第17話 勇者パーティーの綻び
勇者カイルは、苛立っていた。
魔王領へ続く山道は、王都で聞いていたよりもずっと険しかった。
道は細く、岩は崩れやすく、木々の影には常に魔物の気配がある。空は重く曇り、湿った風が鎧の隙間から入り込んできた。
それでも、カイルは先頭を歩いていた。
勇者なのだから当然だ。
自分が迷えば、仲間たちが不安になる。
自分が立ち止まれば、魔王討伐の旅そのものが止まる。
だからカイルは、苛立ちを顔に出さないよう努めていた。
「カイル、少し休まない?」
魔法使いのリシアが、疲れた声で言った。
「さっきから魔力の流れが悪いわ。この辺り、空気が重い」
「魔王領が近いんだ。当然だろう」
カイルは振り返らずに答えた。
「だが、まだ進める。日が暮れる前に洞窟を抜けるぞ」
剣士ダリオが大剣を肩に担いで笑う。
「そうこなくちゃな。魔物が出る前に、さっさと進もうぜ」
神官エリオットは額の汗を拭いながらも、穏やかに頷いた。
「無理は禁物ですが、予定より遅れているのも事実です」
予定より遅れている。
その言葉に、カイルの眉がぴくりと動いた。
原因はわかっている。
出発初日の戦闘で、聖剣の刃元が欠けた。
致命的な損傷ではない。戦えないほどではない。
だが、魔力を込めるたびに刃が小さく震える。
レインが出発前に言っていた。
刃元に亀裂がある。魔力を込めすぎると危ない、と。
カイルは奥歯を噛んだ。
あれは偶然だ。
たまたま当たっただけだ。
そう思おうとしても、剣を振るたびに小さな違和感が手首へ返ってくる。
「カイル?」
リシアが怪訝そうに見た。
「なんでもない」
カイルは短く答えた。
レインのことなど考える必要はない。
あいつはもうパーティーにはいない。
鑑定士一人が抜けたくらいで、勇者パーティーが揺らぐはずがない。
新たに加わった攻撃魔法使い、マルクが前に出てきた。
「この先に洞窟があります。地図では、魔王領へ抜ける最短路です」
マルクは王宮推薦の魔法使いだった。
火属性の攻撃魔法を得意とし、確かに火力は高い。
だが、まだパーティーの空気には馴染んでいない。
レインがいた場所に、別の人間が立っている。
カイルはそのことにも、言葉にできない違和感を覚えていた。
洞窟の入口は、黒い口を開けていた。
中から冷たい風が流れてくる。
湿った岩の匂いと、古い土の匂い。
壁には発光苔が生え、青白い光が奥へ続いている。
「魔物の気配は?」
カイルが尋ねると、マルクは胸を張った。
「奥に何体かいます。ですが、僕の火球なら一掃できます」
「頼もしいじゃねえか」
ダリオが笑う。
リシアは少し眉をひそめた。
「火球? 洞窟内で?」
「広さは十分あります。問題ありません」
マルクは自信満々に言った。
以前なら、この場面でレインが何かを言っただろう。
発光苔の種類。
洞窟内の酸素。
岩壁の脆さ。
火魔法を使う危険性。
カイルは、その面倒な声が聞こえないことに安堵するはずだった。
だが、不思議なことに、今は静かすぎた。
「行くぞ」
カイルはその違和感を振り払うように歩き出した。
洞窟内は、思ったより広かった。
天井は高く、足元は乾いている。
魔物の気配もあるが、強敵ではなさそうだ。
しばらく進むと、岩壁のくぼみに古びた宝箱が置かれていた。
ダリオが目を輝かせる。
「お、宝箱じゃねえか」
リシアが警戒した。
「こんなところに? 怪しくない?」
「罠なら、マルクが見ればいいだろ」
ダリオが振り返る。
マルクは少し慌てたように宝箱の前へ出た。
「簡易探知をします」
彼は杖を掲げ、小さな魔法陣を展開した。
青い光が宝箱を包む。
しばらくして、マルクは頷いた。
「爆発系の罠はありません。毒も反応なし。魔力反応はありますが、中身の武器かと」
「よし、開けようぜ」
ダリオが手を伸ばす。
カイルは一瞬、ためらった。
レインなら、宝箱の金具に触れ、材質の劣化や封印の残り方まで調べただろう。
時間がかかる。
面倒だ。
だが、その面倒さで何度も危険を避けてきた。
カイルは首を振った。
考えすぎだ。
今は前へ進むべきだ。
「開けろ」
ダリオが宝箱を開いた。
中には、一本の剣が収められていた。
黒い鞘。
赤い宝石を埋め込んだ柄。
刃を少し抜くと、暗い銀色の光が洞窟内に走った。
「おお……」
ダリオが感嘆の声を漏らす。
「こいつはいい。かなりの業物だ」
リシアも目を細めた。
「魔力が強いわね」
マルクは得意げに言う。
「魔剣の類でしょう。ですが、邪悪な反応はありません」
カイルは剣を見つめた。
確かに強い力を感じる。
この剣があれば、ダリオの戦力はさらに上がるだろう。
「ダリオ、使えるか?」
「もちろんだ」
