第四十五話 塗りつぶされた黒き痣
数日後、リュクサール城の奥深くでは、騎士団による極秘の調査が進められていた。城に仕える使用人たち、庭師、出入りする商人――。誰ひとり例外なく、密かに聞き取りが行われたが、結果は芳しくなかった。
「……やはり、確証は得られませんでした」
報告を聞いた文乃は、長い溜息を吐く。事件の全貌を掴むどころか、真犯人の影さえも見えない。まるで、白い花の香りだけが、いまだに城のどこかに漂っているようだった。
文乃は重い空気を振り払うように、王立図書館へ戻ると、机の上に積み上がった資料を横に避けた。そして、密かに呼び出したレオネルとノエルを前に、静かに口を開く。
「……今回亡くなった侍女さんの件ですが、彼女が真犯人に仕立て上げられた可能性が高いです」
その言葉に、ノエルの表情が凍る。レオネルは拳を握り、悔しさを滲ませた。
「そんな……では、彼女は……」
「無実のまま、命を奪われた可能性があります」
文乃は静かに頷く。この城の中に潜む“誰か”が、確実に意図をもって王妃を苦しめている――その事実だけが確かだった。
「この事件の内容は、城の使用人たちには伏せてください」
「なぜだ?」とレオネルが問い返す。
「今この状態で真実を広めれば、誰もが互いを疑い、城が崩壊します。……犯人は必ず見つけます。でも今は、王妃様の心を守ることを優先しましょう」
文乃の言葉に、レオネルはしばし沈黙したのち、深く頷いた。ノエルもまた、唇を結び、真剣な表情で兄に倣う。
――そしてその夜。
文乃は、マチルダを王立図書館に呼び出した。燭台の揺れる灯りの中、文乃は椅子に腰を下ろし、真剣な面持ちで語りかける。
「マチルダさん。王妃様の病気と、発作の原因は突き止めました」
マチルダの瞳がわずかに揺れる。文乃はゆっくりと言葉を紡いだ。
「王妃様は、心的外傷後ストレス障害――過去の悲しみと恐怖が、記憶の奥底に刻まれたまま癒えていない状態です。けれど……治療には長い年月がかかります。そして何より、王妃様には“あなた”という心の支えが必要です」
マチルダは一瞬、息を飲んだ。文乃の真剣な瞳に、嘘はなかった。静かな沈黙が流れたのち、マチルダはゆっくりと膝をつき、胸に手を当てる。
「……あの方を救えるのが、私だけだというのなら。
私はこの命が尽きるまで、王妃様の傍に仕え続けます」
その瞳には、凛とした光が宿っていた。まるで、王妃の涙を焼き尽くすために燃える炎のように。
文乃は思わず微笑んだ。
「マチルダさんなら、きっと大丈夫です。あなたは王妃様にとって、世界でたったひとりの“お姉さん”ですから」
夜風が窓を揺らし、ランプの炎が小さく揺れる。白い花の残り香は、もうそこにはなかった。
けれど――。その静けさの奥に、確かに何かが潜んでいる。文乃の胸には、まだ拭えぬ違和感が残っていた。“真犯人は……一体どこにいるのか?”
灯りの揺れる図書館で、文乃はひとり、再び資料の山に向き合う。彼女の決意は、誰よりも強く、そして静かに燃えていた。
あれから日が経ち、王妃の病室には柔らかな春の光が戻っていた。マチルダは一日の大半を王妃のそばで過ごし、食事や睡眠、そして王妃が心安らげる環境を一つひとつ整えていった。その甲斐あって――。
「最近はお部屋の外に出られるようになったんです」
王立図書館に顔を出したマチルダが、穏やかな笑みでそう報告した。
「えっ……本当ですか!?」
文乃の声が跳ね上がる。マチルダは頷きながら、少しだけ目尻を潤ませた。
「まだ本格的な公務は難しいですが、庭をゆっくりお散歩されるくらいには。これからは国王陛下が政務を担い、王妃様には治療に専念していただくことになりました」
「……よかった」
文乃は胸に手を当てて、小さく息を吐いた。だが、安心の息が溶けていく先に、消えない影があった。
(真犯人……あの白い花を植えたのは、いったい誰?)
