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『過労死百貨店マンの江戸商売無双 ~「お客様第一」の精神とドラッカーマネジメントで、天下の市場を買い占める~』  作者: 桐生宇優


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8/9

第8話:若き理解者と、驚異のスピード

【読者の皆様へ:本作を読む前のビジネス・ガイド】

本作は、現代の百貨店マンが江戸時代の呉服屋に転生し、未来の経営理論を駆使して成り上がる「ビジネス思考実験フィクション」です。

物語に登場する江戸の商習慣、歴史的背景、および主人公が巻き起こすイノベーション(正札販売など)の時期や変遷は、「もし、あの経営理論をこの時代に持ち込んだらどうなるか?」を分かりやすく解説するための創作フィクションであり、実際の史実とは一部異なる展開が含まれます。

偉大な先人たちの知恵である「ドラッカーのマネジメント」や「チェーンストア理論」が、江戸の街をどう変えていくのか――。エンターテインメントとして楽しみながら、現代のビジネスにも通じる商売の本質を感じ取っていただければお思います。

「……おい、本当に二百文で買えたぞ。値切りもへったくれもねえ、出された正札の通りだ!」


「本当かい? 呉服屋の敷居をまたがずに、この上等な木綿が買えるなんて……」


日本橋の店先に正札を掲げて三日。

越前屋の前には、これまで呉服屋に縁のなかった大勢の町人や職人たちが、黒山の人だかりを作っていた。


「駆け引きなし、現金値引きなし」という安心感は、口コミとなって瞬く間に江戸の街を駆け巡ったのだ。


しかし、店の中は地獄絵図だった。


「わあぁ! 若旦那、もう反物の在庫がどこにあるか分かりません!」


「お釣り銭の銭が足りねえ! 誰か両替商に走ってくれ!」


押し寄せる客の波に、古参の番頭・茂兵衛を筆頭に、奉公人たちは完全にキャパシティをオーバーしていた。

それもそのはずだ。

これまでは1日に数人の武家を相手に、お茶を出しながら数時間かけて商談していたのだ。それが今や、1時間に何十人もの庶民が押し寄せ、現金を叩きつけていく。


「落ち着け! パニックになるな!」


貞次郎が声を張り上げるが、怒号と喧騒にかき消される。


「――茂兵衛さん、大金箱の横で銭の勘定だけに集中してください。奥の在庫は私が仕切ります!」


その時、混乱する怒声の中に、驚くほど冷静で通る声が響いた。


声の主は、二十歳になる若手の手代、長吉ちょうきちだった。


長吉は、他の奉公人たちが「若旦那が頭のおかしい商売を始めた」と冷ややかな目を向ける中、初日から貞次郎の動きをじっと観察していた男だった。


長吉は素早い身のこなしで売場を走り回ると、混乱する丁稚たちに的確に指示を出し始めた。


「お前は反物を店先に運ぶ役! お前は売れた反物を包む役だ! 持ち場を離れるな!」


(……ほう)


貞次郎の目が、長吉を捉えた。


指示が的確なだけではない。長吉が走ることで、滞っていた店内の「動線」が、みるみるうちに流れ始めたのだ。


夕刻、這う這うの体で店を閉めた後。


畳にひっくり返る茂兵衛たちの横で、長吉だけは、今日1日で入ってきた大量の銅銭を黙々と数え、大福帳に整理していた。


貞次郎は、そんな長吉の前に歩み寄り、ぽんと肩を叩いた。


「長吉、助かったよ。お前のおかげで店が崩壊せずに済んだ」


長吉は手を止め、真剣な目で貞次郎を見上げた。


「滅相もございません、若旦那。……ですが、驚きました。本日の売上、これまでの越前屋の『一ヶ月分』を超えています。すべて、その場でお金が入る現金商売……。焦げ付きの心配が一切ない商売が、これほど強いものだとは夢にも思いませんでした」


