具。
対象の魔力と意識を鈍らせる。
小柄な対象の拘束用に調整済み。
ミラ用だ。
レインは無言で、それを地面に置いた。
ミラもそれを見て、顔を強張らせる。
「私を……これで?」
セラが静かに頷いた。
「そのつもりだったのでしょうね」
ガルドが斧を握る手に力を込めた。
「次は逃がさねえ」
「いや」
レインは言った。
「次に備える。そのためにも、これを証拠にする」
「証拠?」
「王国がミラを保護しようとしているんじゃない。拘束しようとしている証拠だ」
その時、拘束具の内側に、小さな紙片が挟まっていることに気づいた。
レインはそれを取り出す。
紙には、短い指示が書かれていた。
「対象少女を確保後、首飾りを外すな。封印鍵として王都研究区へ移送」
ミラの顔から血の気が引いた。
「封印鍵……」
レインは紙を握りしめた。
もう疑いようはない。
王国はミラを人として見ていない。
ただの鍵として、王都へ運ぶつもりだった。
レインはミラの前に立ち、静かに言った。
「行かせない」
ミラは震えながら頷いた。
その夜、エルネ村は眠らなかった。
井戸の水音だけが、月明かりの下で静かに響いていた。




