第十一話 絶対零度のメイド長と、悪夢のスパルタ淑女教育
「ずるい! 横暴だ! 完全に職権濫用じゃないですか!」
文乃は椅子を蹴り倒しそうな勢いで立ち上がり、抗議の声を上げた。しかしレオネルは、そんな文乃の反論さえ楽しんでいるかのように、余裕の笑みを崩さない。
「ふふん、王子の特権というやつだな。立て」
王子の有無を言わせぬ声に、文乃はむすっとした顔でしぶしぶ机から離れた。レオネルは腕を組み、眉間に深い皺を寄せながら、文乃の姿を頭のてっぺんからつま先までじっくりと観察する。その視線は値踏みするようで、文乃は思わず肩をすくめた。
「……何か、不満でもおありですか?」
「不満? いや、問題しかない」
レオネルはバサリと切り捨てた。
「まず髪! 手入れはされているが、その長いお下げは野暮ったい! 次に目! 本ばかり読んでいるから隈がひどい! 姿勢は猫背! そしてその立ち方……足を開きすぎだ! 淑女の態度としては零点以下だな」
容赦ない王子の評価に、文乃の頬がぴくりと引きつった。こめかみに青筋が浮かぶ。
「……帰らせていただきます」
「待て! 大丈夫だ!」
踵を返そうとする文乃の肩を、レオネルがガシッと掴んだ。その顔には、なぜか自信満々の笑みが浮かんでいる。
「この私には秘策がある。我がリュクサール家が誇る、とっておきの最終兵器を呼ぼう!」
そう言って、両手を高らかに打ち鳴らす。パァン!
「――マチルダ・グローネッ!!」
レオネルの大声が王立図書館の高い天井に響き渡る。しかし、館の扉は開かず、廊下から駆け足で来る音もない。しん……と静まり返ったままだ。
「……誰も来ませんけど?」
文乃は半眼で王子を睨み、しらけた声を漏らした。だが、レオネルは口元を不敵に吊り上げて笑う。
「いや、もうすでに来ている」
「――お呼びでしょうか、レオネル様」
その瞬間。文乃の背後から、温度のない、しかし鈴を転がすように澄んだ声が響いた。一切の気配を感じさせなかったその人物の登場に、文乃の喉から悲鳴が飛び出す。
「ひゃあああっ!? い、いつの間に――っ!」
心臓が口から飛び出しそうな衝撃に、文乃は腰を抜かしそうになり、机にしがみついた。振り返れば、そこには影のように静かに立つ一人の女性がいた。
王宮メイド長、マチルダ・グローネ。
ミッドナイトブルーの髪を、一筋の乱れもなくタイトにまとめ上げている。年齢不詳の美しい顔立ちだが、細身の眼鏡の奥にあるアイスブルーの瞳は、絶対零度の冷たさを放っていた。黒髪の文乃とは対照的な、冷たく、研ぎ澄まされた「夜の色」を纏う女性。
「ふふん、紹介しよう」
レオネルが得意げに胸を張る。
「彼女こそ、リュクサール家が誇る最終兵器――メイド長、マチルダだ!」
マチルダは表情一つ変えず優雅に一礼すると、眼鏡の位置を人差し指でカチリと直した。そして、無駄のない動作で文乃の全身をスキャンするように見下ろす。
「……なるほど」
一言そう呟き、納得したように頷いた。その目には、汚れた皿を見るような厳しさがある。
「マチルダ、一晩でできるか?」
レオネルが尋ねる。メイド長は鋭い眼差しを王子に向け、即座に答えた。
「愚問です。出来るかどうかではありません――やるのです」
その言葉に満足げに笑ったレオネルは、「あとは頼んだぞ」と言い残し、早々に自室へと引き上げていった。残された文乃は青ざめた顔で、マチルダを見上げる。ここから、悪夢のような淑女教育が始まった。
まずは髪型。
「痛みを感じるのは髪が生きている証拠です」
無表情で櫛を通され、引っ張られ、「いだだだだ!」と叫ぶ文乃。
次に姿勢矯正。
「頭上の水は王家の品位です。一滴たりとも零してはなりません」
頭にフィンガーボールを載せられ、歩く練習。ほんの数歩で水をぶちまけ、「む、無理ですぅぅ!」と絶叫する。
さらにコルセットの装着。
「息をする暇があるなら、腹筋を引き締めなさい」
マチルダが容赦なく紐を締め上げると、文乃は「ぐぇえええ!」と淑女にあるまじき声を漏らす。
夜を徹して続いた特訓は、まさに鬼のスパルタ。 だが、罵倒されても、転んでも、文乃は歯を食いしばって立ち上がった。
「やるからには完璧にやりたい」という、彼女本来の負けず嫌いな性格に火がついたのだ。その瞳が諦めから闘志へと変わっていく様を、マチルダのアイスブルーの瞳は静かに、しかし確かな評価を持って見つめていた。
そして――図書館の窓から朝日が差し込む頃。
「……合格です」
マチルダの短い言葉とともに、特訓は終わった。 二人は互いに見つめ合い、ボロボロになりながらも、やり遂げた達成感を胸に抱きしめ合った。
「よくやり遂げましたね、文乃。あなたは……私の誇るべき生徒です」
マチルダは珍しく声を震わせ、人間らしい体温のある賛辞を贈る。
「マチルダさん……ありがとうございます。あなたがいてくれたから、頑張れました」
文乃もまた涙を浮かべ、感謝を口にする。
それは、まるでスポ根アニメの監督と選手が最後に交わす抱擁のような、熱く固い友情の証だった。
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