長吉の言葉に、寝そべっていた茂兵衛ががばりと起き上がる。


「な、何だと……!? 1日で一ヶ月分だと!?」


「はい。ですが若旦那、このままでは明日、店が本当にパンクします。今の奉公人の動きでは、客の数に追いつきません」


長吉のその言葉を、貞次郎は待っていた。


「その通りだ、長吉。正札販売で客が増えたなら、次に行うべきは『売場の分業化とマニュアル化』だ」


「ぶんぎょう……? まにゅある……?」


長吉が首を傾げる。


「これまでは、一人の手代が客の相手をし、在庫を取りに行き、値段を交渉し、梱包まで全てやっていた。だから時間がかかる。明日からは違うぞ。長吉、お前が『売場マネージャー』だ。店員たちの役割を完全にバラバラにする」


貞次郎は、手近な紙に店の図面を書き殴った。


1、客に反物を見せて売る『販売係』


2、売れた反物を長さを測って裁断する『切地きれじ係』


3、代金を受け取り、お釣りを渡す『勘定係』


全員、自分の持ち場から一歩も動くな。商品をバケツリレーのように次の係へ回していくんだ」


「役割を、一つだけに絞るのですか……?」


長吉の目が輝き始める。


「そうだ。そうすれば、商売の経験が浅い丁稚でも、1時間でプロの動きができるようになる。これが、誰でも同じスピードで仕事ができる『仕組み(マニュアル)』だ」


茂兵衛は「職人の技をそんな細切れにするなんて……」と呆然としているが、長吉は違った。


「……できます。若旦那、私にその売場の差配マネジメント、任せてください!」


ダメ若旦那だと見捨てられていた貞次郎の元に、初めて、現代の経営理論を理解し、共に戦ってくれる最初の「部下」が誕生した瞬間だった。


(第9話へ続く)



【第8話あとがき:三井貞治の経営ミニ講座】

1.正札販売がもたらす「オペレーションの壁」

第8話をお読みいただき、ありがとうございます!

大ヒットした「正札販売」ですが、ビジネスにおいて「売れること」と「店が回ること」は別問題です。客数が爆発的に増えたことで、従来の「1人が何でもこなす接客」は完全に限界を迎えました。これは現代のベンチャー企業でも、急成長期に必ず直面する業務パンクの壁です。

2. ドラッカーが説く「強みを活かす分業」と組織の成長

貞次郎が提案した「分業制」は、ドラッカーの組織論の根幹に通じます。

ドラッカーは「組織の目的は、凡人をして非凡な成果を上げさせることにある」と言いました。

すべての仕事を完璧にこなせる万能な商人(天才)を育てるには何年もかかります。しかし、「計算が得意な者は勘定係」「手先が器用な者は裁断係」と、個人の『強み』だけに特化させれば、経験の浅い若者でも即戦力として驚異的なパフォーマンスを発揮できるようになるのです。

3. 一歩ずつ変わっていく周囲の目

これまで「吉原のバカ息子」と諦められていた貞次郎ですが、具体的な売上の数字(一ヶ月分)を叩き出し、さらに的確な解決策を提示したことで、若手の手代・長吉という最初の忠実な部下を得ました。一気に全員の信頼を得るのではなく、まずは「数字」と「論理」で、最も優秀な人間から味方にしていくのが貞次郎のリアルな再建術です。

4. 今回のチェーンストア理論(渥美俊一):作業の「単純化シンプリフィケーション

渥美俊一氏のチェーンストア理論において、多店舗展開をするための3大原則が「標準化」「専門化」、そして今回の「単純化シンプリフィケーション」です。

お店の仕事を極限まで細分化し、一つの作業を徹底的に「単純シンプル」にすること。

「誰でも、3日練習すればベテランと同じスピードでできる仕事」にまで落とし込むことで、初めて店舗はマニュアル化され、将来的に2号店、3号店を出したときにも、同じ品質のサービスを全国にコピーできるようになります。長吉というマネージャーを得た越前屋は、いよいよ高速回転する「近代的な店舗」へと脱皮を始めます。

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