第24話 呪われた宝剣
黒い宝剣は、布に包んでもなお不気味な気配を放っていた。
野営地の焚き火から少し離れた岩の上に置かれている。
誰も近づこうとはしない。
剣身は鞘に収まっているはずなのに、布の隙間から赤黒い光がにじんでいるように見えた。
勇者カイルは、その剣を黙って見つめていた。
洞窟で発見した時、剣は確かに強い力を放っていた。
ダリオが手にした瞬間、その力は彼の肉体を強化した。
だが同時に、精神を侵した。
仲間に剣を向けたダリオの姿が、カイルの脳裏から離れない。
「浄化は終わったのか?」
カイルが尋ねると、神官エリオットは疲れた顔で首を横に振った。
「応急処置です。ダリオの体から呪いの大部分は抜けましたが、完全ではありません。あの剣に触れた時間は短い。それなのに、侵食が速すぎる」
エリオットの声には、隠しきれない不安があった。
焚き火のそばでは、ダリオが毛布を肩にかけて座っている。
いつもの豪快な笑みはなく、顔色も悪い。両手は震え、時折自分の右手を睨んでいた。
その手が、仲間を斬ろうとしたからだ。
「俺は……本気で、お前らを斬ろうとしたのか」
ダリオが低く呟いた。
誰もすぐには答えなかった。
魔法使いのリシアが火を見つめたまま言う。
「正気じゃなかったわ」
「それは慰めか?」
「事実よ。あなたの目、赤かった。声も変だった」
「じゃあ、俺じゃなかったって言いたいのか」
「そうは言ってない」
リシアの声が硬くなる。
カイルは二人の間に割って入ろうとしたが、言葉が見つからなかった。
ダリオは頭を抱えた。
「俺は、力が欲しいと思った。あの剣を抜いた瞬間、これなら何でも斬れると思った。魔王だろうが、魔物だろうが、邪魔する奴は全部……」
そこで言葉が途切れる。
エリオットが静かに言った。
「呪いは、持ち主の欲望に入り込むものです。あなたの心にないものを作り出したわけではない。けれど、あったものを膨らませる」
「つまり俺が悪いってことか」
「違います。誰にでも欲はある。それを利用するのが呪具です」
リシアが視線を黒い宝剣へ向けた。
「でも、どうして見抜けなかったの?」
その言葉に、王宮推薦の攻撃魔法使いマルクが顔を上げた。
「僕を責めているんですか」
「責めてはいないわ。ただ、簡易探知では邪悪な反応はないって言ったでしょう」
「実際、反応はなかった!」
マルクは声を荒げた。
「爆発罠も毒もなかった。魔力反応は剣本体のものだった。あんなふうに呪いを内側に畳み込んでいるなんて、普通の探知でわかるはずがない」
「普通の探知ならね」
リシアが言った。
その一言で、野営地の空気が凍った。
普通の探知なら。
つまり、普通ではない鑑定なら。
レインなら。
誰も名を出していないのに、全員が同じ人物を思い浮かべた。
カイルは拳を握る。
「やめろ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「今ここで、いない人間の話をしても仕方ない」
「いない人間にしたのは、誰?」
リシアの声は小さかった。
だが、確かにカイルへ向いていた。
カイルは彼女を睨む。
「何が言いたい」
「別に」
「言え」
リシアは唇を噛んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
「レインを外すのは早すぎたんじゃないかって言ってるの」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
ダリオも、エリオットも、マルクも黙っている。
カイルは喉の奥が詰まるのを感じた。
「レインは戦えない」
「知ってるわ」
「魔王領では、戦えない者を守る余裕はない」
「それもわかってる」
「なら」
「でも、レインがいた時、私たちはこういう危険を避けてきた」
リシアは黒い宝剣を指さした。
