第四十話 死せる故郷と完璧な教育者
エマの生まれ故郷、アルメリア侯国。港に降り立った文乃とマチルダは、船のタラップの下でカイルに向き直った。
「カイルさん、本当にありがとうございました。貴方の助けがなければ、ここまで来ることすらできませんでした」
「……謝らないでくれ、文乃殿。僕も同行して彼女を救い出したいのは山々なんだが、商会の代表として公式に動くわけにはいかなくてね」
申し訳なさに眉を寄せるカイルに、文乃は強く首を振って、確かな足取りで一歩前に出た。
「これ以上、貴方に迷惑をかけるわけにはいきません。エマのことは、私たちに任せてください!」
胸を張って告げた文乃の言葉に、カイルは驚いたように目を見開き、やがて頼もしげに口角を上げた。
別れを告げた二人は、マチルダの手配で一台の古びた荷馬車を確保した。カイルから聞いていたエマの故郷――辺境の村への道程を頭に入れたマチルダは、手際よく荷物を積み込むと、御者台に座って手綱を引いた。
街道を進む馬車から、文乃は流れる景色を眺める。
主要な穀物の収穫はすでに終わっているようで、広大な畑では寒さに強い根菜類の収穫に励む農民たちの姿があった。その傍らで無邪気に駆け回る子供たちの姿に、文乃は「エマも昔はあんな風に……」と、ぼんやりと思いを馳せる。
だが、その穏やかな時間は、唐突な馬車の停止によって破られた。
「止まれ! 積荷の検査だ!」
橋の手前に設置された関所。そこには、重苦しい鎧に身を包んだ武装兵たちが鋭い眼光を向けて立っていた。
一人の兵士が荷台の覆いを荒っぽく剥ぎ取り、中身を検分し始める。
「ふん……冬に備えた防寒具か。それに、この瓶は酒だな?」
「はい。厳しい冬を越すための、度数の高い蒸留酒でございます」
マチルダが淡々と答えると、兵士は下卑た笑みを浮かべて高圧的に声を荒らげた。
「この国では酒の流通は厳格に制限されていることを知らんのか! 許可なき持ち込みは重罪だ。貴様ら、積荷はすべて没収、身柄も拘束させてもらうぞ!」
威圧的な態度に文乃が恐怖で身をすくませた、その時だった。
マチルダは動じることなく懐から一枚の書状を取り出し、無言で兵士に突きつけた。
「……? なんだこれは、あがいても無駄だと言っ……なっ!?」
書状に目を落とした瞬間、兵士の顔から血の気が引いた。彼は震える手で書状を返し、それまでの無礼が嘘のように直立不動で敬礼をした。
「し、失礼いたしました! まさか、あの方のお使いとは露知らず……! どうぞ、お通りください!」
何事もなかったかのように動き出す荷馬車。
しばらく道を進み、兵士たちの姿が見えなくなったところで、文乃はようやく止まっていた息を吐き出した。
「マチルダさん、今のは一体……? 何を渡したんですか?」
御者台から振り返ったマチルダは、眼鏡の奥の瞳を少しだけ細め、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「取引相手がこの国の有力貴族であることを証明する通行許可証です。……もちろん、完璧な『偽造品』ですけれど」
「…………えっ?」
文乃の脳裏に、港を出発する直前の出来事が鮮やかによみがえった。
マチルダから「練習です」と言われ、一枚の羊皮紙の端に、ある複雑なサインを『魔法の万年筆』で寸分違わず書き写すよう頼まれたことを。
――あれ、私が書かされたサインが……偽造書類のトドメだったの!?
