第十話 王子の直球、そして最強の『業務命令』
黒穂病の騒動から一ヶ月。王都を覆っていた不安の雲は消え去り、城下には穏やかな日常の活気が戻りつつあった。
その頃――文乃は、王立図書館の一角にある分厚い石壁の書庫で、今日も羊皮紙の束と向かい合っていた。机の上には解読途中の古文書が塔のように積まれている。文乃が文字を追うたび、丁寧に編み込まれた背中まで届く長いお下げ髪が、背もたれからさらりと滑り落ちて揺れる。古びたインクの匂いを胸いっぱいに吸い込み、知識の海に溺れる。この解読作業という名の“読書”こそが、彼女にとって何よりの至福だった。
カツ、カツ、と。静寂を割って、規則正しい靴音が近づいてくる。まただ。もう聞き慣れてしまった、高貴さと遠慮のなさが混在する足音。
「やあ、文乃。作業は捗っているかい?」
書架の陰から顔を覗かせたのは、この国の第一王子、レオネル・リュクサールその人だった。窓からの陽光を浴びて黄金に輝く髪、サファイアの瞳。ただ立っているだけで絵画になるその美貌は、今日も絶好調に輝いている。
文乃は、黒縁眼鏡の奥の目だけを上げて、わざとらしく小さくため息を漏らした。
「……またですか。日に三度も、飽きずに毎日毎日。王子様というのは、よほどお暇なんですね」
レオネルはにこやかに笑みを浮かべ、その嫌味を春風のように受け流す。
「暇だからじゃない。――君に会いに来てるんだよ」
唐突すぎる直球。文乃は一瞬だけペンを走らせる手を止めたが、すぐに視線を紙に戻して興味なさげに呟く。
「はぁ……そうですか」
カリカリとペン先が再び羊皮紙を走る。王子の言葉など、窓外の風の音ほどの重みもないという態度だ。だが、レオネルは肩を落としつつも、口元には安堵の苦笑を浮かべていた。
「……これが他の従者だったら、きっと感涙にむせぶところだろうになぁ」
表情は残念そうだが、その瞳は優しかった。玉座に座る「第一王子」としてではなく、ただの「レオネル」として接してくれる相手。へりくだることも、媚びることもなく、素のままの自分を見てくれる存在が、この広い王城でどれほど貴重か。彼自身が一番よく知っていたからだ。だからこそ、吸い寄せられるように、今日もまた図書館へと足を運んでしまう。
文乃が半ば呆れながらページをめくろうとした、その瞬間。重々しい咳払いが、地獄の底から響くように背後で鳴った。
「――殿下」
レオネルの肩がビクリと跳ねる。二人で振り向けば、そこには白髪を完璧に撫でつけた老執事、アルノルトが立っていた。背筋は一本の槍のように真っ直ぐで、その眼差しは物理的な痛みを伴うほど鋭い。
「明日の晩は殿下の誕生パーティーでございます。その主役が、準備を放り出して、このような場所で何を油を売っておいでですか?」
深々と、しかし優雅にため息を吐くアルノルト。レオネルは肩をすくめ、子供のように気まずそうに笑った。
「……アルノルトには敵わないな。どうして僕の居場所がわかる?」
「愚問です。私は殿下がお生まれになった時から、片時も離れずお世話しております。お考えなど、全てお見通しです」
老執事の眼鏡がキラリと光る。そのやり取りを見ていた文乃は、ふと素朴な疑問を口にした。
「誕生パーティー……そういえば、王子って今おいくつなんですか?」
「明日で十八歳になる」
「十八……? てっきり二十歳くらいかと思ってました」
その一言に、レオネルの目がサファイアのようにきらりと輝いた。身を乗り出し、文乃の顔を覗き込む。
「それはつまり……私に年相応以上の、大人の色気と魅力を感じてくれていた、ということかな?」
「いえ。ただの気のせいでした。すみません、中身を知れば知るほど、むしろ子供っぽいです」
文乃は表情一つ変えずさらりと流す。レオネルはぐさりと胸を射抜かれたような顔をして胸を押さえたが――同時に、その容赦のない冷たいあしらいに、どこか嬉しそうに口元を緩めるのだった。
***
その夜。レオネルは自室の大きな窓辺に腰を下ろし、深く、重い吐息を夜空に吐き出した。明日の晩、彼の十八歳の誕生日を祝う盛大な宴が開かれる。
