第19話 壁画の中の魔王
石板は、ふよふよと宙に浮かんでいた。
大きさは両手で抱えられるほど。
表面には細かな文字と魔法陣が刻まれており、中心には青白い光が灯っている。そこから声が出ているらしい。
「さあ、何をぼさっとしておる。百年以上も待たされたのだぞ。少しは感動せぬか」
石板――ノルは、偉そうに言った。
ガルドが眉をひそめる。
「この石、割ってもいいか?」
「やめて。貴重な古代魔導具よ」
セラが即座に止めた。
「喋る石なんぞ、貴重でも腹は立つ」
「聞こえておるぞ、大斧の粗忽者」
「ますます割りたくなった」
レインは二人の間に入るように一歩出た。
「ノル、と言ったな」
「うむ。正確には、ルミナリア北方守護施設管理補助人格第七号である」
「長いな」
「だからノルでよいと言ったであろう」
ノルは不満げに光を瞬かせた。
「ここは何の施設なんだ?」
「質問が大雑把すぎる。まったく、近頃の若者は」
「百年眠っていたのに、近頃がわかるのか?」
「口の減らぬ鑑定士だな」
ノルの光が、レインの顔を照らした。
「だが、悪くはない。おぬし、ただの鑑定士ではないな」
レインは警戒した。
「どういう意味だ」
「物の表面だけを見る目ではない。残響を読む目だ。記憶に触れる目だ。未熟ではあるが、真実の端を掴む資格はある」
レインは黙った。
井戸の声。
門柱の炎。
子どもの靴に残された逃亡の記憶。
やはり、あれは偶然ではない。
自分の鑑定は、この地下施設に来る前から、ルミナリアの過去に反応していたのだ。
ミラがそっと口を開いた。
「ノルは、私のことを知ってるの?」
ノルの光が、ミラの首飾りへ向いた。
「鍵の継承者。血統反応は一致しておる。ただし、記憶層に乱れがある。完全な継承ではないな」
「鍵……」
ミラは不安そうに首飾りを握った。
「私は、何の鍵なの?」
「それを知るには、まずこの施設が何を守ってきたのかを知らねばならぬ」
ノルはくるりと向きを変え、通路の奥へ進み始めた。
「ついてこい。見せるべきものがある」
レインたちは顔を見合わせた。
進むべきか。
まだ入口だけで戻ると言っていた。
だが、ノルの言葉を聞いてしまった以上、このまま引き返すことも難しい。
レインはミラを見る。
「大丈夫か?」
「怖い。でも、見たい」
その答えを聞いて、レインは頷いた。
「わかった。ただし、少しでも危険だと思ったら戻る」
「またそれか」
ガルドが呆れたように言う。
「慎重なのは美徳よ」
セラが返した。
「臆病と紙一重だがな」
「生き残る臆病なら価値があるわ」
ガルドは肩をすくめた。
「薬師様は口が立つ」
「大斧様は口を閉じて前を見て」
そんなやり取りをしながら、四人はノルの後を追った。
通路は、思ったよりも広かった。
壁には魔石灯が一定の間隔で並び、ミラが近づくたびに青白く灯っていく。床には埃が積もっているが、崩れた跡はない。百年以上閉ざされていたとは思えないほど保存状態がよかった。
やがて、通路は広い円形の部屋へ繋がった。
レインは思わず息を呑んだ。
壁一面に、巨大な壁画が描かれていた。
青い旗。
白い花を囲む三本の光。
丘の上に建つ城。
祈る人々。
そして、黒い翼を持つ巨大な存在。
「魔王……」
ミラが呟いた。
レインも同じことを思った。
壁画の中央には、王国の歴史書で何度も見た魔王ゼルグレイスらしき姿が描かれている。
黒い角。
大きな翼。
人間を見下ろすような巨体。
その姿は、王都の教会に飾られている魔王討伐画とよく似ていた。
だが、決定的に違う点があった。
壁画の魔王は、人々を襲っていなかった。
むしろ、ルミナリアの王らしき人物と並び、巨大な扉に手をかざしている。
その背後では、王冠をかぶった女性が子どもたちを守るように立っていた。
騎士たちは魔王に剣を向けていない。
魔王と共に、何かを封じようとしている。
「これは……どういうことだ」
ガルドが低く言った。
「王国で聞く話と違うぞ」
「王国では、魔王はルミナリアと手を組んで世界を滅ぼそうとした存在とされているわ」
セラが壁画を見上げながら言った。
「でも、この絵では逆ね」