「あの子はいつも、触る前に止めた。飲む前に止めた。渡る前に止めた。面倒だったし、うるさいと思ったこともある。でも、今思えば、危険になる前に危険を消してくれていたのよ」
カイルは反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
その通りだったからだ。
レインの働きは、成果として残りにくい。
魔物を倒したわけではない。
派手な魔法を撃ったわけでもない。
傷を癒したわけでもない。
ただ、危険が起こる前に止めていた。
だから誰も気づかなかった。
気づこうともしなかった。
ダリオが低く笑った。
自嘲するような笑いだった。
「俺も散々言ったな。戦えねえ奴は荷物番でもしてろって」
彼は震える手を見た。
「その荷物番がいなくなった途端、俺は呪いの剣に引っかかったわけだ」
「ダリオ」
「笑えねえな」
エリオットは目を伏せた。
「私も、庇えませんでした」
カイルは彼を見る。
「何の話だ」
「レインが追放される時です。私は、彼の働きを知っていました。少なくとも、無意味ではないとわかっていた。でも、強く止めなかった」
エリオットの声には、悔いがあった。
「カイルの判断に従う方が楽だったからです」
カイルの胸に、鋭い棘が刺さる。
仲間たちの視線が、少しずつ自分へ向いているのを感じた。
勇者である自分が決めた。
レインは不要だと。
戦えない者を連れていけないと。
それは間違いだったのか。
いや、まだわからない。
魔王討伐はこれからだ。
戦闘になれば、必要なのは火力であり、剣であり、回復だ。
鑑定では魔王を倒せない。
そう考えようとして、カイルは腰の聖剣に手を置いた。
刃元には、まだ小さな欠けがある。
レインはそれを見抜いていた。
カイルはその手を、ゆっくり離した。
「今は進むしかない」
カイルは言った。
「レインのことをどう思うにしても、俺たちは魔王討伐の命を受けている。引き返すわけにはいかない」
「それはそうだけど」
リシアはまだ不満そうだった。
カイルは黒い宝剣を見た。
「この剣は、王都へ持ち帰る。危険な呪具として封印する」
エリオットが眉をひそめた。
「持っていくのですか?」
「放置はできない。誰かが拾えば同じことが起きる」
「それはそうですが、近くに置くのも危険です」
「なら、私が封印布を重ねます」
エリオットは疲れた体を押して立ち上がった。
マルクが気まずそうに言う。
「僕も、封印魔法なら少しは手伝えます」
リシアは彼をちらりと見たが、何も言わなかった。
その沈黙は、以前のパーティーにはなかったものだった。
互いを信じていないわけではない。
だが、どこかに小さなひびが入っている。
カイルには、それがわかった。
黒い宝剣を封印し直した後、夜の見張りは二人ずつ交代で行うことになった。
カイルは最初の見張りを買って出た。
焚き火の炎が弱まり、仲間たちが眠りにつく。
ダリオは何度かうなされ、エリオットがそのたびに浄化の祈りを重ねた。
リシアは杖を抱えたまま眠っている。
マルクは離れた場所で丸くなっていた。
カイルは一人、黒い宝剣の包みを見張っていた。
包みは沈黙している。
だが、そこにあるだけで空気が重い。
レインなら、今どうしただろう。
そう考えて、カイルは苛立った。
またレインだ。
追放した相手のことを、なぜ何度も考えている。
だが、思い出は勝手に浮かんでくる。
古い砦で見つけた指輪に、レインが触れるなと言ったこと。
食料袋の中から毒草を取り除いていたこと。
橋を渡る直前に、支柱が腐っていると止めたこと。
リシアの杖の魔石を何度も磨いていたこと。
ダリオの剣の刃こぼれを、本人に文句を言われながら直していたこと。
あいつは、いつも下を向いて作業していた。
誰かに褒められるのを待つでもなく、ただ黙って。
「俺は……何を見ていたんだ」
