第10話 首飾りの紋章
森を抜ける頃には、夕暮れの光が村を赤く染めていた。
レインは片手に布袋を抱え、もう片方の手で小さな革靴を握っていた。布袋の中には、井戸の浄化魔導具を直すための制御魔石と、いくつかの金具が入っている。
本来なら、成果は十分だった。
これで井戸を直せるかもしれない。
水が戻れば、ミラは雨水だけに頼らなくて済む。
廃村で暮らすための、最初の土台ができる。
それなのに、レインの胸は重かった。
小さな靴に残っていた百年前の記憶。
倉庫に隠された子どもたち。
外から迫る王国兵。
そして、母親らしき女性が呼んだ名前。
ミラ。
偶然同じ名前だったのか。
それとも、今隣を歩いている少女と何か関係があるのか。
レインは横目でミラを見た。
ミラは黙って歩いていた。
いつもなら森で見つけた木の実や薬草のことを話してくれるのに、今は何も言わない。両手で胸元の首飾りを握りしめている。
銀の鎖。
青い石。
そして、石の周囲に刻まれた紋章。
それは、エルネ村の門柱や、井戸の浄化魔導具に残っていた紋様とよく似ていた。
「ミラ」
レインが声をかけると、彼女は小さく肩を震わせた。
「ごめん。驚かせたか」
「ううん。大丈夫」
そう言いながらも、ミラの指は首飾りから離れない。
「その首飾り、痛みはあるか?」
「痛くはない。でも、触ってると変な感じがする」
「変な感じ?」
「胸の奥が、あったかくなる。でも、少し怖い。誰かに呼ばれてるみたいで」
ミラは青い石を見下ろした。
「私、これを知らないはずなのに、なくしたらいけないって思うの」
レインは頷いた。
「鑑定してみてもいいか?」
ミラは一瞬、首飾りを握る手に力を込めた。
当然だ。
今まで井戸や門柱、子どもの靴を鑑定するたびに、レインは過去の記憶を見てきた。首飾りにも同じことが起きる可能性がある。
レインはすぐに言い添えた。
「無理にとは言わない。怖いなら、今はやめよう」
「……レインが見たら、私のこと、わかる?」
「わかるかもしれない。でも、全部わかるとは限らない」
「そっか」
ミラはしばらく黙っていた。
風が吹き、廃屋の隙間を通り抜ける。
遠くで、古い板がきい、と鳴った。
やがてミラは、首飾りを外そうとした。
だが、鎖の留め具が見つからない。
「外れない……」
「見せてくれ」
レインは近づき、首飾りの鎖を確認した。
留め具がない。
まるで最初から輪として完成しているかのように、銀の鎖は途切れ目なくつながっていた。
「普通の首飾りじゃないな」
「やっぱり、変?」
「変というより、魔導具に近い」
レインは指先で青い石に触れた。
その瞬間、強い光が弾けた。
「っ!」
レインは反射的に手を引いた。
指先が痺れている。
痛みはないが、拒まれたような感覚があった。
「レイン!」
ミラが慌てて彼の手を取る。
「大丈夫だ。弾かれただけだ」
「弾かれた?」
「ああ。この首飾りには、持ち主以外が不用意に触れないよう守りがかかっている」
レインは息を整え、もう一度ゆっくりと鑑定を試みた。
今度は無理に深く読まない。
表面の情報だけを拾う。
「鑑定」
青い石の周囲に、細い文字が浮かぶ。
名称、不明。
材質、月銀、蒼涙石。
製造、ルミナリア王国。
用途、血統認証、記憶保護、封印鍵。
所有者、照合中。
登録名――
そこまで読んだところで、文字が乱れた。
次の瞬間、レインの視界に紋章が浮かび上がる。
白い花を囲む、三本の光の線。
その下に、古い文字が刻まれていた。
レインはその文字を知らない。
だが、鑑定が意味だけを拾い上げる。
ルミナリア王家。
レインは息を呑んだ。
「……ルミナリア」
ミラの顔色が変わる。
「また、その名前」
「この首飾りは、ルミナリア王国で作られたものだ。しかも、ただの装飾品じゃない。王家に関わる魔導具だと思う」
