第16話 畑と食卓
翌朝、エルネ村には少しだけ人の気配が増えていた。
といっても、住人と呼べるのはまだ四人だけだ。
鑑定士のレイン。
記憶を失った少女ミラ。
元傭兵のガルド。
逃亡薬師のセラ。
たったそれだけ。
それでも、昨日までの廃村とは違った。
井戸の水は澄み、焚き火の煙が上がり、崩れた家の前には洗った包帯が干されている。ガルドは不満そうな顔で腕を吊っていたが、セラに「動かしたら縫うわよ」と言われてからは大人しくしていた。
「薬師ってのは、どいつも脅し文句が物騒なのか?」
「患者が言うことを聞かない時だけよ」
「俺は患者じゃねえ」
「傷口を化膿させかけた大男は、立派な患者よ」
セラは淡々と言いながら、薬草を刻んでいる。
ガルドは何か言い返そうとして、ミラにじっと見られていることに気づき、口を閉じた。
「ガルド、ちゃんと休んだ方がいいよ」
「……嬢ちゃんまでそっち側か」
「ミラでいい」
「じゃあ、ミラ。俺はこれでも十分休んでる」
「さっき斧を振ろうとしてた」
「素振りだ」
「だめ」
ミラがきっぱり言うと、ガルドは大きな体を縮めるようにして黙った。
レインはそのやり取りを見て、思わず笑いそうになった。
昨日までは、王国兵の命令書、地下への階段、研究機関、ルミナリアの血と、不穏な話ばかりだった。
だが、今朝の空気には不思議と生活の匂いがあった。
「レイン」
セラが声をかけてきた。
「この井戸水、少し分けてもらえる?」
「薬に使うのか?」
「ええ。魔力濃度が安定しているから、薄めた回復薬の基礎水に使える。普通の水より馴染みがいいわ。きちんと処理すれば、魔力酔いにも効くかもしれない」
レインは井戸を見た。
昨日まで泣いていた井戸。
今は村の中心で、静かに水をたたえている。
「わかった。ただし、使いすぎないようにしてくれ。まだ水脈が安定しているか完全にはわからない」
「慎重ね」
「心配性とも言われる」
「それで生き残れるなら、悪い性格じゃないわ」
セラはそう言って、木桶に水を汲んだ。
レインは少しだけ驚いた。
心配性。
勇者パーティーにいた頃、それはいつも馬鹿にされる言葉だった。
だがセラは、それを欠点として扱わなかった。
レインは工具袋を持ち、村の外れへ向かった。
今日の目的は、畑を見ることだった。
エルネ村には、いくつかの畑跡がある。
今は雑草に覆われているが、畝の形は残っていた。
土の状態がよければ、少しずつ食料を作れるかもしれない。
ミラが後ろからついてくる。
「この辺り、昔は芋があったよ」
「覚えてるのか?」
「ううん。覚えてるっていうか……掘ったら、たまに出てくる」
「なるほど。経験か」
レインはしゃがみ、土を手に取った。
乾いている。
表面は固い。
だが、完全に死んだ土ではない。
「鑑定」
土の情報が流れ込む。
酸性、やや強め。
魔力汚染、微弱。
栄養不足。
地下水脈の回復により、改善可能。
適合作物、根菜類、薬草類、一部穀物。
「畑としては、まだ使える」
レインが言うと、ミラの顔が明るくなった。
「本当に?」
「ああ。すぐに大量の作物は無理だけど、芋や薬草なら育つ可能性がある。井戸水を薄めて使えば、土の魔力汚染も少しずつ抜ける」
「じゃあ、ここも戻せる?」
「時間はかかる。でも、戻せる」
ミラは畑を見つめた。
雑草だらけの、荒れた土地。
それでも彼女の目には、もう少し先の景色が見えているようだった。
「ここに、芋を植えたい」
「食料になるからいいな」
「あと、セラの薬草も」
「それも必要だ」
「ガルドには?」
「ガルドには……柵を直してもらうか」
「腕、痛いのに?」
「治ってからだ」
ミラは小さく笑った。
二人で草を抜き、石をどけ、土をほぐした。
作業は地味で、すぐに手が土で汚れた。だが、レインは不思議と嫌ではなかった。
勇者パーティーでは、いつも出発前の点検や道具の修理に追われていた。
誰かに感謝されることもなく、失敗すれば責められ、成功しても気づかれない。
