第21話 消された小国ルミナリア
記録室の扉が開いた瞬間、乾いた空気が流れ出した。
古い紙の匂い。
石に染みついた埃の匂い。
長い間、誰にも読まれなかった言葉たちの匂い。
レインは魔石灯を掲げ、慎重に中へ足を踏み入れた。
そこは、地下にあるとは思えないほど広い部屋だった。
壁一面に石棚が並び、薄い金属板や石板、巻物のようなものが整然と収められている。中央には円形の台座があり、その上に大きな水晶板が置かれていた。
水晶板の表面は曇っていたが、ミラが近づくと内側から淡い光が灯った。
「ここが記録室か」
レインが呟くと、ノルが得意げに光を強めた。
「そうだ。ルミナリア北方守護施設における記録保管室。王国が燃やし、塗り替え、忘れさせようとしたものが、ここには残っておる」
ガルドが棚を見上げた。
「こんなにあるのかよ」
「歴史とは、都合のいい一枚紙ではない。人の営み、争い、祈り、失敗、後悔。それらすべての積み重ねだ」
「急にまともなことを言うな、石」
「古代魔導具だと言っておろう」
セラは壁際の金属板を一枚取り出し、表面を見つめた。
「読めないわ。古いルミナリア文字ね」
「王国では、もう教えていない文字だ」
ノルの声が少しだけ冷たくなる。
「文字を奪えば、記録は沈黙する。記録が沈黙すれば、歴史は勝者の口だけで語れる」
レインは水晶板に手を置いた。
「鑑定」
いつものように情報が流れ込む。
名称、記憶投影盤。
用途、記録資料の再生、映像化、音声復元。
状態、休眠解除。
魔力供給、不安定。
起動権限、鍵の継承者、および管理人格。
鍵の継承者。
レインはミラを見る。
ミラは水晶板の前に立ち、胸元の首飾りを握っていた。
「私が触ればいいの?」
ノルが答える。
「無理に深く開く必要はない。今回は、施設側に残った記録を再生するだけだ。おぬしの記憶そのものには触れぬ」
ミラはレインを見た。
レインは頷く。
「少しでも苦しくなったらやめよう」
「うん」
ミラが水晶板に手を置いた。
首飾りの青い石が光る。
水晶板の曇りがゆっくり晴れていく。
やがて、部屋の中央に淡い映像が浮かび上がった。
最初に映ったのは、美しい町だった。
白い石造りの家々。
水路を行き交う小舟。
丘の上に建つ小さな城。
広場では子どもたちが走り、職人たちが魔導具を組み立て、井戸端では人々が笑っている。
王国アストレアのような巨大な都ではない。
けれど、穏やかで、豊かで、よく手入れされた国だった。
「これが……ルミナリア?」
ミラが小さく言った。
「そうだ」
ノルの声が、わずかに誇らしげになる。
「大陸北方に存在した小国。軍事力ではアストレアに劣ったが、水脈制御、治癒魔導、封印術に優れた国だった」
映像が変わる。
工房で、技師たちが魔導具を作っている。
井戸の水を浄化する石柱。
病人に魔力を負担なく流す治療台。
畑の土を整える小さな魔導杭。
レインは思わず見入った。
エルネ村の井戸を直した時に見た魔力回路。
その技術は、ここから来ていたのだ。
「ルミナリアは、戦うための魔導より、生きるための魔導を重んじた」
ノルが言った。
「水を清める。病を和らげる。作物を育てる。災害を防ぐ。人が人として暮らすための技術だ」
「それを、王国は欲しがったのね」
セラが低く言った。
「そうだ」
映像は一転した。
王国アストレアの使節団が、ルミナリアの城を訪れている。
豪奢な服を着た王国の使者が、技術提供を求めている。
ルミナリア側は慎重な表情で応対していた。
「当初、アストレアは同盟を求めた。治癒魔導と水脈制御の技術を共有せよ、と」
「断ったのか?」
ガルドが尋ねる。
「すべてを断ったわけではない。民の生活を助ける技術は、段階的に提供するつもりだった。だが、王国が本当に欲しがったのは別のものだった」
映像に、黒い扉が映る。
壁画に描かれていた巨大な扉。
その奥に、禍々しい光がちらついている。
レインの胸がざわついた。
「古代兵器か」
ノルの光が沈む。
「ルミナリアの地下には、古い時代に封じられた魔導兵器が眠っていた。ルミナリアの王家は、それを決して使わぬと誓い、代々封印を守ってきた」
「王国は、それを奪おうとした」
セラが言った。
「研究機関の資料に、似た記述があったわ。『北方小国に眠る大規模魔導資源』。でも、兵器とは書かれていなかった」
「書けば罪になるからだ」
ノルの声が硬くなる。
映像はまた変わった。
交渉の場が壊れていく。
王国の使者が怒鳴る。
ルミナリアの王が首を横に振る。
その隣には、王妃らしき女性が立っている。腕には幼い少女を抱いていた。
少女の首元には、ミラと同じ青い首飾りが光っていた。
ミラが息を呑む。
「今の子……」
映像の中の少女は、母親の胸に顔を寄せている。
顔立ちははっきり見えない。
だが、白銀の髪だけが淡く輝いていた。
レインはミラの肩に手を添えた。
「無理するな」
「大丈夫。でも、胸が変」
ミラは水晶板を見つめたまま言う。
「泣きたいのに、私の涙じゃないみたい」
ノルが静かに言った。
「記憶層が反応しておる。深く触れすぎるな」
映像はさらに進む。
夜。
国境の砦が燃えている。
王国軍の旗が押し寄せる。
ルミナリアの兵たちは必死に防ぐが、数が違いすぎた。
