第四十二話 机上の軽口と、王子の秘めたる哀しみ
王立図書館の奥深く。
高い天井から差し込む光が、棚に並ぶ古文書の金箔文字を淡く照らしていた。その静寂の中、文乃は魔法の万年筆を片手に、ひとり机に向かっていた。魔法の万年筆のインクが、淡くページをなぞり、古の文字を現代語に変換していく。
――カリカリ……。
紙の上でペン先が踊る音だけが響く。
そこへ、またしても聞き慣れた足音が近づいてきた。
「今日も真面目にやっているようだな、文乃」
顔を上げると、第一王子レオネルが、いつものように優雅な笑みを浮かべて立っていた。
肩まで流れる金髪が窓明かりを反射し、キラキラと周囲を照らしている。
文乃は、呆れたように眉をひそめた。
「……また来たんですか。王子って、やっぱり暇なんですか?」
「暇ではない。むしろ忙しい」
レオネルは椅子を引いて勝手に文乃の隣に腰を下ろす。彼の髪からは甘い花の香りが漂うが、文乃にとっては目の前の本から漂う古びたインクの香りの方が魅力的だ。
「ただ、次期国王が直々に様子を見に来るくらいには、君の仕事は重要だと言っているんだ」
「はいはい。お上のお墨付きってやつですね」
文乃は淡々と返し、再び視線を文献に戻した。
その姿勢は“世界の危機でもなければ動かないタイプ”そのもの。
レオネルは小さくため息を吐く。
「まったく……君という人間は、本さえ読めれば王国が滅んでも構わないんじゃないのか?」
「構わなくはないですよ。第一、この国が滅ぶということは、この図書館の本も読むことが出来なくなるじゃないですか」
その瞬間、王子のこめかみがピクリと動き、呆れたようにため息を吐く。
「……はぁ。やはり、君と話すと心の修行になる」
「それはどうも」
軽口の応酬。
だが、その次の言葉で空気が一変した。
「――文乃。今日は、少し真面目な話をしに来た」
文乃が顔を上げる。
レオネルは少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「……母上が、病に侵されている」
その言葉に、文乃のペン先が止まる。
「病、ですか?」
「医師たちは“不治の病”だと言っている。だが……正直、私にはそうは思えない」
王子の声音には焦りはなかった。
むしろ、冷静すぎるほど静かだった。
「不治と言われても、現状すぐに命に関わるほどではないと?」
「今のところは、な」
レオネルは苦く笑い、窓の外を見やった。
「ただ……このまま長く続けば、どうなるか分からない。母上の瞳から、少しずつ光が消えていき、まるで生きながらゆっくりと死んでいくようで……」
彼の表情は、普段の余裕を削ぎ落とした素の顔だった。
「すまない……自分でも何を言っているのかよくわからない」
その瞳の奥に宿る“息子としての不安”を見た文乃は、そっと息を呑む。
いつも完璧で、どこか遠い存在に思えた王子の、ひどく脆く痛々しい横顔。
沈黙が二人の間に降り積もる中、レオネルは自嘲気味に息を吐くと、不意に思い出したように文乃へと視線を戻した。
「……そういえは、文乃。君の母親は、どんな人だったんだ?」
「えっ?」
唐突な問いかけに、文乃は目を丸くした。この世界に転移して以来、自分の元の世界について、ましてや家族について聞かれたことなど一度もなかったからだ。
文乃は少しだけ視線を泳がせ、それから記憶の中にある懐かしい笑顔を思い浮かべて、小さく微笑んだ。
「そうですね……。どこにでもいる普通の母親ですよ。ただ――」
「ただ?」
「ほんの少しだけ、他の人よりも本が好きな人でした。家の中が信じられないくらい本棚だらけで……。一度、大きめの地震が起きた時は、本の大洪水に埋もれそうになって、本当に生きた心地がしませんでした」
しみじみと語る文乃に、レオネルは一瞬呆気にとられたような顔をした。
それから、ふっと、その綺麗な唇の端を持ち上げる。
「なるほど……。君のその、本に対する異常なまでの執着と行動力は、確実に母親譲りというわけか」
「あ、異常って言いましたね!?」
文乃が抗議の声を上げると、レオネルは先ほどまでの重苦しい雰囲気を払拭するように、今度ははっきりと声を立てて笑った。張り詰めていた彼の表情が、ほんの少しだけ柔らかく緩んでいく。
「とにかく、まずは王妃様のご病気について、詳しく教えてもらえますか?私でよければ力になります」
文乃の声は、いつになく真剣だった。
レオネルはその瞳を見つめ、わずかに安堵の色を浮かべる。
「……ありがとう、文乃。やはり君に話して正解だった」
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