第三十八話 商人の矜持と少女の覚悟
オルドレイン侯爵の船を降り、冷たい潮風に吹かれながら立ち尽くす文乃、レオネル、そしてガルド。
重苦しい沈黙が三人を包み込もうとしたその時、少し離れた場所に停泊していた巨大な貿易船の甲板から、よく通る陽気な声が響き渡った。
「おやおや、こんな夜更けに港で深刻な顔をして。密会にしては人数が多すぎるんじゃないかい、レオネル?」
タラップを軽やかな足取りで駆け降り、こちらへ歩み寄ってくる一人の青年。月の光を弾く金茶の髪に、上質な旅装を崩して着こなしたその男――カイルは、レオネルの親友であり、この国でも指折りの大商家の長男だった。
「カイルか。……こんなところで奇遇だな」
「奇遇なんて言葉じゃ足りないよ。運命的と言ってほしいな」
レオネルの冷ややかな反応をさらりといなすと、カイルは流れるような動作で文乃の前に跪き、その手を取った。
「お久しぶりです、リュクサール王立図書館の聡明な秘書殿。今夜の貴女は、月光に濡れた一輪の百合のように可憐だ」
いつもの芝居がかった挨拶。文乃が戸惑いながらも手を引こうとすると、背後からレオネルが心底うんざりしたような声を出す。
「……相変わらずな男だ。お前こそ、こんな時間に何をやっている」
「心外だな。商家の長男が港にいておかしいかい? 明日の早朝、国外へ出航する船の最終チェックさ。僕もその船に乗る予定でね」
カイルは爽やかに笑って見せたが、文乃の脳裏には一筋の希望が閃いた。
大陸全土にネットワークを持つ大商家の長男。彼なら、エマのルーツについて何か知っているかもしれない。文乃は藁にも縋る思いで、胸に抱いていたペンダントを差し出した。
「カイル様! お願いです、これを見てください!」
震える指先で、ロケットの小さな留め金を外す。中に描かれていたのは、エマによく似た面影を持つ、気品溢れる男女の肖像画。
文乃は瞳に涙を溜め、縋り付くようにカイルを見上げた。
「この肖像画の人たちに……心当たりはありませんか? どうしても、知らなきゃいけないんです。この方たちが誰なのか、どこにいたのかを!」
文乃の必死な、それでいて真剣な眼差しを真正面から受け、カイルの顔から軽薄な笑みが消えた。彼はふっと目を細めると、レディに対する礼節を保ちつつも、商人の鋭い観察眼をそのロケットへと注いだ。
「……力になれるかはわからない。けれど、涙を浮かべたレディの頼みを断るほど、僕は無粋じゃないつもりだよ」
カイルは神妙な面持ちでロケットを受け取ると、そこに描かれた二人の顔をじっと見つめた。港の松明が揺れ、肖像画の男女を照らし出す。
肖像画をじっと見つめていたカイルの眉が、わずかに動いた。その表情から余裕が消え、商人の顔が覗く。
「……驚いたな。まさかこんなところで、この三人の姿を見ることになるとは」
「カイル様、ご存知なんですか!? この方たちは……!」
食い気味に問いかけた文乃に、カイルは深く、重いため息をついて視線を逸らした。
「ああ、面識はある。……だが、文乃殿、これ以上は言えない。彼らは我ら商会にとって取引をしたことのある大切な顧客なんだ。たとえ親友であるレオネルの部下である貴女の頼みだとしても、顧客の身元や情報を安易に漏らすことは、商家の信用に関わる。……すまないが、教えることはできない」
その声は、先ほどまでの軽薄さが嘘のように冷たく、拒絶の響きを帯びていた。レオネルが何か言おうと一歩踏み出すが、それよりも早く、文乃が動いた。
「お願いします、カイル様……!」
文乃はその場に膝をつき、石畳に額を擦りつけるようにして、震える声で叫んだ。
「この肖像画に描かれた赤ん坊……エマは、今この瞬間も命の危険にさらされているんです! 彼女の両親はもう亡くなっていて、あの子を守れるのは、あの子の帰る場所を見つけ出せるのは、私たちしかいないんです……っ!」
コツン、と石畳に額が当たる乾いた音が響く。
そこには図書館の奥で嬉々として本を読み漁る文学少女の面影はどこにもない。一人の友人を、守るべき小さな命を救いたいという、剥き出しの執念。
「カイル様が商家の代表として、信用が大事なのはわかっています。でも、今あの子は独りぼっちなんです。どうか、お願いです……カイル様が知っていることを教えてください!」
夜の港に、文乃の悲痛な懇願が響き渡る。
カイルは差し出した手を宙で止めたまま、地面に伏した文乃の細い背中を、言葉を失って見つめていた。商売の「義理」と、目の前の少女が放つ「覚悟」。その天秤が、彼の胸の中で激しく揺れ動いていた。