レインは壁画に近づいた。
慎重に指先を触れる。
「鑑定」
瞬間、視界が白く弾けた。
風の音。
鐘の音。
誰かの叫び。
レインの目の前に、百年前の光景が広がった。
そこは、この円形の部屋と同じ場所だった。
だが、今よりもずっと明るく、人で満ちている。
ルミナリアの兵たちが傷だらけで立っている。
白い花の紋章をまとった王が、巨大な扉の前に立っていた。
その隣に、黒い翼を持つ存在がいる。
魔王ゼルグレイス。
恐ろしい姿だった。
だが、彼の目に浮かんでいるのは殺意ではない。
むしろ、深い疲労と悲しみだった。
ルミナリア王が言う。
「ゼルグレイス。民を守るため、そなたの名を汚すことになる」
魔王は静かに答えた。
「構わぬ。世界が残るなら、悪名など軽い」
「百年、あるいはそれ以上になる」
「ならば、その間、私は魔王でいよう」
レインの背筋が震えた。
魔王でいよう。
それは、世界を滅ぼす者の言葉ではなかった。
次の瞬間、遠くで轟音が響く。
王国兵が施設へ迫っている。
ルミナリアの騎士たちが扉を閉じようとしている。
王が魔王と共に、巨大な封印へ魔力を注ぐ。
その奥には、何かがあった。
黒い光を放つ、巨大な影。
兵器のようにも、獣のようにも見える。
見るだけで胸が圧迫されるような、禍々しい存在。
王が叫ぶ。
「封じよ! これを王国に渡してはならぬ!」
映像が途切れた。
レインは壁から手を離し、膝をついた。
「レイン!」
ミラが駆け寄る。
彼女も胸を押さえていた。
同じ映像の一部を見たのか、顔色が真っ青だった。
「今の……魔王が、王様と一緒にいた」
「ああ」
レインは荒い息を整えた。
「魔王は、ルミナリアを滅ぼそうとしていたんじゃない。何かを封じようとしていた」
セラの表情が硬くなる。
「王国の歴史と逆ね」
ガルドは斧の柄を握りしめた。
「じゃあ、俺たちが聞かされてきた魔王討伐の話は何だったんだ」
ノルが、静かに答えた。
「勝った者が作った物語だ」
部屋が沈黙した。
ノルの声には、先ほどまでの偉そうな軽さがなかった。
「ルミナリアは滅びた。王国アストレアは生き残った。ならば後世に残る歴史を記すのは、王国だ。都合の悪い真実は消され、都合のよい悪役が作られる」
「それが魔王ゼルグレイス?」
ミラが尋ねる。
「そうだ。彼は世界を滅ぼす魔王ではなかった。世界を滅ぼしうるものを封じるため、自ら魔王の名を背負った守護者だ」
レインは壁画の奥に描かれた巨大な扉を見た。
「封じたものは何だ?」
ノルの光が、かすかに揺れた。
「今のおぬしたちには、まだ早い」
「またそれか」
ガルドが苛立つ。
「隠し事ばかりされると、石でも腹が立つぞ」
「真実は、順番を誤れば人を壊す」
ノルは言った。
「特に、鍵の継承者にはな」
ミラが息を呑む。
レインはすぐに言った。
「ミラを道具みたいに呼ぶな」
ノルがレインへ向き直る。
「道具ではない。だが、役目はある」
「役目だけで人を見るな」
レインの声は、自分でも驚くほど強かった。
勇者パーティーで、レインはずっと「鑑定士」としてしか見られてこなかった。
役に立つか、立たないか。
戦えるか、戦えないか。
それだけで価値を決められた。
だから、ミラを「鍵」とだけ呼ぶ言葉には、どうしても我慢できなかった。
ノルはしばらく沈黙した。
やがて、少しだけ声を落とす。
「……訂正しよう。ミラは鍵である前に、ミラという個だ。これでよいか」
「十分だ」
ミラはレインの袖を握り、小さく言った。
「ありがとう」
レインは首を横に振った。
「当然のことを言っただけだ」
壁画の部屋には、青白い光が静かに揺れていた。
王国が語る歴史とは違う魔王。
滅ぼされたルミナリア。
封じられた何か。
そして、鍵と呼ばれるミラ。
レインは、ここから先の道がさらに危険になることを理解した。
だが同時に、引き返せないとも思った。
自分たちは今、王国が百年隠してきた嘘の入口に立っている。
壁画の中の魔王は、巨大な扉を封じながら、静かにこちらを見ていた。
その目は、レインにはこう問いかけているように見えた。
真実を知る覚悟はあるか、と。




