第四十四話 白い花が紡ぐ記憶と、夜の書庫の覚醒
王城の中庭。初夏の陽を浴び、白い花々が風に揺れていた。けれど、その美しい光景の中に立つ文乃の表情は、どこか張り詰めていた。
「……ここが、王妃様が最後に外に出られた庭、ですね」
文乃は足元の土をしゃがんで見つめながら、マチルダに問いかけた。メイド長は無駄のない動作で頷き、ゆっくりと視線を巡らせる。
「はい。あの日も、王妃様はこの場所で少しだけ陽の光を浴びたいと仰っていました。その直後から……様子が変わられたのです」
文乃はしばし沈黙したのち、隣に立つマチルダの横顔を見上げた。風に揺れる黒髪。その表情には、静かな決意と、微かな哀しみが宿っていた。
「マチルダさんと王妃様って、どういう関係なんですか?」
唐突な質問にも、マチルダは驚いた様子を見せなかった。ただ、少しだけ目を伏せ、懐かしむように微笑んだ。
「私は、王妃様の父上――当時の領主に仕えていた使用人の娘でした。年の近かった王妃様とは、姉妹のように、友人のように……よく一緒に遊んでいました」
その声には、穏やかな懐古と、遠い過去を慈しむような響きがあった。
「花冠を作ったり、森で追いかけっこをしたり……。
あの頃は、本当に平和でした。――隣国との戦が始まるまでは」
そこから、マチルダの語り口は静かに沈んでいく。
「戦が激しくなるにつれ、領地は荒れ、人々の表情も変わっていきました。そして、ある日……屋敷の庭で、私は見てしまったのです。使用人に化けた隣国のスパイが、王妃様のご両親を――」
マチルダの拳が、わずかに震えた。声がそこで途切れ、しばらく風の音だけが二人の間を流れる。
「……あの時の光景は、今でも忘れられません。王妃様は両親を目の前で失い、声を失われた。泣くことすら、できなくなってしまったのです」
文乃は胸を押さえた。あの、穏やかで優しい王妃様に、そんな過去があったなんて――。その痛みは、まるで自分のことのように胸を締めつけた。
「マチルダさん……そんな辛いことが……」
「けれど、王妃様は立ち上がられました。先代国王陛下、そして今の国王陛下が傍にいてくださったから。だからこそ、私は……」
マチルダはまっすぐ文乃を見つめた。その瞳には、鋼のような意志が宿っている。
「どうか、王妃様をお救いください。今度こそ、あの方から笑顔を奪うものがあってはなりません」
文乃はしっかりと頷いた。
「……約束します。必ず王妃様を救ってみせます。でも、そのためには――マチルダさんの力が必要です」
マチルダは一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて静かに微笑んだ。
「承知しました。王妃様をお救いするためなら、どんなことでもいたしましょう」
2人の視線が交わった瞬間、陽光の中で、決意の火が確かに重なり合った。午後の光が差し込む中庭は、まるで何もかもを包み隠すように穏やかだった。しかし、文乃の胸の中にはひとつの確信があった――この場所に、“王妃を苦しめる原因”がある。文乃は隣を歩くマチルダに向き直り、真剣な眼差しを向ける。
「マチルダさん……王妃様の病気について、お話しします」
マチルダは静かに頷いた。彼女の目には迷いも疑念もない。ただ、王妃を想う誠実な光が宿っていた。
「王妃様の症状は――私の生まれた国では心的外傷後ストレス障害と呼ばれる心の病。過去に受けた強い心の傷が、ある“きっかけ”で蘇ってしまう病です」
「……心の傷、ですか」
「はい。王妃様が急に様子を変えるのは、その“トリガー”――つまり、記憶を呼び覚ます何かが原因なんです。おそらくそれが、この庭のどこかにあります」
文乃の声は静かだが、その奥には熱い決意がこもっていた。マチルダは目を伏せ、ゆっくりと頷く。
「分かりました。……私にできることなら、何でも」