カイルは黙り込み、低く垂れられた文乃の頭をじっと見つめていた。港に打ち寄せる波の音だけが、やけに大きく響く。
やがて、彼は重い口を開いた。
「……文乃。その話、嘘偽りはないのだな? その幼い子が、本当に……命の瀬戸際にあると」
文乃は顔を上げず、石畳に額をつけたまま、絞り出すように「はい」と答えた。
「……このカイル・グランバード、受けた恩は必ず返すのが俺の流儀だ」
彼は茶金色の髪を掻きながら、昔を懐かしむような、どこか遠い目をした。
「……あれは三年前、私が15歳の時に起こした失敗談を聞いてくれるかい。商人として駆け出しだった頃の話だ」
カイルは、レオネルの方をちらりと見て苦笑した。
「知っての通り、私はリュクサール随一の商家の長男として生まれた。幼い頃から親父に商売のいろはを叩き込まれ、自分でも天才だと思っていたよ。初めて任された大きな取引でも、僕は完璧以上の成果を出し、周囲を驚かせた。……『父親以上の商売の腕が、僕にはある』。本気でそう自負していたんだ」
カイルの声から、先ほどまでの軽やかさが消えていく。
「事件はその時に起きた。出港前、忠実な部下が僕にこう進言したんだ。『旦那様、念のため帳簿と積荷に相違がないか、もう一度確認をお願いします』とな。……だが、高慢だった当時の私は、鼻で笑ってこう返したのさ。『私が書いた帳簿に間違いがあるとでも言うのか? 時間の無駄だ、さっさと出帆させろ』とね」
カイルは自嘲気味に肩をすくめ、視線を落とした。その瞳には、今も消えない深い後悔の色が滲んでいる。
「滑稽だろう? だけど当時の私は、本気で自分が完璧だと思い込んでいたんだ。実際、その商談に向けて、私は何度も、何度も、自分の目で事前の確認作業を済ませていた。それこそ帳簿の数字に穴が開くんじゃないかってくらい繰り返し目を通して、積荷の個数も、規格も、すべて完璧に把握していたんだよ」
誰に恥じることもない、非の打ち所がない完璧な業務遂行。だからこそ、カイルの若すぎるプライドは肥大化してしまった。
「今さら現場の部下に言われるまでもない。自分の完璧な仕事にケチをつけられたような気がして、私はただ不愉快だったんだ。だから、あいつが勇気を振り絞って出してくれた提案を、私は冷酷に足蹴にした。現場の人間がどれだけプライドを持って働いているかも、その信頼を裏切ることがどれほど恐ろしいかも、何一つ想像できない愚か者だったからさ」
彼は拳を強く握りしめ、苦い記憶を噛み締めるように言葉を継いだ。
「……結果は、散惨たるものだった。単純な、だが決定的な取引数のミス。恐らく私の傲慢な態度が部下の反感を買い、取引が失敗するように嫌がらせを受けたのだろう……当然の結果だ。目的地に到着して、顧客の怒り狂う顔を見た瞬間、血の気が引いたよ。私の商人人生は終わった……それどころか、父が一代で築き上げたこの商会の信頼を、私の慢心ひとつで大きく傷つけてしまった。そう思って、ただ青ざめて立ち尽くすことしかできなかった」
カイルの回想は、さらに熱を帯びていく。
怒号が飛び交い、今にも破滅が口を開けようとしていたあの室内。冷や汗を流し、立ち尽くすしかなかったカイルの耳に、ふいに控えめな、けれど確かなノックの音が響く。
扉が開くと、そこには不安げな瞳で母親のドレスにしがみつく一人の幼い少女と、困惑した表情を浮かべたその両親が立っていた。
「……一体何事だ?お前の誕生日を祝うために家族全員で来訪したのに、今の怒鳴り声で娘が怯えているぞ」
少女の父親が静かに、だが威厳を持ってそう尋ねる。涙を浮かべて震える少女の姿を目の当たりにし、さっきまで鬼の形相だった顧客も、毒気を抜かれたようにタジタジとなった。
「い、いや、これは……。せっかくの来客なのに驚かせてすまなかった、お嬢ちゃん」
あんなに激昂していた男が、少女の前で縮こまって頭を下げる。その光景を横目で見ながら、少女の母親が進み出た。彼女は顧客から騒動の経緯を聞くと、まるでいたずらをした子供を諭す母親のような眼差しで、カイルへと向き直った。
「カイルさん。貴方のしたことは確かに大きなミスです。でも、それを隠さず向き合ったのなら、次はどう補うかを考えなさい。……そして貴方も」
彼女は鋭く、けれど温かい視線を顧客へと転じる。
「不利益を被った怒りは理解できます。ですが、感情に任せて怒鳴るだけでは何も解決しません。貴方も商人であるなら、どこに落とし所をつけるか、冷静に話し合うべきではありませんか?」
