第22話 少女の記憶
地上へ戻った時、空はすでに夕暮れに染まっていた。
地下の記録室では、時間の感覚が曖昧だった。
青白い魔石灯。
壁に残された記録。
百年前の映像。
そして、消された小国ルミナリアの真実。
それらを見た後では、地上の空気さえ少し違って感じられた。
井戸の水音。
風に揺れる草。
崩れた家の影。
ガルドが薪を割る音。
セラが薬草を並べる音。
どれも昨日までと同じはずなのに、レインにはこの村そのものが何かを語り始めたように思えた。
ミラは、ほとんど口をきかなかった。
地下から上がってからも、彼女はずっと首飾りを握っていた。
青い石はもう強く光っていない。けれど、完全に沈黙したわけでもなく、胸元で淡く脈打つように光を残している。
レインは何度か声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいのかわからなかった。
百年前の王女もミラという名だった。
そして目の前のミラは、その血と記憶を継ぐ者かもしれない。
それを知ったばかりの少女に、軽々しく「大丈夫だ」と言うことはできなかった。
その夜、食事は静かだった。
井戸水で煮た芋のスープ。
少しだけ残っていた乾燥肉。
セラが森で摘んだ香草。
味は悪くないはずだった。
だが、ミラは器を両手で持ったまま、ほとんど口をつけない。
「食べないと倒れるわよ」
セラが静かに言った。
いつもの皮肉っぽさはなかった。
「うん……」
ミラは小さく頷き、スープを一口飲んだ。
けれど、その表情は晴れない。
ガルドもいつもなら何か大雑把な冗談を言うところだが、今日は黙っていた。
ノルは地下に残っている。記録室の再起動に魔力を回すため、しばらく施設から離れられないらしい。
焚き火の光が、四人の顔を揺らしていた。
「私ね」
食事が終わりかけた頃、ミラがぽつりと言った。
レインは顔を上げる。
「地下で見た女の子のこと、考えてた」
誰も口を挟まなかった。
「王女ミラ。私と同じ名前の子。あの子、たぶん怖かったよね。城が燃えて、兵士が来て、お母さまと離れて……それなのに、生きてって言われて」
ミラは自分の胸元を押さえた。
「私、あの子じゃないはずなのに、胸が痛いの。お母さまって呼びたくなる。知らない人なのに、知ってる気がする」
「記憶層が反応しているのかもしれないわ」
セラが言った。
「でも、それはあなた自身の記憶とは違う。混ざっているだけよ」
「混ざってる……」
ミラは不安そうに呟いた。
「じゃあ、いつか全部混ざったら、私はどうなるの?」
その問いに、セラはすぐには答えなかった。
代わりに、レインが口を開いた。
「全部を一度に思い出す必要はない」
「でも、思い出さなきゃいけないんでしょう? ルミナリアのことも、王国のことも、封印のことも」
「知る必要はある。でも、ミラが壊れてまで知る必要はない」
ミラがレインを見る。
レインは続けた。
「ノルも言っていた。順番を間違えれば人を壊すって。だから、今は休む。無理に扉を開けない。記憶も同じだ」
「でも、私が鍵なら……」
「鍵でも、ミラはミラだ」
レインははっきり言った。
「鍵として必要だからここにいるんじゃない。俺は、井戸のそばで一人だったミラを放っておけなかった。王女の記憶があるからじゃない」
ミラの瞳が揺れた。
「本当に?」
「ああ」
ガルドが鼻を鳴らした。
「少なくとも、俺は王女様だから守ってるわけじゃねえな」
「じゃあ、どうして?」
「飯を一緒に食ったからだ」
あまりにも単純な答えだった。
ミラがきょとんとする。
ガルドは当然のように続けた。
「同じ鍋を囲んだ相手を見捨てたら、飯がまずくなる」
セラがため息をついた。
「理屈が雑ね」
「わかりやすいだろ」
「否定はしないわ」
ミラは少しだけ笑った。
ほんの小さな笑みだったが、レインは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