その言葉に、文乃の表情が和らぐ。彼女はマチルダと共に、王妃が最初に倒れたという庭の一角へと足を踏み入れた。
――その瞬間だった。
マチルダが足を止める。風が一陣、白い花弁を揺らした。
「……何か、胸が……ざわつきます」
彼女の声はかすかに震えていた。その表情は怯えではなく、得体の知れない“懐かしさ”と“恐怖”が入り混じったようなものだった。文乃はその様子を見て、確信する。
「やっぱり……間違いない。マチルダさんと王妃様は、同じ場所で、同じ記憶を抱えている。その違和感の正体こそが、王妃様を苦しめている“何か”です」
マチルダは額に汗を浮かべながらも、じっと庭を見渡した。時間が経つにつれ、その顔には明らかな疲労の色が浮かび上がっていく。
「マチルダさん、無理はしないでください。今は――一旦、中止しましょう」
文乃がそう言いかけたとき、マチルダはきっぱりと首を振った。
「いいえ。……お姉ちゃんが大切な妹を助けられなくて、どうするんですか」
その言葉に、文乃は思わず息を呑む。王妃を“妹”と呼ぶその声には、愛しさと痛み、そして誇りが滲んでいた。
「マチルダさん……」
「私は最後までやります。王妃様の苦しみを、終わらせるために」
その瞳に宿った光は、まるで長い夜を切り裂く焔のようだった。文乃は静かに頷き、再び庭の奥へと歩みを進めた。陽が傾き、庭の影が長く伸びていた。文乃とマチルダは、王妃が倒れたという庭の奥を一歩ずつ確かめながら進んでいた。
小鳥の囀りも、風の音も、どこか遠くに霞んで聞こえる。空気が重い。まるで、この庭そのものが何かを隠しているように。
「……マチルダさん、何か感じますか?」
文乃の問いに、マチルダは目を細めてあたりを見渡した。その瞬間――彼女の足が止まる。
「……あれは……」
マチルダの視線の先、庭木の陰にひっそりと咲く一輪の花があった。それは、雪のように白く、小さな花弁を震わせながら静かに陽を浴びていた。
マチルダの顔から血の気が引いていく。まるで時間が止まったかのように、彼女はその花を見つめたまま動けなくなった。
「マチルダさん……?」
文乃が呼びかけるが、彼女の耳には届かない。マチルダは震える手を伸ばし、その花に触れようとした――。
ふわりと、風が吹いた。白い花弁が舞い上がり、甘く、淡い香りが空気に広がる。その香りが、マチルダの鼻腔をかすめた瞬間。
――世界が、歪んだ。
頭の奥で、何かが弾ける。視界が白く弾け、次の瞬間、鮮烈な映像が脳裏を駆け抜けた。
燃える屋敷。
悲鳴。
剣の音。
そして――血に染まる花の中で、倒れる王妃の両親。その背後で泣き叫ぶ、小さな王妃の姿。
「ッ――!」
マチルダは頭を抱え、膝をつく。文乃が慌てて駆け寄り、肩を支える。
「マチルダさん! しっかりしてください!」
息を荒げながらも、マチルダは必死に意識を保とうとする。そして、震える手でその花を摘み取り、文乃に差し出した。
「……この花……この香りです。王妃様のご両親が……殺された時……庭に咲いていた、あの花……」
文乃は目を見開く。彼女の胸の奥で、点と点が一気に線で結ばれていく。
「……トリガーだ……これが、王妃様の記憶を呼び覚ましていた……!」
文乃はすぐさま立ち上がり、近くにいた庭師を呼び止める。
「この花と同じ種類の花が、城の中に咲いていないか――すぐ調べてください!」
庭師は驚きながらも頷き、走り去った。同時に、文乃は騎士団長ガルドを呼び寄せ、事情を説明する。
数時間後――。
報告を受けた文乃の目が鋭く光る。
「……やはり……」
その白い花は、王妃の私室の窓際、廊下、そして彼女がよく通る庭の道沿い――まるで王妃を追い詰めるかのように、ひっそりと植えられていたのだ。文乃は拳を握りしめる。
