第九話 数百年の時を超えた、父親の祈り
鎧の金属音が図書館中に響き渡る。
時間は無慈悲に過ぎていった。窓の外に深い闇が降り、夜中の零時を回ろうとした、その時。
「……ありましたーーーーー!」
一人の若い騎士の叫び声が、静寂を切り裂いた。 彼が泥と埃に塗れた手で掲げたのは、一冊の古い書物。文乃は駆け寄り、祈るような手つきでそれを受け取った。
「……これだわ」
革の表紙を開き、ページをめくる。そこには、地下牢で見た症状と完全に一致する記録――発熱、幻覚、痙攣、壊死――が記されていた。そして、その病の名は『黒穂病』。やはり、麦角菌による中毒だったのだ。
しかし、文乃の手が止まったのは、そのあとのページだった。そこには、医学的な記録だけでなく、著者の血を吐くような独白が綴られていた。
『私の愛する娘、エレナが死んだ。手足が黒く焼け、狂乱の中で息絶えた』
『私は医師でありながら、悪魔の憑依だと決めつけ、娘を地下牢に閉じ込めてしまった。なぜもっと早く、麦の異常に気付けなかったのか』
『この書を遺す。未来の誰かが、二度と同じ過ちを犯さぬように。娘のような犠牲者を、二度と出さぬように――』
インクの滲みは、著者の涙の跡だろうか。数百年の時を超えて、娘を失った父親の悲鳴と、未来への切実な祈りが、文乃の胸に流れ込んできた。
(……受け取ったよ)
文乃は埃っぽい本を胸に抱きしめ、強く目を閉じた。あなたの悲しみは無駄にしない。あなたの残した知識が、今、この国を救うのだから。
カッ!
文乃の決意に応えるように、手の中の万年筆が眩い光を放った。彼女は新しい羊皮紙を広げ、憑かれたようにペンを走らせた。著者が命懸けで記した「対策」を、現代の知識で補強し、完璧なマニュアルへと昇華させていく。
「……原因は『黒穂病』。麦角菌に汚染された穀物による食中毒です」
書き終えた羊皮紙を手に、文乃は王子の前で高らかに宣言した。
「対策はあります。汚染された麦の廃棄、塩水選による麦角の除去、そして輪作による予防。――これは、防げる病気です!」
その言葉が図書館に響いた瞬間、張り詰めていた空気が一気に解けた。ただの呪いだと怯えていた騎士たちが、それは「戦える敵」なのだと理解し、希望の表情を浮かべる。レオネルは深く頷き、静かに拍手を送った。
「見事だ、文乃。……君は、本当に救世主かもしれないな」
「いえ、まだです」
文乃は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、騎士団を見渡した。
「この情報を、国中の農民に伝えなければ意味がありません。つまり――」
彼女はニッコリと、悪魔的かつ魅力的な笑みを浮かべた。
「この報告書を、全町村に行き渡る枚数だけ、今すぐ書き写さなければなりません」
王立騎士団員たちの屈強な顔から、サーッと血の気が引いていく。
「また……徹夜……?」
絶望的な空気が流れたその時、ガルドが一喝した。
「筆を取れ! お前たちのペンが、剣よりも多くの命を救うのだ! 証明してみせろ、王立騎士団の誇りを!」
「「「はっ!!」」」
こうして、王立図書館の夜は、剣戟の代わりにペンの走る音が響き続けることとなった。
***
朝日が昇る頃、ついに国中へ配布するための対策資料が完成した。積み上げられた羊皮紙の束。それは、魔女狩りという悪夢を終わらせる希望の道標だ。 レオネルはその一番上の資料に、自らの手で一文を書き加えた。
『穀物に異常が見つかった場合、直ちに領主へ報告せよ。民を守ることこそ、王家の務めである』
力強い筆跡。すぐさま騎士たちが資料を抱え、伝令へと走る準備を整える。出立の直前、レオネルは整列した騎士たちの前に進み出ると、深く、静かに頭を下げた。
「この国を……そして罪なき民を救えるのは、君たちだけだ。頼んだぞ」
一瞬、時が止まった。国の頂点に立つ者が、家臣に頭を下げるなどあり得ないこと。朝日に照らされたレオネルの金髪が、揺れる。その真摯な姿に騎士たちの胸は熱く震え、背筋は弓のようにしなり、全員が一斉に美しい敬礼を返した。
「はっ!!」
轟くような返答と共に、騎士たちは疾風のように駆け出していく。その勇壮な背中を見送りながら、ガルドが苦言を呈した。
「……殿下。王家たる者が、そうやすやすと頭を下げるものではありません」
だが、レオネルは朝日に目を細め、清々しく笑った。
「民を救えるのなら、私の頭ひとつなど安いものだ」
その美しい横顔は、黄金の王冠よりも気高く、文乃の目には何よりも眩しく映った。
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