「そんな重要な書状なら、最初に言ってくださいよ!」
マチルダは文乃の言葉に静かに微笑み返す。
「だって緊張して手元が狂うといけないでしょう?」
文乃は乾いた笑いをもらしながら、脱力感に任せて荷台の毛布の上にバタリと倒れ込んだ。マチルダの有能さと、知らぬ間に自分が「国際的な偽造犯」に加担させられていた事実に、文乃は天を仰ぐしかなかった。
「……着きました。ここが目的地です」
マチルダの低く抑えた声に、文乃は顔を上げた。だが、視界に飛び込んできた光景に、彼女は言葉を失い、ただ息を呑むことしかできなかった。
畑はひび割れて乾き、川は生き物の気配を失ってどす黒く淀んでいる。背後の山々は、無惨にその肌を削り取られ、剥き出しになった岩肌が不気味な骸骨のように突き出していた。立ち並ぶ家々は、持ち主に見捨てられ、ただ朽ち果てるのを待つばかりの亡霊の群れのようだ。
虫の音も、鳥のさえずりも聞こえない。そこにあるのは、耳が痛くなるほどの不吉な静寂だけだった。
「……信じられません。本当に、ここがエマの故郷だというのですか」
常に冷静なマチルダの声にも、隠しきれない困惑が混じっていた。
文乃はこの光景を、以前に読んだ歴史書の中で知っていた。一攫千金の夢に憑かれ、狂奔した男たちが辿る結末。山々の木を全て切り倒し、掘り返した土は放置される。そして金以外の価値の無い金属は捨てられる。無計画な採掘は、山を、水を取り返しのつかないほどに汚し、一時の黄金の煌めきと引き換えに、二度と再生することのない死の土地を作り上げた。
ここに未来はない。
それはつまり、エマにとっての「帰るべき場所」が、物理的にも、心理的にも永遠に失われてしまったことを意味していた。
「……ひどい。こんなのって、ないよ……」
文乃の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
あの子がどれほどここを想っていたか。その思い出の風景が、跡形もなく蹂躙してしまった。その残酷さが、文乃の胸を締め付けた。
馬車が軋んだ音を立てて、さらにゆっくりと進んでいく。
崩れかけた廃屋の合間を抜けた、その時だった。
ギィ……ギィ……。
風の音ではない。何かが一定の規則を持って木を擦り合わせる音が、静まり返った街に不気味に響いた。
マチルダが即座に鋭い眼差しを向け、文乃もハッとしてそちらを見る。
古びた民家の、今にも壊れそうな玄関先。
そこで、一人の老婆が古びたロッキングチェアに座り、ただ無心に体を揺らしていた。
その視線は、虚空を見つめているのか、それとも失われた過去を見つめているのか――亡霊の街に残された「生」が、そこにはあった。
「……おや。この街を人が訪ねてくるなんて、一体いつ以来かねぇ」
低く枯れた声と共に、老婆がゆっくりと顔を覆っていた古びたフードを外した。
文乃とマチルダに向られたその瞳は、焦点が合っているのかも定かではなく、どこか遠い空の向こうを眺めているようだった。
老婆の肌は砂漠の砂のように乾ききり、膝の上に乗せた指先は、止めようもない小刻みな震えを繰り返している。時折、肺の奥から絞り出すような重い咳をしながら、彼女は自嘲気味に微笑んだ。
「こんな格好で迎えて、すまないねぇ。……どうにも手足が痺れて、立ち上がるのも一苦労でねぇ」
その言葉に、文乃は胸を突かれた。
――知っている。この症状を、文乃は本の中で読んだことがある。
「……っ。無理をしないでください。いいんです、気にしなくても……」
今にも泣き出しそうな表情で、文乃は老婆の傍らに膝をついた。老婆は文乃の震える声を、まるですべてを悟ったような穏やかな目で見守っている。
「ありがとうございます、お婆さん……。あの、この土地の領主様のお屋敷は、どちらでしょうか」