「これは偶然じゃない……。まるで――王妃様を苦しめるために、意図的に配置されたみたい」
マチルダは唇を噛み、ガルドに目を向ける。
「誰かが……王妃様に“あの時”を思い出させようとしている……」
その言葉に、ガルドの目が怒りで燃え上がった。
「――許せん。陛下と王妃様を弄ぶ不届き者が、この城に潜んでいるというのか!」
彼は剣の柄に手をかけ、低く吠えるように命じた。
「全騎士団に通達だ! この花を植えた者を必ず見つけ出せ!王妃様に手をかけた裏切り者を、この城から一人残らず炙り出す!」
その怒号が、静まり返った庭に響き渡った。夕陽が沈みかける中、白い花だけが、何も知らぬように揺れていた――。
ガルドの怒号が響き渡った後も、マチルダは一歩も動かなかった。庭の片隅、回収された白い花を手に、ただじっとそれを見つめている。
その瞳に宿るのは、燃えるような怒りでも、悲嘆に暮れる涙でもない。静かで、深く、底の見えない光だった。
「……これが、王妃様を苦しめていた花……」
彼女は小さく呟き、そっと花を焚き火の中へと投げ入れた。ぱち、と音を立てて白い花弁が焦げ、やがて赤く燃え上がる。マチルダはその炎を、まるで祈るように見つめ続けた。文乃はしばらくその背中を見つめていたが、やがてそっと声をかけた。
「……マチルダさん。騎士団と一緒に、犯人を探しに行かなくていいんですか?」
マチルダは炎から目を離さず、かすかに首を横に振った。
「おそらく……犯人は、もうこの城にはいないでしょう」
その言葉は、風に溶けるように静かだった。文乃は意味を測りかね、ただ彼女の横顔を見つめるしかなかった。
――その時だった。
庭の外から、騎士の駆ける足音と重い声が響いた。数名の騎士たちが血相を変えて走り寄ってくる。
「ガルド団長! 報告です!」
報告を聞いたガルドの表情が険しくなる。文乃とマチルダもその場へ駆け寄った。
「……何があった?」
「使用人のひとりが、自室で亡くなっておりました。白い花を手にしたまま……服毒による自殺のようです」
その報告に、マチルダの瞳が細められた。文乃の胸がざわりと揺れる。
「……その使用人は?」
「王妃付きの侍女のひとりです。普段から真面目で、王妃様に深く仕えておりました」
現場へ案内された彼女たちの前には、静かに横たわる若い侍女の姿があった。顔は安らかで、まるで眠っているかのようだ。しかし、その手には――あの白い花が、強く握られていた。
文乃が息を呑む。まるで「私がやりました」と言わんばかりの姿だった。マチルダは静かに跪き、侍女の頬にそっと手を触れる。
「……こんな……」
その声は震えていた。目を伏せ、しばし黙祷を捧げると、マチルダは立ち上がり、低く呟いた。
「――違います。この子は、犯人なんかじゃありません」
文乃とガルドが顔を上げる。
「現場を見ればわかります。あまりにも“わかりやすく”証拠が残されすぎている。まるで……彼女を犯人に仕立て上げるためのように」
その瞳は、怒りと悲しみがせめぎ合う鋭さを帯びていた。マチルダは拳を握り、唇を噛む。
「この子は……王妃様を心から敬っていた子です。そんな子が……王妃様を苦しめるような真似をするはずがない……」
涙が頬を伝い落ちた。マチルダはそれを拭おうともせず、ただ亡骸の手を優しく包み込んだ。文乃はその姿を見つめながら、心の奥で冷たい思考が走るのを感じた。――部外者が城内で花を植えて回るなんて、ほぼ不可能。つまり、犯人は……まだ、この城の中にいる。
文乃はそっと視線を上げた。廊下の奥、薄暗い影の向こう。そこに潜む“何か”が、自分たちを見つめている気がした。
「……まだ、終わっていない」
文乃は小さく呟いた。燃え尽きた花の灰が、静かに夜風に舞い上がる――。
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