カイルの口から、思わず言葉が漏れた。
その時、黒い宝剣の包みがかすかに動いた。
カイルはすぐに聖剣を抜く。
布の隙間から、赤黒い光が漏れた。
声がした。
聞こえた、気がした。
――力が欲しいか。
カイルは息を止めた。
声は耳ではなく、頭の内側に響いている。
――お前は勇者だ。誰よりも強くなければならない。
カイルは聖剣を構えたまま、後ずさった。
「黙れ」
――仲間はお前を疑っている。王国も、お前が成功することを望んでいる。ならば、力を取れ。
「黙れ!」
声に反応して、仲間たちが目を覚ました。
「カイル!」
リシアが叫ぶ。
包みが裂け、黒い宝剣がひとりでに浮き上がった。
赤い宝石が脈打つ。
エリオットが祈りを唱える。
「聖なる光よ、邪なる縁を断て!」
浄化の光が宝剣を包む。
しかし、剣は激しく震え、闇を撒き散らした。
ダリオが青ざめる。
「また、あれか……!」
マルクが火球を作ろうとする。
「燃やします!」
「やめなさい!」
リシアが叫んだ。
「封印布ごと爆ぜるわ!」
カイルは聖剣を握りしめた。
宝剣は彼を見ているようだった。
剣なのに、目があるように感じた。
――勇者よ。お前にふさわしい力を。
「俺に必要なのは、お前の力じゃない」
カイルは低く言った。
自分に言い聞かせるように。
――では、何が必要だ。
その問いに、カイルは一瞬言葉を失った。
力。
名声。
王国からの期待。
魔王を討つ使命。
ずっと、それだけを見てきた。
だが今、脳裏に浮かんだのは、荷台の隅で黙って薬草を選り分けていた鑑定士の姿だった。
必要だったのは、力だけではない。
「見抜く目だ」
カイルは聖剣を振り上げた。
刃元が軋む。
欠けた部分に負担がかかる。
それでも、カイルは魔力を流しすぎないよう抑えた。レインが言っていた警告を思い出しながら。
聖剣の光が細く、鋭く伸びる。
力任せではない。
ただ一点、宝剣の赤い宝石だけを狙う。
「はああっ!」
聖剣が振り下ろされた。
赤い宝石に刃が当たる。
甲高い音が響き、宝石にひびが入った。
エリオットの浄化がそこへ流れ込み、リシアの氷が剣身を覆う。
マルクも今度は火ではなく、魔力遮断の術式を重ねた。
黒い宝剣は激しく震え、やがて地面に落ちた。
赤い光は消えていた。
カイルは膝をついた。
聖剣の刃元にも、さらに小さな亀裂が走っている。
リシアが駆け寄る。
「カイル、怪我は?」
「ない」
「剣は?」
カイルは聖剣を見た。
「……レインの言った通りだ。無理に魔力を流せば、折れていた」
誰も何も言わなかった。
ただ、その沈黙は先ほどまでとは違っていた。
重く、苦い沈黙だった。
翌朝。
黒い宝剣は完全に封印された。
だが、もう持ち帰る余裕はないと判断し、洞窟近くの岩場に埋め、エリオットが封印印を施した。
ダリオの体調はまだ万全ではない。
カイルの聖剣にも不安が残る。
パーティーの空気はぎこちない。
それでも、彼らは進むしかなかった。
出発の直前、王国からの伝令鳥が空から舞い降りた。
カイルは足筒に結ばれた命令書を外す。
王国の封印。
宰相ヴァルガスの署名。
命令書には、短くこう書かれていた。
「魔王城到達後、魔王ゼルグレイスを討伐せよ。あわせて、封印の間を破壊せよ」
カイルは眉をひそめた。
「封印の間……?」
魔王を倒すだけではないのか。
なぜ、封印を破壊する必要がある。
胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
以前なら、命令だと受け入れていただろう。
だが今のカイルは、黒い宝剣の赤い光と、レインの警告を思い出していた。
見えるものだけを信じるな。
見えていない危険こそ、先に見つけなければならない。
カイルは命令書を握りしめ、魔王領の空を見上げた。
勇者パーティーの綻びは、もう小さな亀裂では済まなくなっていた。




