第9話 百年前の逃亡
錆びた鐘を叩いた瞬間、倉庫の中の空気が震えた。
甲高い金属音が、石壁にぶつかって何重にも跳ね返る。
入口を塞いでいた巨大な魔物が、びくりと体を震わせた。
森牙狼。
しかも、さっき棚の陰にいた幼体とは比べものにならないほど大きい。黒い毛並みは泥に汚れ、背中には硬い棘のような毛が逆立っている。牙の隙間から、粘ついた唾液が糸を引いていた。
レインは鐘をもう一度叩いた。
ぎん、と耳を刺す音が響く。
魔物が苦しそうに頭を振った。
「ミラ、奥へ!」
レインは叫んだ。
ミラは両耳を押さえながら、崩れた棚の陰に身を寄せる。
レインは鑑定を発動した。
「鑑定」
魔物の情報が断片的に流れ込む。
種族、森牙狼の成体。
状態、飢餓。興奮。
聴覚過敏。
左目に古傷。
幼体を守るため、攻撃性上昇。
レインは棚の奥に隠れた小さな森牙狼を見た。
親か。
こちらを餌として見ているだけではない。子を守ろうとしている。だからこそ、入口から退かない。
レインは鐘を握り直した。
倒せない。
戦えば負ける。
けれど、追い払う必要もない。
親子を刺激せず、こちらが外へ出られればいい。
「ミラ、左の棚の裏に隙間はあるか?」
「え……?」
「入口じゃない。壁の崩れてるところ!」
ミラは震えながら振り返った。
「あ、ある! でも狭い!」
「通れるなら十分だ!」
魔物が前脚を踏み出した。
レインは鐘を床へ投げた。
鐘が石床を転がり、魔物の足元で止まる。
すかさず、レインは鉄槌を振り下ろした。
鋭い音が、さっきより近くで炸裂する。
魔物はたまらず後退した。
その隙に、レインは床に散らばっていた金具と青緑色の制御魔石を布袋に押し込む。
「レイン、早く!」
ミラが壁の隙間から手を伸ばしている。
レインは駆け出そうとして、足を止めた。
崩れた棚の下に、小さな革靴が落ちている。
さっき鑑定した、子どもの靴。
置いていけない。
理由はわからなかった。ただ、この靴をここに残したままではいけない気がした。
レインは身を屈め、靴を掴んだ。
その瞬間、また視界が揺れた。
炎の色。
煙の匂い。
子どもの泣き声。
今度は、先ほどよりも鮮明だった。
倉庫の中に、村人たちが隠れている。
大人たちは子どもを奥へ押し込み、息を殺すように言い聞かせていた。
「声を出すな。見つかったら終わりだ」
「お母さま、こわい」
「大丈夫。必ず迎えが来ます」
小さな女の子が、母親らしき女性の胸に顔を埋めている。
女の子の足元には、片方の靴がなかった。森を走る途中で脱げたのだろう。
外では、王国兵たちの声がする。
「北の倉庫を調べろ」
「子どもも残すなとの命令だ」
「ルミナリアの血は、火種になる」
レインの胸が冷たくなった。
子どもも残すな。
それは戦争ではない。
討伐でもない。
ただの虐殺だ。
映像の中で、倉庫の扉が乱暴に叩かれた。
大人たちが息を呑む。
女の子が泣きそうになる。
母親がその口を手で覆い、自分も涙を流していた。
その時、倉庫の奥の床板が持ち上がる。
誰かが囁く。
「地下道へ。子どもだけでも」
女の子は母親から引き離される。
「いや、お母さまも!」
「行きなさい」
「いや!」
「ミラ」
母親が女の子の頬を包んだ。
「あなたは、生きて」
映像が途切れた。
レインは現実に引き戻された。
目の前には、牙を剥く森牙狼。
背後ではミラが必死に手を伸ばしている。
「レイン!」
「今行く!」
レインは靴を抱え、壁の隙間へ飛び込んだ。
石が肩を擦る。
背中の荷物が引っかかる。
ミラが腕を掴んで引っ張った。
直後、森牙狼の爪が倉庫の床を抉った。
レインは転がるように外へ出た。
「走れ!」
二人は森の中を駆けた。
背後から魔物の唸り声が追ってくる。
だが、成体の森牙狼は倉庫から離れすぎようとしなかった。幼体を置いて追跡することはできないのだろう。
それでも、安心はできない。
レインとミラは枝を避け、根につまずきながら、必死に村の方角へ戻った。
森の半ばまで来たところで、ミラが足を止めた。
「ミラ?」
彼女は胸を押さえていた。
顔色が悪い。唇が震えている。
「今の……見えた」
「見えた?」
「倉庫の中。火。兵士。子どもたち。女の人が……」
ミラの瞳に涙が浮かんだ。
「女の人が、私の名前を呼んだ気がした」
レインは何も言えなかった。
靴に残された記憶の中で、母親は確かに言った。
ミラ、と。
それが今目の前にいるミラ本人なのか、同じ名を持つ誰かなのかはわからない。
百年前の出来事なら、年齢が合わない。
だが、この村で起きることは、普通の理屈だけでは説明できない。
レインは手に持った小さな靴を見下ろした。
古びた革靴は、ひどく軽かった。
けれど、その軽さが胸に重くのしかかる。
「この靴には、あの夜の記憶が残っていた」
レインは静かに言った。
「村の人たちは、王国兵から逃げていた。子どもたちは倉庫から地下道へ逃がされたらしい」
「地下道……」
ミラが呟く。
その声は震えていた。
「私、地下には行っちゃだめって言ったよね」
「ああ」
「でも、あそこに何かある。思い出したくないのに、思い出さなきゃいけない気がする」
レインはミラの顔を見た。
怖がっている。
それでも、逃げようとはしていない。
昨日まで、一人で廃村にいた少女。
王国に怯え、井戸の声に怯え、それでも生き延びてきた少女。
彼女は弱いだけではない。
「今すぐ地下へ行く必要はない」
レインは言った。
「まず井戸を直す。水を確保する。村で暮らせるようにする。その上で、調べよう」
「……うん」
ミラは小さく頷いた。
その時、彼女の首元で何かが淡く光った。
レインは目を細める。
「ミラ、それ」
「え?」
ミラは自分の胸元を見る。
そこには、見覚えのない首飾りがあった。
細い銀の鎖。
小さな青い石。
石の周りには、井戸や門柱に刻まれていたものとよく似た紋章が彫られている。
ミラは驚いて首飾りに触れた。
「なに、これ……?」
「前から持っていたのか?」
「わからない。こんなの、知らない」
そう言いながら、ミラはひどく怯えた顔をした。
「でも、懐かしい」
レインは首飾りに手を伸ばしかけ、止めた。
無理に鑑定すれば、また強い記憶が流れ込むかもしれない。今のミラに、それを見せるのは危険だ。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
その紋章は、王国アストレアのものではない。
エルネ村の門。
浄化魔導具。
そして、ミラの首飾り。
それらはすべて、同じ失われた名に繋がっている。
ルミナリア。
レインは森の向こうに沈む夕日を見た。
百年前、この森で何かが起きた。
子どもたちは地下へ逃がされた。
その中に、ミラという名の少女がいた。
そして今、記憶を失ったミラの首に、ルミナリアの紋章らしき首飾りが現れた。
偶然ではない。
レインは確信した。
ミラは、この村の過去そのものに繋がっている。
そして、その過去はまだ終わっていない。




