第12話 村を捨てるか、残るか
地下へ続く階段は、朝になってもそこにあった。
夜の間に夢だったことになっていればよかったのに、とレインは少しだけ思った。
だが、村の中央に開いた石段は、冷たい口を開けたまま静かに沈黙している。
階段の奥は暗い。
光を入れても、途中から闇に飲み込まれる。
風が下から吹き上がってきて、湿った石と古い土の匂いを運んでいた。
ミラは、井戸のそばに立ったまま動かなかった。
昨夜、地下への入口が現れた瞬間から、彼女の顔色はずっと悪い。
眠った後も、何度かうなされていた。
――地下に、行っちゃだめ。
彼女は以前、そう言った。
そして今、その地下への道が目の前にある。
「今日は入らない」
レインが言うと、ミラはゆっくり顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。何があるかわからない。準備なしで入る場所じゃない」
レインは階段の縁にしゃがみ、石材を指でなぞった。
鑑定を使えば、階段の状態はある程度読める。
石の劣化。
地下から流れてくる魔力。
封印の残滓。
それらはわかる。
だが、奥に何があるのかまでは見えない。
この先には、王国が探しているルミナリア遺構がある可能性が高い。
ミラの記憶と、首飾りと、井戸の声。そのすべてにつながる何かが眠っている。
知りたい。
だが、今はまだ早い。
「レインは、気にならないの?」
ミラが小さく尋ねた。
「気になる」
レインは正直に答えた。
「ものすごく気になる。でも、俺たちは昨日ようやく水を飲めるようにしたばかりだ。食料も少ない。安全な寝床もない。王国兵がまた来る可能性もある」
「うん……」
「地下を調べる前に、まず地上を何とかしないといけない」
ミラは井戸を見た。
昨日まで濁っていた水は、今は静かに澄んでいる。
それだけでも、この村は少し変わった。
けれど、村全体を見ればまだ廃墟だ。
崩れた家。
壊れた柵。
荒れた畑。
獣の通り道になった村道。
王国兵の死体があった村外れ。
ここは、安心して暮らせる場所ではない。
「ねえ、レイン」
ミラが言った。
「この村、捨てた方がいいのかな」
その言葉に、レインはすぐには返事ができなかった。
ミラは自分の首飾りを握る。
「王国の人が来るかもしれない。地下に何かある。井戸の声も消えてない。森も怖い。だったら、ここにいない方がいいのかなって」
「そうだな」
レインは静かに言った。
「逃げるのは、間違いじゃない」
ミラが驚いたように目を上げる。
「止めないの?」
「危険な場所から離れるのは、悪いことじゃない。俺も、王都から逃げてきたようなものだ」
レインは苦笑した。
「この村に残る理由より、出ていく理由の方がずっと多い。王国に狙われている。地下には何があるかわからない。周りは森で、魔物も出る。助けを呼べる町も遠い」
「うん」
「だから、ミラが出ていきたいなら、俺は一緒に行く。次の宿場までなら、地図もある。そこで仕事を探して、どこか安全な町に移ってもいい」
それは、本気だった。
レイン一人なら、この村に残って謎を追うこともできる。
けれどミラを危険に巻き込む理由にはならない。
彼女が逃げたいと言うなら、逃げるべきだ。
ミラはしばらく黙っていた。
風が吹き、井戸の水面がわずかに揺れる。
「私ね」
ミラはぽつりと言った。
「ずっと、この村が嫌いだった」
レインは黙って聞いた。
「夜になると声がする。井戸が泣く。森からも声がする。家は壊れてるし、寒いし、お腹もすくし、誰も来ない。ここにいる理由なんて、何もなかった」
ミラは井戸に近づき、水面を見下ろした。
「でも、水が戻った時、少しだけ思ったの。この村、まだ生きてるんだって」
その声は震えていたが、はっきりしていた。
「昨日、初めて井戸の水を飲んだ。甘かった。誰かと一緒に飲んだからかもしれないけど、すごくおいしかった」
ミラはレインを見た。
「この村は怖い。でも、私のことを知ってる気がする。私が忘れてることを、井戸も、森も、地下も、覚えてる気がする」
「ミラ」
「逃げたら、楽かもしれない。でも、たぶん私は、ずっと怖いままだと思う。自分が何なのかわからないまま、どこかで暮らしても、きっと夜になるたびにこの村のことを思い出す」
ミラは首飾りを握りしめた。
「だから、残りたい」
レインは彼女の目を見た。
怯えている。
それでも、逃げる目ではなかった。
「本当にいいのか?」
「うん。怖いけど、知りたい。ここで何があったのか。私が何者なのか。どうして王国がこの村を消したがってるのか」
ミラは少しだけ笑った。
「それに、レインが井戸を直してくれたから。ここ、もう完全な廃村じゃないよ」
レインは思わず井戸を見る。
たった一つ、水が戻っただけだ。
家も畑も道も、まだ壊れたままだ。
王国の脅威も消えていない。
それでも、ミラの言う通りだった。
この村は、昨日までとは違う。
レインは深く息を吐いた。
「わかった。残ろう」
ミラの表情が明るくなる。
「いいの?」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件?」
「まずは地下に入らない。村を安全にする。水、食料、寝床、防衛。その四つを整える。それから地下を調べる」
ミラは真剣に頷いた。
「わかった」
「それと、危ないと思ったらすぐ逃げる。謎より命が大事だ」
「うん」
「もう一つ」
「まだあるの?」
「一人で森へ行かない」
ミラは少し気まずそうに目を逸らした。
「……はい」
「返事が軽いな」
「ちゃんと守る」
レインは苦笑し、村を見回した。
やるべきことは多い。
まず、井戸の周囲を整える。
次に、雨風をしのげる家を修理する。
食料の確保。畑の状態確認。
それから、村の入口に簡単な柵と鳴子を作る。
勇者パーティーにいた頃は、いつも誰かの遠征を支えるために準備をしていた。
今度は違う。
ここで暮らすための準備だ。
「今日は家の修理から始める。ミラが使ってる家は、屋根が危ない」
「でも、ほかの家はもっと壊れてるよ?」
「だから、一番ましな家を拠点にする。あと、畑も見る。食べられるものを増やさないと」
「畑……私、芋なら少しわかる」
「十分だ」
レインがそう言うと、ミラは少し誇らしげに胸を張った。
その時だった。
村の入口の方から、草を踏む音が聞こえた。
レインはすぐに短剣に手をかけた。
ミラも緊張して、レインの後ろに下がる。
音は一つではない。
重い足音。
何か金属がぶつかる音。
そして、低く荒い息遣い。
王国兵か。
魔物か。
レインは門の方を睨んだ。
崩れた門の向こうに、大きな影が現れる。
背の高い男だった。
ぼさぼさの黒髪。
無精ひげ。
傷だらけの革鎧。
肩には、身の丈ほどもある巨大な斧を担いでいる。
男はレインたちを見ると、ぎろりと目を細めた。
「ああ? なんだ、ここ。廃村じゃなかったのかよ」
ミラが小さく息を呑む。
レインは短剣を抜いた。
男は斧を担ぎ直し、面倒くさそうに首を鳴らす。
「悪いが、水を分けてくれ。王国兵に追われててな」
その言葉に、レインの警戒はさらに強まった。
王国兵。
この村に、また別の厄介事が流れ込んできた。