かつて幼い頃は違った。両親に抱きしめられ、領主や騎士、国民たちにまで盛大に祝われ、純粋に「自分のための祭り」を楽しめた。だが今は――。
「……どうせ、また“あれ”だろう」
眉間に深い皺を寄せ、彼は天井を仰ぐ。豪奢なシャンデリアの輝きさえ、今の彼には鬱陶しい。
宴に集まるのは、由緒ある血筋を誇る貴族たち。政治の流れをも変えるほどの富を握る商家の娘。さらには、この国と縁を結びたい隣国の王族までもが顔を揃える。一人一人が、値踏みするような目で彼を見て、口を揃えて言うのだ。
『うちの娘は優秀です』『次代の王妃にふさわしい』――と。
明日の宴は、もはや誕生日などではない。ただの“政略的なお見合いの場”。家柄と血筋を競い合う“婚活の見本市”に他ならない。
「いっそ、王都から逃げ出してやろうか……」
深紅のソファに仰向けに倒れ込みながら、そんな危険な考えが頭をよぎる。だが次の瞬間、脳裏に浮かんだのは――背筋をピンと伸ばし、氷のような眼差しで彼を追跡する老執事アルノルトの姿だった。
「……無理だな。即行で見つかって連れ戻される」
自分の未来が容易に想像でき、思わず自嘲の笑みが漏れる。しばしの沈黙が流れたのち、レオネルはぼそりと呟いた。
「最初から想い合った許嫁でもいれば……こんな面倒なお見合いもどき、しなくて済むのにな」
その言葉が自らの口からこぼれた瞬間、王子の瞳に雷に打たれたような光が宿った。ガバッと勢いよくソファから跳ね起きる。
「……そうか!」
少年のような無邪気な笑みを浮かべ、彼は夜の自室で叫んだ。
「その手があったか!」
王子の声が廊下まで響き渡り、侍従たちが何事かと扉の外でざわめき始めたが、当の本人は全く気に留めていなかった。彼の中には今、とびきりの名案が輝いていたのだから。
***
場所は再び、王立図書館。高い天井までそびえる書棚に囲まれ、静寂の中で紙をめくる音だけが響いていた。
――カツン、カツン、カツン!
規則正しく、けれど昨昼よりもやけにせっかちな足音が近づいてくる。文乃は眉をひそめた。
「……またか」
勢いよく扉が開かれ、鮮やかな金髪を揺らしながらレオネルが飛び込んでくる。
「やあ、文乃!」
「……今日は何のご用ですか? 私は暇じゃないんですけど?」
長いお下げ髪を背中に払い、文乃は深々とため息をついた。それでも王子はめげない。むしろ楽しそうに机に両手をつき、文乃の顔を覗き込んだ。
「単刀直入に言おう。明日の夜のパーティーに、私のパートナーとして出てみないか?」
「断ります」
食い気味に即答。コンマ一秒の迷いもない。だが王子は引き下がらない。大げさに手を広げ、豪華絢爛な未来図を描いてみせる。
「いいのか? そこでは国一番のシェフによる豪華な料理が振る舞われ、最高級のシルクのドレスが君を彩り、この世に二つとない宝飾品だって贈られるかもしれないんだぞ!」
「……それら全部合わせても、図書館にあるこの本たちのほうが何倍も価値がありますので」
文乃はキッパリと言い放ち、視線を羊皮紙へ戻す。王子の語る華やかな世界も、彼女にとってはインクの染み一つほどの価値もない。レオネルはその様子に一瞬呆気に取られるが――次の瞬間には口元を緩め、むしろ楽しそうに彼女を見つめていた。
「……こうなったら最終手段だな」
ぽつりと呟いた王子の声音が変わった。文乃が顔を上げると、レオネルは真剣――いや、どこか愉快そうな「王の顔」で彼女を見据えていた。
「文乃。お前は誰だ?」
「……はい?」
意味不明な質問に、文乃はお下げの先をいじりながら首を傾げる。
「私の名前は……文乃、ですけど」
「よし。ではもう一つ。お前の役職は?」
「王立図書館の司書……ですけど?」
次の瞬間、王子は胸を張り、勝ち誇ったように高らかに宣言した。
「ならば答えは一つ! 私はお前の雇い主だ!」
「はぁ!?」
「クビになりたくなければ――私の業務命令に従うんだな!」
どや顔全開で笑う王子。
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