「王家……?」
ミラは呆然と呟いた。
「私が?」
「まだ断言はできない。でも、この首飾りはミラを守っている。持ち主として認めている可能性が高い」
「でも、私、何も覚えてない」
ミラは首を横に振った。
「王家とか、ルミナリアとか、そんなの知らない。私は、この村で一人でいただけ。水もまともに飲めなくて、森で木の実を拾って、夜は井戸の声を聞いて……それだけなのに」
声が震えていた。
「私、何なの?」
レインはすぐには答えられなかった。
ミラの正体を知りたい。
この村で何が起きたのか知りたい。
けれど、その真実が彼女を傷つけるものなら、急いで暴くべきではない。
勇者パーティーにいた頃のレインなら、ただ情報を並べていただろう。
異常、原因、危険性、対処法。
それだけを見ていた。
でも今、目の前にいるのは鑑定対象ではない。
不安に震える、一人の少女だ。
「ミラは、ミラだ」
レインは静かに言った。
ミラが顔を上げる。
「今すぐ全部わからなくてもいい。王家とか、封印鍵とか、そういうものが本当だったとしても、それだけで君が決まるわけじゃない」
「でも……」
「俺だって、勇者パーティーの鑑定士だった。けど、そこを追い出されたら、自分に何の価値があるのかわからなくなった」
レインは自分の手を見た。
「でも、ここに来て思った。誰かに決められた役目だけが、自分の全部じゃないんだと思う」
ミラは何も言わず、レインを見つめている。
「だから、一緒に調べよう」
「一緒に?」
「ああ。ミラが何者なのか。この村で何が起きたのか。ルミナリアが何なのか。俺だけで勝手に決めない。ミラが知りたいと思うところまで、一緒に調べる」
ミラの瞳に、少しずつ涙が溜まっていった。
「怖くなったら?」
「止まればいい」
「逃げたくなったら?」
「逃げてもいい」
「それでも、レインは……」
ミラは言葉を詰まらせた。
「いなくならない?」
レインは、昨夜と同じ問いを聞いた気がした。
レインもまた、捨てられたばかりだった。
必要ないと言われた。
足手まといだと言われた。
だからこそ、誰かに置いていかれる怖さはわかる。
「今は、いなくならない」
永遠の約束はできない。
軽々しく守れない言葉を口にしたくはなかった。
それでも、今ここにいることだけは約束できる。
「少なくとも、井戸を直すまではいる。ミラが安心して水を飲めるようになるまでは」
ミラは涙をこぼしながら、小さく笑った。
「そこから先は?」
「その時、また考える」
「じゃあ、井戸を直すの、すごく時間かけようかな」
「困るな」
レインが苦笑すると、ミラも少しだけ笑った。
その笑みを見て、レインは胸の奥が軽くなるのを感じた。
まだ何も解決していない。
王国の命令書もある。
ルミナリアの謎もある。
地下への扉も、百年前の逃亡も、何一つ明らかになっていない。
それでも、二人で向き合うと決めただけで、暗闇の中に小さな灯りがともったような気がした。
レインは布袋を持ち直す。
「まずは井戸だ。制御魔石を戻して、浄化魔導具を動かしてみる」
「私も手伝う」
「じゃあ、工具を取ってくれ。あと、石柱の周りの草をどけたい」
「うん」
二人は村の広場へ向かった。
崩れた家々の間を抜ける時、ミラの首飾りが淡く光った。
レインはその光に気づいたが、何も言わなかった。
首飾りの奥に、まだ読めなかった登録名がある。
登録名の最初の一文字だけが、レインの意識に残っていた。
ミ。
それがミラを指すのか。
あるいは、百年前に母親から名を呼ばれた少女を指すのか。
答えはまだ出ない。
ただ、レインは思った。
この首飾りは、ミラを過去に縛る鎖ではない。
いつか彼女自身が、自分の意思で未来を選ぶための鍵なのかもしれない。
村の中央では、濁った井戸が静かに二人を待っていた。