「……ああ。あそこだよ。山を潰して建てられた、あの一番高い場所にある『墓標』さ」
老婆が震える指で差した先には、汚染された街を見下ろすように、歪な輝きを放つ領主館がそびえ立っていた。文乃は何度もお礼を言い、マチルダを促してその場を離れた。
しばらく歩き、老婆の姿が遠くなったところで、マチルダが静かに口を開いた。
「文乃。あの方との会話、何か気になることでも? 貴女の様子が少し、尋常ではありませんでした」
文乃は立ち止まり、唇を強く噛みしめた。溢れ出しそうになる涙を、手の甲で何度も拭う。
「……あのお婆さんの体、毒に蝕まれているんです」
マチルダが息を呑む。文乃は声を震わせながら言葉を続けた。
「手足の痺れ、視覚障害、運動失調……金の錬成に使われる水銀の中毒症状です。おそらく、長くはありません。彼女は、すべてを理解した上で……自分が愛したこの街と一緒に、ここで朽ちていく道を選んだんだと思います」
文乃は涙を拭い、険しくそびえ立つ領主館を見上げた。その瞳には、悲しみを燃やし尽くしたような、青く静かな炎が宿っていた。
領主の屋敷が、威圧的な影を落としながら目前に迫る。
不自然なほど静まり返った街道で、マチルダが静かに馬車を止めた。
「文乃、ここからは馬車を捨てて徒歩で進みましょう。その方が気づかれにくい」
マチルダが御者台から降りた、その時だった。
「――護衛も付けずに随分良い馬車に乗ってるじゃねぇか?これじゃ襲って下さいって言ってるようなもんだぜぇ」
殺気とともに、街道沿いの岩陰から武装した男たちが這い出してきた。その数、八人。
薄汚れた革鎧に、手入れもされていない鈍色の剣。山賊か、あるいは給料を払われず野盗に成り下がったこの地の兵士か。男たちは獲物を囲む狼のように、馬車を包囲する。
「命が惜しければ、その馬車と荷物を置いていけ!」
一人が声を荒らげるが、中心にいた一番体格の良い男が、品性の欠片もない笑いを漏らしながらそれを遮った。
「いや、待て。女二人も連れていくぞ。抵抗せずに大人しくしてれば命だけは助けてやる。……まあ、売り払った先の命の保証はできんがな!」
下卑た笑い声が静寂を切り裂く。文乃は恐怖に肩を震わせながらも、男たちの顔を一人ずつ必死に確認した。そして、一人の男の見覚えのある外套に視線が止まる。
「マチルダさん、見て……多分あの男。最初にエマを攫おうとしたグループの中にいた人です!」
文乃が指差した先。そこには、王都でエマと文乃を襲った犯人の一人がいた。
「……なるほど」
マチルダが冷たく、温度のまったくない声で応じる。彼女は指先で静かにメガネのブリッジを押し上げ、位置を正した。
「であれば、生かしておくのはその一人だけで十分ですね」
「粋がってんじゃねえぞ!!」
激昂した先頭の男が短剣を振りかざして飛びかかる。だが、マチルダは微動だにせず、最短の軌道で鋭い回し蹴りを叩き込んだ。
バキッ、という嫌な音が響き、男は叫ぶ間もなくその場に倒れ込み沈黙した。
「な……ッ!?」
一撃で仲間の一人を沈めた実力に、他の男たちが一歩後退る。しかし、体格の良い男が唾を吐き捨てて怒鳴り散らした。
「何をご丁寧に1人で挑んでんだ!こっちは他勢だ、全員でかかれッ!」
一斉に襲いかかる七人の男たち。だが、マチルダはすでに次の行動に移っていた。彼女は流れるような動作で御者台の座席板を跳ね上げる。
そこには、整然と並べられた大量の投擲用ナイフが銀色に輝いていた。
「――確かに、悪党相手に正々堂々一対一で戦う義理はありませんね」
シュッ、と空気を切り裂く鋭い音が連続して響く。
マチルダの手から放たれたナイフは、ある者は膝を射抜き、ある者は剣を持つ手首を正確に貫いた。急所を外しつつも、確実に戦闘能力だけを奪う神業。
「あががっ!?」