その夜、ミラは早めに横になった。
疲れていたのだろう。
目を閉じてすぐに寝息を立て始めた。
レインは焚き火のそばで、地下の記録を写した手帳を見返していた。
ルミナリア王国。
水脈制御。
治癒魔導。
古代兵器。
魔王ゼルグレイス。
王女ミラ。
情報は増えた。
だが、わからないことはもっと増えた。
王国は今も封印を狙っているのか。
勇者カイルたちはどこまで進んでいるのか。
魔王を倒せば、本当に封印が弱まるのか。
ミラの記憶は、どこまで開くべきなのか。
考えているうちに、かすかな声が聞こえた。
「いや……」
レインは顔を上げた。
ミラが寝床でうなされている。
「お母さま……いや……行かないで……」
レインはすぐに駆け寄った。
「ミラ」
彼女の額には汗が浮かんでいる。
目は閉じたまま、呼吸が浅い。
「扉を閉めて……王国が……火が……」
「ミラ、起きろ」
レインは肩に触れた。
その瞬間、視界が揺れた。
目の前に、白い城の廊下が現れた。
小さな少女が走っている。
手を引いているのは、王妃らしき女性だった。
背後では鐘が鳴り、遠くから怒号と金属音が響く。
「お母さま、どこへ行くの?」
「地下へ。あなたは生きなければなりません」
「お父さまは?」
「お父さまは、国を守っています」
少女の足がもつれる。
王妃は膝をつき、少女の首に青い首飾りをかけた。
「ミラ。あなたは忘れていい」
「忘れる?」
「怖いことも、悲しいことも、私たちの顔も。全部忘れていい。けれど、いつか思い出す人が現れたら、その人と一緒に真実を見つけなさい」
「お母さまも一緒に来て」
王妃は涙をこらえながら微笑んだ。
「私は、ここに残ります」
「いや!」
少女が叫ぶ。
その声が、今のミラの声と重なった。
映像が弾ける。
レインは現実に戻り、大きく息を吸った。
ミラが目を開けていた。
涙で濡れた瞳が、レインを見ている。
「……見た?」
「ああ」
「お母さまがいた」
「うん」
「私、あの人を知ってる。知らないのに、知ってる」
ミラは震える手で首飾りを握った。
「レイン。私、怖い。王女ミラの記憶が戻ったら、今の私は消えちゃうのかな」
レインは首を横に振った。
「消えない」
「どうしてわかるの?」
「わからない」
ミラの顔が不安に曇る。
レインは正直に続けた。
「でも、消させない。もし記憶が押し寄せてきても、俺が今のミラを呼ぶ。ガルドも、セラもいる。ノルだって、たぶん何か方法を知っている」
「たぶん?」
「たぶんだ。でも、何もしないよりはいい」
ミラは涙をこぼしながら、少しだけ笑った。
「レインのたぶん、少し安心する」
「それは褒めてるのか?」
「うん」
レインは困ったように笑った。
その時、外で木片が鳴る音がした。
ガルドが仕掛けた簡単な鳴子だ。
レインはすぐに立ち上がる。
ガルドもすでに斧を手にしていた。セラは薬鞄を抱え、家の入口へ向かう。
「獣か?」
ガルドが低く言う。
「わからない」
レインは短剣を抜き、外へ出た。
夜の村は静かだった。
井戸の水面が月を映している。
風は弱い。
だが、村の外れにある見張り台の方で、細い煙が上がっていた。
レインは目を凝らした。
見張り台の柱に、一本の矢が刺さっている。
矢には、小さな布が結びつけられていた。
ガルドが周囲を確認する。
「撃った奴はもういねえ。遠くからだ」
レインは矢に結ばれた布を外した。
そこには、王国の紋章が押されていた。
セラの顔が険しくなる。
「警告ね」
レインは布を開いた。
短い文章が書かれている。
「ルミナリア反応を確認。翌朝、正式調査団を派遣する。抵抗する者は反逆者とみなす」
ミラが家の入口で立ち尽くしていた。
レインは布を握りしめる。
少女の記憶に触れた夜。
その直後に、王国からの警告が届いた。
百年前の火は、まだ消えていない。
王国は、再びエルネ村へ来る。