ダリオは剣を鞘から抜いた。
その瞬間、刃が低く唸った。
カイルの手元の聖剣が、かすかに震える。
「……待て」
カイルが言いかけた時には、もう遅かった。
ダリオの目が、一瞬だけ赤く光った。
「ダリオ?」
リシアが声をかける。
ダリオは剣を見下ろしたまま、口元を歪めた。
「すげえ……力が流れ込んでくる」
「すぐに鞘へ戻してください」
エリオットが一歩前へ出た。
「その剣、何かおかしい」
「おかしい?」
ダリオがゆっくり顔を上げる。
「何がだよ。俺は今、最高に調子がいいぜ」
その声は、いつものダリオより低かった。
カイルは聖剣を抜いた。
「ダリオ、剣を置け」
「命令すんなよ、カイル」
洞窟内の空気が冷えた。
リシアが杖を構える。
マルクも魔法陣を展開しようとする。
エリオットは祈りの言葉を唱え始めた。
だが、ダリオの動きは速かった。
黒い魔剣が横薙ぎに振られる。
カイルは聖剣で受けた。
金属音が洞窟内に響く。
衝撃は重かった。
普段のダリオより、明らかに力が増している。
「正気に戻れ!」
「俺は正気だ!」
ダリオが笑う。
「今まで力を抑えてたのが馬鹿みてえだ。これなら魔王だって斬れる!」
「その剣は危険だ!」
カイルが叫ぶ。
その瞬間、自分の声に別の記憶が重なった。
――その剣は危ない。魔力を込めすぎると、使用者を侵す。
レインなら、そう言っただろう。
カイルの胸に、嫌なものが走った。
リシアが氷の魔法でダリオの足元を凍らせる。
エリオットが浄化の光を放つ。
マルクが火球を構える。
「火は使うな!」
カイルは反射的に叫んだ。
マルクが驚く。
「ですが!」
「洞窟が崩れる!」
なぜそう思ったのか、カイル自身にもわからなかった。
だが、以前レインが言っていた。狭い洞窟で高威力の火魔法を使えば、熱膨張で岩が割れることがある、と。
マルクは悔しそうに魔法を消した。
ダリオは氷を砕き、再び踏み込んでくる。
カイルは聖剣で受け流し、柄でダリオの腹を打った。
エリオットの浄化が黒い剣に当たり、刃の赤い宝石が鈍く光る。
「今だ、リシア!」
「わかってる!」
リシアが拘束魔法を放つ。
青白い鎖がダリオの腕に絡みついた。
ダリオは暴れたが、カイルが剣を弾き飛ばす。
黒い魔剣が地面を滑り、壁際に当たった。
赤い光が消える。
ダリオの目からも、光が失われた。
「……俺は、何を」
彼は膝をついた。
エリオットがすぐに駆け寄り、浄化を重ねる。
「呪いです。完全に侵される前でよかった」
リシアが息を荒げながら、マルクを睨んだ。
「邪悪な反応はないって言ったわよね?」
「簡易探知では反応しなかったんです!」
マルクは顔を青くして叫んだ。
「あんな巧妙に隠された呪い、普通の探知では――」
「レインなら見抜いた」
誰かが言った。
リシアだった。
洞窟内が静まり返る。
カイルは彼女を見た。
リシアは気まずそうに唇を噛んだが、言葉を撤回しなかった。
「……ごめん。でも、そう思ったの」
ダリオは座り込んだまま、黒い魔剣を睨んでいる。
「くそ。俺は、あんな剣に……」
エリオットは深く息を吐いた。
「レインがいた頃は、こういう道具には必ず触れていましたね。面倒なくらい慎重に」
面倒なくらい慎重。
カイルはその言葉を胸の内で繰り返した。
確かに面倒だった。
何度も足を止められた。
宝箱一つ開けるにも時間がかかった。
剣を拾うにも、薬を飲むにも、橋を渡るにも、レインはいつも「待て」と言った。
その慎重さが、今はなかった。
その結果、仲間が仲間を斬りかけた。
カイルは黒い魔剣に近づき、布で包んだ。
直接触れる気にはなれなかった。
「この剣は封印する。持ち帰って王宮で調べさせる」
そう言いながら、カイルは自分の声が少し震えていることに気づいた。
リシアも、エリオットも、ダリオも黙っていた。
マルクは悔しそうに俯いている。
誰も責めきれない。
だが、誰も安心していない。
パーティーの空気に、小さな亀裂が入ったのがわかった。
まるで、カイルの聖剣の刃元に入った亀裂のように。
洞窟を抜けたのは、予定より三時間も遅れた後だった。
外はすでに夕暮れだった。
野営の準備をしながら、カイルは何度も腰の聖剣を見た。
欠けた刃元。
微かな震え。
そして、出発前にそれを指摘した鑑定士の顔。
「レインがいなくなったくらいで……」
カイルは小さく呟いた。
それなのに、胸の奥では別の声がしていた。
本当に、いなくなったくらいなのか。
焚き火の向こうで、リシアとエリオットが小声で話している。
ダリオはまだ顔色が悪い。
マルクは一人で杖を握りしめていた。
勇者パーティーは、まだ崩れてはいない。
だが、確かに綻び始めていた。