どれほど調べても、糸口ひとつ掴めない。それが文乃の胸に、冷たい霧のように広がっていた。
***
「――失礼いたします、王妃様」
マチルダに連れられ、文乃は王妃セレナの私室へと足を踏み入れた。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光の中にいたのは、まだどこか疲労の色を残しつつも、穏やかに微笑む王妃の姿だった。
「あら、マチルダ。それに文乃さんも。わざわざ見舞いに来てくれたのね」
その声には、以前のような悲痛な響きは一切ない。嬉しくなったマチルダが、すぐさま「お体に障ります、クッションの高さはこれで? ハーブティーを淹れ直させましょうか」と、まるで過保護な母親のように甲斐甲斐しく世話を焼き始める。
「ふふ、大丈夫よマチルダ。私はもう子供じゃないのだから、そんなに甘やかさなくていいの」
冗談めかしてマチルダを窘める王妃を見て、文乃は胸をなでおろした。
(本当によかった……。マチルダさんがいれば、少しずつ王妃様の心の傷は癒えていく)
王妃はベッドの上で小さく背伸びをすると、嬉しそうに目を輝かせた。
「今日はとても調子がいいの。せっかくだから、レオネルとノエルも呼んで、久しぶりに庭でお茶をいただきたいわ。マチルダ、準備をお願いできるかしら?」
「はい! 喜んで!」
マチルダはいつになく声を弾ませ、一礼して部屋を飛び出していった。その微笑ましい後ろ姿を、文乃は温かい気持ちで見送る。
――だが、振り返った瞬間。
文乃の心臓が、冷たい氷水を浴びせられたように跳ね上がった。
「……王妃、様……?」
さっきまで穏やかに笑っていたセレナの瞳から、完全に光が消えていた。焦点の合わない目で天井の一点を見つめたまま、まるで精巧に作られた蝋人形のように、ピクリとも動かない。
不気味な静寂。次の瞬間、王妃の顔が劇的な苦痛に歪んだ。
「あ、あ、がっ……うああああああああっ!」
悲鳴とも絶叫ともつかぬ声を上げ、王妃は狂ったように自らのネグリジェの襟元を引き裂き、胸元を爪が食い込むほどに掻きむしり始めた。
「王妃様!? ダメです、やめてください!」
文乃はパニックになりながらもベッドに飛び乗り、暴れる王妃の両手首を必死に掴んで組み伏せた。
はだけたネグリジェの隙間――王妃の白い胸元が露わになる。それを見た文乃は、息をすることさえ忘れた。
「なに……これ……っ!?」
王妃の胸の真ん中に、悍ましい『黒い痣』が浮かび上がっていた。それはただの変色ではない。まるで、皮膚の下に潜む粘着質な生き物のように、脈打ち、蠢いているのだ。その影が形を変えるたび、王妃の喉から途切れ途切れの、引き裂かれるような悲鳴が漏れる。
(PTSDじゃない……! こんなの、私の知ってる現代医学の病気なんかじゃないッ!)
