第23話 宰相ヴァルガスの影
王都アストレアの夜は、辺境とは違う静けさに包まれていた。
高い城壁の内側には、整えられた石畳の道が走り、街灯には魔石の明かりが灯っている。貴族街の屋敷には音楽が流れ、城の広間では今夜も晩餐会が開かれていた。
人々は知らない。
百年前に消された小国のことも。
辺境の廃村で井戸の水が戻ったことも。
その地下で、王国が隠した記録が目覚めたことも。
王城の最上階、政務塔の奥にある執務室で、宰相ヴァルガスは一枚の報告書を読んでいた。
年は五十を越えている。
痩せた頬。
灰色の髪。
感情の薄い目。
黒い礼服の胸元には、王国宰相の証である銀の徽章が留められている。
机の上には、辺境地図が広げられていた。
その一角。
地図の端に近い場所に、小さな赤い印がついている。
エルネ村。
王国の正式な地図では、すでに廃村として扱われている場所だった。
「ルミナリア反応が再起動した、か」
ヴァルガスは静かに呟いた。
机の前には、黒衣の男が跪いている。王国軍ではなく、宰相直属の調査官だった。顔の半分を覆面で隠し、声も低い。
「はい。北方監視点より報告がありました。エルネ村中央部にて、水脈浄化系の魔力反応を確認。地下施設の封印反応も、一時的に上昇しています」
「井戸が戻ったという報告もあるな」
「はい。廃村内に人影を確認しています。人数は四名から五名。うち一名は、白銀色の髪を持つ少女」
ヴァルガスの指が、報告書の上で止まった。
「少女」
「年齢は十六、あるいは十七前後。首元に青色の魔導具らしき反応あり。遠視記録では、白花三光紋に近い意匠が確認されました」
部屋の空気が、わずかに冷えた。
ヴァルガスは顔を上げる。
「白花三光紋。確かか」
「完全照合ではありません。ただし、ルミナリア王家の紋章と酷似しています」
「……百年かけて、ようやく表に出たか」
その声には喜びも驚きもなかった。
ただ、予定より遅れていた道具をようやく見つけたような、冷たい納得だけがあった。
調査官は続ける。
「さらに、廃村内には逃亡傭兵ガルドを確認。王国研究機関から離反した薬師セラと思われる女もおります」
ヴァルガスの眉が、ほんのわずか動いた。
「セラもそこへ流れたか」
「始末しますか」
「まだよい。あの女は知識を持っているが、決定的な証拠は持っていない。むしろ今は、泳がせた方がいい」
「では、優先対象は少女で?」
「違う」
ヴァルガスは報告書の別の箇所を指で叩いた。
「この鑑定士だ」
調査官がわずかに顔を上げる。
「レイン・アルカード。元勇者パーティー所属の鑑定士。先日、勇者カイルの一行より追放された者です」
「そうだ」
「戦闘能力は低く、脅威度は低いと見られますが」
ヴァルガスは調査官を見た。
それだけで、男は口を閉じた。
「戦闘能力」
宰相はその言葉を、まるで価値のない石ころを拾うように繰り返した。
「兵士はすぐにそれを見る。剣を振れるか。魔法を撃てるか。敵を殺せるか。それは兵を動かすには必要な指標だ。だが、国を動かす時には別のものを見る」
「別のもの、ですか」
「何を知る者か。何を暴く者か。何を信じさせる者か」
ヴァルガスは椅子にもたれた。
「戦場で最も恐ろしいのは、強い剣士ではない。都合の悪い事実を見つけ、それを真実として繋げる者だ」
調査官は黙って頭を垂れた。
ヴァルガスは報告書をめくる。
「このレインという男は、エルネ村到着後、井戸の浄化魔導具を再起動させている。旧倉庫から制御魔石を回収し、地下扉を開く前段階まで到達した可能性がある。さらに、派遣した小隊を殺さず無力化した」
「抵抗者として処分しますか」
「早すぎる」
ヴァルガスは即座に言った。
「殺せば、何を知ったのか確認できない。捕らえる必要がある」
「鑑定士を?」
「正確には、鑑定士の目をだ」
ヴァルガスは机の引き出しから、小さな黒い箱を取り出した。
箱を開けると、中には割れた青い石の欠片が入っていた。
ミラの首飾りに似た色。
だが、光は濁り、石の奥には黒い筋が走っている。
