第七話 地下牢の絶叫、そして『聖アントニウスの火』
文乃は再び報告書を開き、今度は感情を排して細かな記述に目を走らせた。
「発熱……悪寒……そのあと、突発的な暴力性の増大……」
ページをめくる指先がピタリと止まる。さらに読み進めると、被害を受けた村々で、家畜の流産や異常死が多発しているとの記録があった。村人たちはそれを「魔女の呪い」だと恐れたが、文乃には違う景色が見えていた。
「これって……病気の流行じゃないの?」
小さく漏れた呟きを、レオネルは聞き逃さなかった。
「病気だと? 文乃、これは魔女の所業だと国中が恐れているんだぞ」
「では、王子はこの世界で、魔法というものを実際に見たことはありますか?」
レオネルは一瞬虚を突かれた顔をし、無言で首を横に振った。長い金髪がわずかに乱れる。文乃は真っ直ぐに彼を見据えた。
(やっぱり…この世界は魔法が存在しない、もしくは存在しても知られていない世界なのか…)
「分かりました。では、その“魔女”をこの目で見せてください」
レオネルの整った表情が凍りついた。
「……正気か? 確かに王都の地下牢に一名幽閉されているが、人を殺しかけた凶悪な存在だ。近づけばお前のような華奢な体など、ひとたまりも――」
「それでも」
文乃はきっぱりと遮った。
「私は見たいんです。知りたいんです。何も知らないまま、恐ろしい存在だと決めつけるのは、先人たちが積み上げてきた知識を踏みにじることですから」
彼女の声は震えていなかった。小柄な彼女が、長身の王子を見上げるその瞳には、確かな意思の光が宿っていた。レオネルはしばしその瞳に見惚れるように黙り込み、やがて敗北を認めるように苦笑した。
「……わかったよ。私の負けだ」
隣でガルド団長が盛大なため息をつき、分厚い胸板を揺らした音が聞こえたが、文乃は気にしなかった。過去の偉人達が残してくれた知識を武器に真実を暴く――その覚悟は、すでに決まっていた。
***
石の階段を降りるたび、ひんやりとした死の匂いを含んだ空気が肌を刺す。文乃はガルドの鍛え抜かれた広い背中に守られるようにして、王国の地下牢へと足を踏み入れた。
鉄格子の向こう。冷たい石床の上に、一人の女性が横たわっていた。ボロボロの衣服、やつれた顔、焦点の合わない虚ろな瞳。次の瞬間、彼女は誰もいない闇の奥に向かって、鼓膜を裂くような甲高い絶叫を上げた。
「――っ!」
ガルドが反射的に腰の剣の柄に手をかけ、身構える。だが、文乃は冷静だった。彼女は眼鏡の位置を直し、鉄格子の隙間から女性の状態を凝視した。
(幻覚……錯乱……意識の混濁。それに、あの痙攣……)
女性の体は小刻みに震え、意思とは無関係に跳ねていた。それは狂気というより、「症状」だった。 さらに目を凝らすと、彼女の手足が赤く腫れあがり、指先や爪の先が炭のように黒く変色しているのが見えた。血の巡りを失った末端が、壊死しているのだ。
「これは……神経毒による血管の収縮……?」
文乃の脳内で、報告書の内容と目の前の惨状が線で結ばれていく。家畜の流産。人間の錯乱。手足の壊死。すべてを説明できる一つの仮説が、頭の中で形を成した。
(これは呪いなんかじゃない。病気だわ……それも、毒による)
魔女と呼ばれた女性の、助けを求めるような掠れた呼吸音が、牢獄の壁に反響する。その音を聞きながら、文乃はスカートの裾を掴み、強く拳を握りしめた。彼女を救えるのは、祈りでも魔法でもない。「知識」だけだ。
***
地上に戻った文乃は、息つく間もなく王立図書館へと駆け込んだ。高い天井までそびえる本棚を見上げ、彼女は祈るように呟く。
(必ず……答えはこの中にあるはず)
机に報告書と自分のメモを広げ、情報を整理する。 幻覚、錯乱、痙攣、壊死。家畜の流産。症状の広がり方からして、空気感染ではない。水でもない。ならば――。
「……食料」
文乃は顔を上げ、ガルドを見た。
「ガルドさん、農民たちの主食は何ですか?」
「主食? ああ、ライ麦の黒パンだな。平民ならどこの農村でもそうだ」
その答えを聞いた瞬間、文乃の脳裏に稲妻が走った。かつて読み耽った本の一節が、鮮明に蘇る。 中世ヨーロッパ。ライ麦を食べた人々に起きた、狂気と死の連鎖。手足が黒く焼け爛れ、村ごとに壊滅をもたらした恐怖の病。
「……『聖アントニウスの火』!」
文乃の声が、広大な図書館に凛と響いた。偶然ではない。必然だった。かつての歴史を記した“本”が、時空を超えてこの異世界の謎を照らし出したのだ。
「『聖アントニウスの火』……麦角菌というカビの毒による、大規模な食中毒事件よ」
その言葉に、ガルドとレオネルが息を呑む。
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