「手が、俺の手がぁっ!」
一瞬のうちに、街道には男たちの悶絶する声が響き渡った。立っているのは、恐怖に顔を引き攣らせた大男1人だった。
マチルダは、唯一無傷で立っている体格の良いリーダー格の男へ、氷のように冷たい視線を向けた。
「さて、お聞きしますよ。なぜエマを攫ったのですか? 貴方たちを雇ったのは誰です。……素直に話せば、命までは取りませんよ」
仲間を一瞬で無力化された男は、驚愕に顔を引き攣らせながらも、虚勢を張るように怒鳴り散らした。
「テ、テメエら、一体何者だ!? クソッ、なんて割の合わねぇ仕事だ! 大体あの野郎、領主のくせに金払いが悪すぎるんだよ。お前らをブチ殺して、追加料金をぶんどってやるからな!」
怒りに任せて吠える男に対し、マチルダは溜息を一つ吐き、静かにメガネのブリッジを押し上げた。
「質問の答えになっていませんね。質問文に質問文で答えなさいと教わりましたか?……仕方ありません、私が直接教育してあげましょう」
「何が教育だ!死ねえッ!」
男が巨大な斧を全力で振り下ろす。マチルダは蝶が舞うような軽やかな足さばきでそれを回避した。行き場を失った斧は轟音と共に荷馬車を真っ二つに叩き割り、積まれていたナイフの予備が地面に散らばった。
男は床に落ちたナイフを見下ろし、荷馬車から数歩距離を取った素手のマチルダを見て、下卑た笑いを浮かべた。
「おいおいおい!自慢のナイフはどうした?さっきみたいな蹴りは、この俺には通用せんぞ!」
男は勝利を確信したように、ゆっくりと、獲物を追い詰める歩調でマチルダへ歩み寄る。
「マチルダさん、逃げて!」
文乃が悲鳴のような声を上げるが、マチルダは落ち着き払った動作でメガネの位置を正した。
「問題ありません、文乃。……教育に刃物は不要ですから」
「ガタガタ抜かしてんじゃ――ッ!?」
次の瞬間、静まり返った街道に乾いた破裂音が爆ぜた。
――パンッ!
「ぎゃああああああああああっ!?」
男が絶叫と共に地面を転げ回る。肉を裂くような、けれど鋭い衝撃。男は数秒間、苦悶にのたうち回った後、あまりの激痛に耐えかねて白目を剥き、そのまま失神した。
マチルダの手には、いつの間にか、しなやかな革の鞭が握られていた。彼女は文乃に向き直ると、不敵な笑みを浮かべてニヤリと口角を上げる。
「ほら。刃物がなくても、教育は可能でしょう?」
散らばったナイフよりも、気絶した大男よりも、その「教育者」の完璧な笑顔の方が何倍も恐ろしい。文乃は引き攣った顔で、乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
マチルダは、最初に鋭い回し蹴りを食らわせて沈めた男の元へ歩み寄る。
「さて、この方から情報を引き出すとしましょう」
彼女はぐったりとした男の襟首を掴んで引き起こすと、まずは軽く肩を揺らし、次に顔をペチペチと叩く。……が、反応がないと見るや、無表情のまま往復ビンタの連打を開始した。
「マ、マチルダさん! ストップ、ストップです! 意識が戻る前に死んじゃいますって!」
文乃が慌てて割って入ると、マチルダは「ふぅ」と小さく息を吐いて手を止めた。彼女はわずかに冷や汗を流しながら、メガネをクイと押し上げる。
「……どうやら、少々強く蹴りすぎたようです。意識が戻るまで時間がかかりそうですね。この方はここに捨て置いていきましょう」
そう言い捨てると、マチルダは未練もなさそうにスタスタと屋敷に向かって歩き始めた。文乃は(マチルダさんの『少々』って、常人の致命傷なんじゃ……)と心の中で鋭いツッコミを入れたが、先ほどの鮮やかな鞭捌きを思い出し、口を噤んで大人しくその後を追った。
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