ガルドが歯を食いしばった。
「侵略じゃねえか」
「王国の歴史では、ルミナリアが魔王と結託し、先に反乱を起こしたことになっているわ」
セラの声には怒りが滲んでいた。
「けれど、これは違う」
「王国は、欲しいものを手に入れるために物語を作ったのだ」
ノルが言う。
「ルミナリアは危険な国である。魔王と手を組んだ邪悪な小国である。だから討たねばならぬ。そう宣言すれば、侵略は正義になる」
レインは拳を握った。
勇者パーティーにいた頃、何度も聞いた言葉がある。
魔王を討て。
王国に仇なす悪を滅ぼせ。
世界の平和のために。
だが、その「悪」は誰が決めたのか。
レインは今、初めてそのことを考えた。
映像の中で、ルミナリアの城が炎に包まれる。
王は傷だらけで立っていた。
王妃は幼い少女を抱きしめている。
兵士たちが地下施設への避難を急がせる。
そして、黒い翼を持つ存在が現れた。
魔王ゼルグレイス。
王国兵たちは恐怖に後ずさる。
だがルミナリアの人々は、彼に怯えていなかった。
ルミナリア王が、ゼルグレイスに頭を下げる。
「我らの過ちだ。封印の力を守り切れなかった」
ゼルグレイスは静かに答えた。
「過ちではない。欲した者が悪い」
「だが、封印は弱まった。王国がこのまま奥へ踏み込めば、兵器が目覚める」
「ならば、私が守ろう」
王妃が顔を上げる。
「あなたに、すべての罪を背負わせることになります」
ゼルグレイスは、ほんのわずかに笑ったように見えた。
「私は元より、人に恐れられる存在だ。名が一つ汚れたところで変わらぬ」
レインは息を呑む。
王国の絵物語で、魔王は邪悪な笑みを浮かべ、人間の国を焼く怪物として描かれていた。
だが記録の中のゼルグレイスは、疲れた守護者のようだった。
映像の最後、王妃が幼い少女の首に手を添える。
「ミラ。あなたは忘れていい。けれど、いつか思い出す人が現れた時、この国が悪ではなかったことを伝えて」
ミラが、水晶板から手を離した。
映像が消える。
部屋には重い沈黙が落ちた。
ミラは震えていた。
「今……ミラって」
レインは彼女を支える。
「大丈夫か?」
「わからない。私じゃないのに、私が呼ばれたみたいだった」
ノルが静かに言う。
「百年前の王女の名も、ミラであった」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
「では、このミラは?」
セラが慎重に尋ねる。
「本人ではない。百年以上が過ぎている。だが、王家の血と記憶を継ぐ者である可能性が高い」
ミラは自分の首飾りを握りしめた。
「私が、王女の記憶を……?」
「断片だけだ。完全ではない。だからこそ危うい」
レインはミラの前に立つようにして、ノルを見た。
「これ以上は今日はやめる」
「賢明だ」
ノルは珍しく素直に言った。
ガルドは壁を拳で軽く叩いた。
「胸糞悪い話だな。王国はルミナリアを滅ぼして、悪者にして、記録まで消したってわけか」
「ええ」
セラの顔も硬かった。
「しかも、今もその兵器を欲しがっている可能性がある」
レインは消えた映像の名残を見つめた。
ルミナリアは滅びた。
王国は歴史を塗り替えた。
魔王は悪名を背負い、封印を守った。
そしてミラは、消された王女の名と記憶を受け継いでいる。
情報が多すぎる。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
王国がこの村を恐れる理由だ。
ここには、王国が消したはずの真実が残っている。
「ノル」
レインは言った。
「この記録は、外へ持ち出せるか?」
「持ち出すだけなら可能だ。だが、今の王国で公表しても握り潰されるであろうな」
「それでも、必要になる時が来る」
「よい判断だ」
ノルの光がわずかに強くなる。
「おぬしは少しずつ、自分の目を信じ始めておる」
レインは答えなかった。
まだ、自信があるわけではない。
ただ、今見たものを「気のせい」にはしたくなかった。
その時、記録室の奥で別の水晶板が淡く光った。
ミラの首飾りが、それに呼応する。
今度は映像ではなかった。
石棚の奥に刻まれた文字が、青白く浮かび上がる。
ノルがその文字を読み、声を低くした。
「北方守護村エルネ、最終避難記録」
ミラの体がこわばった。
レインも息を止める。
最終避難記録。
それはおそらく、百年前のあの夜、村人たちがどこへ逃げたのかを示す記録だ。
井戸の声。
森の旧倉庫。
地下へ逃がされた子どもたち。
その先が、ここに記されている。
ノルは静かに続けた。
「この記録を開けば、エルネ村の最後の夜がわかる」
ミラは震えながら、レインの袖を掴んだ。
「レイン……」
レインは彼女の手に自分の手を重ねる。
「今日は開かない」
ミラの瞳が揺れる。
「でも」
「知るためには、休むことも必要だ。真実に潰されたら意味がない」
ノルが小さく光を揺らした。
「正しい」
レインは記録室を見回した。
消された小国ルミナリア。
王国が隠した罪。
魔王の真実。
そして、ミラへつながる百年前の記憶。
すべてを知るには、まだ時間が必要だった。
だが、もう後戻りはできない。
エルネ村の地下で眠っていた歴史は、確かに目を覚まし始めていた。