「百年前、ルミナリアの記録をほとんど焼いた。それでも、完全には消せなかった。物は記憶を持つ。土地は痕跡を残す。だから、私は記録だけでなく、読む者も消してきた」
調査官は息を呑んだ。
「では、レイン・アルカードは……」
「おそらく、残響を読んでいる」
ヴァルガスの声は低かった。
「ただの鑑定士ではない。本人が自覚しているかは知らぬが、真実視に近い力を発現している可能性がある」
「真実視は、失われた能力では?」
「失われたことにした能力だ」
ヴァルガスは箱を閉じた。
「王国にとって、あれほど不都合な力はない。隠蔽は、見つける者がいなければ成立する。だが、残響を読む者がいれば、焼いた文書も、埋めた死体も、消した村も、再び口を開く」
その言葉の響きに、調査官は背筋を正した。
ヴァルガスは窓の外へ目を向けた。
王都の灯りが広がっている。
多くの人々が、王国の歴史を信じて暮らしている。
魔王は悪。
ルミナリアは裏切りの小国。
勇者は正義。
王国は世界を守る盾。
その物語があるから、国はまとまっている。
真実など、民にとって必要とは限らない。
「明朝、正式調査団を派遣する」
ヴァルガスは言った。
「名目は辺境復興支援。水脈異常の調査。逃亡傭兵の捕縛。薬師セラの保護。どれでもよい」
「実際の目的は」
「少女の確保。首飾りの回収。地下施設の封鎖。鑑定士レイン・アルカードの拘束」
「抵抗した場合は?」
「村人は反逆者として処理して構わぬ。ただし、少女と鑑定士は殺すな」
調査官は深く頭を下げた。
「承知しました」
「もう一つ」
ヴァルガスは机の上に置かれた別の報告書へ目を落とした。
そこには、勇者パーティーの進路が記されている。
「勇者カイルの一行は?」
「魔王領外縁の洞窟を通過。予定より半日遅れています。途中、呪具による小規模な混乱があったようです」
「鑑定士を失った影響か」
「おそらくは」
ヴァルガスは薄く笑った。
「若い勇者らしい。自分の剣が何を斬ろうとしているのかも知らず、ただ前へ進む」
「予定に支障は?」
「遅れは問題ではない。むしろ、少し迷わせておけ。迷った者ほど、最後には与えられた命令にすがる」
ヴァルガスは魔王領の地図に目を落とした。
「勇者には魔王を討たせる。あるいは、少なくとも封印の守護核を傷つけさせる。それで十分だ」
「魔王討伐が成功すれば、封印は弱まると?」
「百年前の資料では、そう記されている」
調査官の声がわずかに慎重になる。
「しかし、封印内部のものは危険ではありませんか」
ヴァルガスはゆっくりと振り返った。
「危険だから価値がある」
それ以上、調査官は何も言わなかった。
宰相は立ち上がり、壁に掛けられた古い絵へ近づいた。
絵には、初代アストレア王が魔王を討つ姿が描かれている。
炎に包まれた黒い怪物。
剣を掲げる王。
その背後に跪く民。
王都の至るところにある、よく知られた英雄画だった。
ヴァルガスはその絵を見上げる。
「民は物語を求める。複雑な真実ではなく、わかりやすい正義を求める。魔王が悪で、王国が善。それでよい」
彼は静かに言った。
「百年続いた物語を、辺境の鑑定士一人に壊されては困る」
調査官は深く頭を下げ、音もなく部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ヴァルガスは机に戻り、エルネ村の印を指でなぞった。
その指先に、黒い魔力がほんの一瞬だけ滲んだ。
「ルミナリアの亡霊どもめ」
彼は低く呟いた。
「今度こそ、完全に沈黙させてやる」
窓の外では、王都の鐘が鳴っていた。
それは民にとっては平和な夜を告げる鐘だった。
だが、辺境の小さな村にとっては、新たな災厄が動き出した合図でもあった。
翌朝。
王都の南門から、白い旗を掲げた一団が出発した。
荷馬車には食料と建材。
護衛として王国兵。
そして、復興支援団の印。
だが馬車の奥には、拘束具と眠り薬、そして地下遺構を封鎖するための黒い魔石が積まれていた。
その一団は、まっすぐエルネ村へ向かっていた。