今やっていることも、派手ではない。
土を調べ、草を抜き、石をどけるだけだ。
けれど、隣ではミラが楽しそうに働いている。
「レイン、これ食べられる?」
ミラが地面から小さな芋を掘り出した。
レインは受け取って鑑定する。
「食べられる。ただし、芽の部分は取った方がいい」
「やった」
ミラは嬉しそうに芋を籠に入れた。
昼過ぎには、籠に小さな芋がいくつか集まった。
セラは井戸水を使って薬草を洗い、ガルドは座ったまま壊れた木材を削っていた。休めと言われても、じっとしていられないらしい。
「斧を振るよりはましだろ」
ガルドはそう言いながら、薪を作っている。
セラは呆れたようにため息をついた。
「本当に、動かないという選択肢がないのね」
「傭兵は動いてないと死ぬ」
「薬師から言わせれば、動きすぎても死ぬわ」
「どっちにしても死ぬなら、動く方が性に合ってる」
「面倒な人」
「よく言われる」
夕方、ミラが掘った芋と、レインの保存食の残り、森で採った野草を使ってスープを作ることになった。
鍋は古いものだったが、穴は開いていなかった。
レインが鑑定して安全を確認し、セラが薬草と毒草を選り分け、ミラが芋を切る。ガルドは薪をくべようとして、セラに「座っていて」と睨まれた。
やがて、鍋から湯気が立ち上る。
芋と野草だけの質素なスープ。
乾燥肉を少し入れたので、かろうじて塩気と旨味がある。
四人は井戸のそばに集まって、器を手にした。
最初に飲んだのはガルドだった。
「薄いな」
「文句を言うなら、飲まなくていいわ」
セラが即座に返す。
「薄いが、うまいと言おうとしたんだ」
「なら最初からそう言いなさい」
ミラがくすくす笑った。
「私はおいしいと思う」
「俺もだ」
レインもスープを口に運ぶ。
熱い。
少し土の匂いがする。
芋は小さく、野草には苦みがある。
王都の食事に比べれば、決して上等ではない。
それでも、妙に胸に染みた。
誰かと同じ鍋を囲んでいる。
誰かのために水を汲み、火を起こし、食べ物を分ける。
ただそれだけのことが、今のレインにはひどく眩しかった。
「どうしたの?」
ミラが尋ねた。
「いや」
レインは器の中のスープを見つめた。
「こういう食事は、久しぶりだと思って」
「勇者パーティーでは食べなかったの?」
「食べてはいた。でも、こういう感じじゃなかった」
ガルドが鼻を鳴らす。
「飯はな、落ち着いて食えねえ場所にいる時点で負けだ」
「傭兵らしからぬ言葉ね」
セラが言うと、ガルドは肩をすくめた。
「戦場で覚えたんだよ。温かい飯を囲める場所は、守る価値がある」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。
レインは井戸を見た。
澄んだ水。
湯気の立つ鍋。
崩れた家々。
まだ荒れた畑。
ここは安全ではない。
王国に狙われている。
地下には、正体不明の遺構が眠っている。
それでも、守る価値がある場所になり始めている。
そう思った時だった。
広場の端に置いていた王国兵の地図が、風にめくれた。
レインは立ち上がり、地図を拾う。
エルネ村の赤い印。
その周囲に、いくつかの小さな黒点が書き込まれている。
最初はただの測量印だと思っていた。
だが、食事の火明かりに透かすと、黒点が村を囲むように配置されていることに気づいた。
「これは……」
セラが隣に来て、地図を覗き込んだ。
彼女の表情が険しくなる。
「監視点ね」
「わかるのか?」
「研究機関で使っていた地図記号に似ている。村を直接襲う前に、周囲の反応を見るための観測場所」
ガルドが斧の柄に手を伸ばす。
「つまり?」
セラは低く言った。
「王国は、もうこの村を見張っている可能性があるわ」
温かかった食卓の空気が、一瞬で冷えた。
レインは地図を握りしめる。
水は戻った。
畑も戻せるかもしれない。
食卓もできた。
だが、エルネ村に平穏が訪れるには、まだ早すぎた。




