第六話 魔女の残り火、思考を止めるな
翌日。
王立図書館の片隅で、文乃は自分だけの城を築いていた。豪奢な彫刻が施されたマホガニーの机には、塔のように積まれた古文書の山。小柄な文乃の姿が隠れてしまうほどの量だ。静寂の中、彼女の指先がリズミカルにページをめくり、さらさらと流れる黒髪がわずかに揺れる。カリカリとペンを走らせ、時折、黒縁眼鏡の奥の瞳を細めて「うーん」と唸る。古紙とインクの香りに包まれたその空間は、彼女にとって何物にも代えがたい至福の時間だった。
「相変わらず、熱心だな」
不意に背後からかけられた軽やかな声に、文乃は顔を上げる。そこに立っていたのは、公務を終えた第一王子、レオネル・リュクサールだった。窓から差し込む光を浴びて、肩まで流れる黄金の髪がさらりと揺れる。陶磁器のように滑らかな肌に、宝石のような蒼い瞳。ただ立っているだけで絵画のようなその美貌は、図書館の埃っぽい空気すら浄化するようだ。
「何かご用でしょうか、殿下」
「用事がなくては来てはいけないのか? ……と言いたいところだが、今日はお前に渡すものがあってね」
そう言って彼が差し出したのは、一冊の黒革の報告書だった。レオネルの白く優美な指先とは対照的に、その黒い表紙はどこか重苦しく、血の匂いすら感じるような生々しい気配を纏っている。文乃がそれ開くと、そこには戦慄すべき記録が綴られていた。
――ある日を境に、突如として狂い始める者たちが現れた。人格は崩壊し、家族や隣人に牙を剥き、幻覚に怯えて暴れ回る。
「これは……」
文乃が息を呑む。眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、食い入るように文字を追う。
報告書は続く。狂気に囚われた者を、人々は“魔女”と呼んだ。恐怖に駆られた民衆は彼らを家に閉じ込め、火を放ち、葬る。憎悪の連鎖は都市から地方へと広がり、件数は年々増加の一途をたどっているという。今や誰もが隣人を疑い、家族すらも信じられない――それが、この国の現状だった。
「……魔女事件。ただの迷信や噂話ではなさそうですね」
パタン、と重い音を立てて報告書を閉じると、図書館に沈黙が落ちた。文乃は深いため息をつく。 魔女。狂気。炎に包まれる家。けれど、文乃の大きな瞳に浮かんだのは恐怖ではなかった。それは、喉の奥に小骨が刺さったような、強い違和感だった。
(ありえない……いや、ここは異世界だから、ありえるの?)
自問してみても、文乃の理性が首を横に振る。 彼女は現代日本に生まれ育った人間だ。制服代わりの簡素なワンピースに身を包んでいても、その中身は論理的な現代人そのものだ。いくらここが異世界であっても、現象には必ず「理屈」があるはずだ。 昔の世界だってそうだった。地震は神の怒り、疫病は悪魔の呪い。人々は理解できない現象を、超自然的な存在のせいにした。けれど、先人たちは諦めなかった。観察し、仮説を立て、失敗を重ね、答えを突き止めてきた。その血と汗の積み重ねが「歴史」として本に残り、世界を形作ってきたのだ。
文乃は机の上に視線を落とし、並べられた分厚い本の背表紙をそっと撫でた。ここにも、きっと同じように――誰かが残した答えが眠っているはずだ。
(“魔女”なんて言葉で思考停止したくない。必ず、原因を突き止めてみせる)
顔を上げた彼女の瞳には、もはや不安の色はなく、探求の炎が静かに燃えていた。
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