「マチルダさん! 誰か、誰か来てっ!」と、文乃が廊下へ向かって叫ぼうとした、その時だった。
『魔法の万年筆』が、突如として目の前にその姿を形成する。意思を持つかのように空間を浮遊し、文乃の目の前に現れた万年筆は、躊躇なく王妃の胸元へと突き立てられた。
先端から溢れ出たのは、漆黒のインク。万年筆は、蠢く黒い痣を、まるで文字を修正するように乱暴に塗りつぶしていく。
「あ……」
インクが痣を完全に覆い隠した瞬間、王妃の身体からすとんと力が抜け、深い眠りに落ちるように静かになった。同時に、万年筆は力を失ったようにベッドの上に転がった。文乃はそのまま、糸が切れたように床へと倒れ込んだ。
荒い呼吸を繰り返しながら、文乃はパニックに陥った頭で、自分の手のひらを見つめる。王妃の病は、過去のトラウマによる精神疾患ではなかった。あれは、もっと禍々しい「何か」だ。それと同時に、胸の奥から冷たい戦慄がせり上がってくる。これまで翻訳ツールとして、何の手のひらの疑いもなく、便利に使っていたこの万年筆。
――これは、一体何なのか?
頼れる相棒だったはずの魔法の万年筆が、今はひどく異質で、恐ろしい存在に思えてならなかった。
***
「本当に、文乃には感謝する。こうしてまた、家族揃ってお茶会ができるなんて」
柔らかな陽光が降り注ぐ城内の庭園。白を基調としたエレガントなテーブルを囲み、レオネルがいつもの優雅な笑みをたたえて文乃に語りかけた。
テーブルの上には、マチルダが腕によりをかけて用意した色鮮やかなお菓子と、芳醇な香りを漂わせる紅茶。そして何より、少し前までベッドで苦しんでいたはずの王妃セレナが、息子たちの姿を愛おしそうに見つめながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ええ。文乃さん、本当にありがとう。あなたが私の心を救ってくれたのね」
王妃から向けられる、一点の曇りもない感謝の言葉。マチルダもまた、一歩下がった位置で、深く、心からの敬意を込めて文乃に一礼した。
「……いえ。私は……本当の意味で王妃様を救ったのはマチルダさんです」
文乃は精一杯の笑みを作って謙遜した。けれど、その胸の内は、冷たい鉛を飲まされたように重く、苦しかった。
――笑顔で会話を交わす四人。取り戻された、絵に描いたような温かい日常。
だが、文乃だけは知っている。いま目の前にある平和は、本質的な解決などではない。ただ、一時的に「蓋」をされただけの、あまりにも脆い砂上の楼閣なのだということを。あの時、王妃の胸で生き物のように蠢いていた、禍々しい黒い痣。PTSDなんて生易しいものではない、現代医学の常識を遥かに逸脱したあの怪異が、今も王妃の身体の奥底に潜んでいるかもしれないのだ。それを思えば、お茶会の華やかな空気すら、どこか現実味を失って遠く感じられた。
(本当の事なんて言えない……)
文乃はそっとテーブルの下に右手を隠し、意識を集中させた。すると、指先から淡い光が零れ、音もなく一本の万年筆が手のひらの上に現れる。
異世界に迷い込んだあの日から、言葉の通じない自分を助け、あらゆる古文書を読み解く力を与えてくれた、頼れる相棒。何の疑問も抱かずに使っていたけれど――これは本当に、ただの「翻訳ツール」なのだろうか。
なぜ、このペンは文字だけでなく、王妃の病まで『塗りつぶす』ことができたのか。
まるで、世界のバグを修正する消しゴムのように。あるいは、最初からこの世界の理そのものを書き換えるために作られたかのように。
(貴方は一体、何のために私の手元にやってきたの……?)
陽気なさざめきが響く庭園の中で、文乃は手のひらの上の万年筆をじっと見つめ、静かに、けれど深い疑惑の目を向けるのだった。
最後までお読みいただき、
本当にありがとうございます!
本作は、書籍1巻収録分の内容となっております。
書籍版では、WEB版では読めない特別編のストーリーも収録予定です。
さらに楽しんでいただける内容になっていますので、気になった方はぜひ手に取っていただけると嬉しいです。
「続きが気になる!」
「これからも応援したい!」
と思ってくださった方は、下にある
【ブックマークに追加】や【評価】で応援していただけると、これからの執筆活動の大きな励みになります!
最後までお付き合いいただき、
本当にありがとうございました!