凛としたその言葉に、室内はしんと静まり返った。母親に叱られた子供のようなバツの悪さを感じたのか、顧客は小さく咳払いをし、カイルに向き直って頭をかいた。
「……すまない。私の方こそ、大人気なかった。少し、冷静さを欠いていたようだ」
カイルは心の中で安堵のため息をつく。しかし、この問題は、自身の傲慢さが招いた事。カイルの胸には重い責任感が居座り続けていた。彼は深く、深く頭を下げ、震える声で告げる。
「いいえ。このミスは全面的に私に非があります。……私は、責任を取ってこの仕事から身を引きます。私のような半人前が、この商会の看板を背負い続けるわけにはいかない」
絶望に沈むカイルの視界に、ふわりと小さな影が入り込んだ。
見上げると、あの少女が二人の間に割って入り、カイルと顧客の大きな手をそれぞれ取ったのだ。
「仲直りはね、こうするんだよ!」
少女は小さな手で二人の手を繋ぎ、強引に握手をさせた。
呆気にとられた二人は、顔を見合わせて苦笑し、ようやく声を立てて笑い合った。カイルが不足分の荷物を倍にして補償するということで、話は無事にまとまった。
肩の荷が下り、へなへなと座り込みそうになったカイルの元へ、あの少女がタタタッと駆け寄ってくる。
さっきまで涙を浮かべていたはずの彼女は、今やいたずらっぽい、宝石のような笑顔を見せてカイルを覗き込んだ。
「よかったね、おじさん!」
その聡明で、どこか神秘的な輝きを放つ笑顔。カイルは呆気に取られながらも、気づけばその場に膝をつき、少女の小さな手を取っていた。
「……ああ。君のおかげだ。ありがとう、小さなレディ。ちなみに、おじさんではなく『おにいさん』だ」
カイルは語り終え、手元のロケットを見つめた。
港の夜風が、彼の懐かしい記憶の熱をさらっていく。
「あの時、僕の未熟さを嗜めてくれたのが肖像画の奥方。そして、僕の手を取って握手をさせたお転婆な少女こそが、この肖像画に描かれた赤ん坊――エマ様だったんだよ。その後、一家とは大切な顧客として取引する間柄となったが、会うたびに私のことを家族のように迎えてくれたよ」
カイルの話をすべて聞き終えた文乃は、深い感謝を込めて彼に一礼した。その瞳には、もはや迷いはない。
文乃はレオネルに向き直り、震える声を抑えて訴えた。
「レオネル様、お願いです! エマを追いかけるために船を出してください。一刻を争うんです!」
だが、レオネルの反応は厳しいものだった。彼は苦渋に満ちた表情で首を振る。
「……文乃、私もすぐに追いかけたい気持ちは山々だ。だが、王家の紋章を掲げた船が、何の通告もなく他国の領海に入り、そこで荒事を起こしてみろ。それは単なる救出劇では済まない。最悪、戦争の火種になりかねないんだ。今から別の、身元の割れない民間船を手配し、偽装工作を施す必要がある。それに、エマが生まれ故郷に連れて行かれたという証拠は何処にある?全く別の国の可能性だってあるんだぞ?」
「そんな……! エマの命がかかっているのに……っ」
目の前で扉が閉ざされていくような絶望感に、文乃は唇を噛みしめた。
その時。文乃の細い肩を、ポンと叩く手があった。
「やれやれ。親友が相変わらず理屈っぽくて困るね」
カイルが、いつもの食えない笑みを浮かべてそこに立っていた。彼は文乃が持っていた、エマがペンダントを挟んでいた帳簿を手に取る。そこには挟まれていたのは二枚の書類。それはエマが残したメッセージ。書類に目を通したカイルは夜の海を指差し、さらりと言ってのける。
「これはアルメリア侯国への通行許可証と積荷目録じゃあないか。奇遇だなあ。僕が今から出航させようとしていた船の行き先と一緒だ。ここは『たまたま』エマ様の故郷の国でね。おまけに、ちょうど船員が足りなくて募集をかけていたところだったんだ。どうだい、よければうちの船で働いてみないか?」
「カイルさん……!」
それが『たまたま』などではないことくらい、文乃にもわかっていた。彼なりの、商人としての矜持と友情を秤にかけた末の、精一杯の「融通」なのだ。文乃は溢れそうになる涙を拭い、何度も頭を下げた。レオネルもまた、親友の無茶な提案に驚きつつも、深い感謝を込めて頷いた。
「恩にきる、カイル」
「私も……俺も連れて行ってくれ!」
たまらずガルドが前に出るが、それを制したのはレオネルだった。
「待て、ガルド。お前や私のような、顔の知れた地位のある者が無断で他国に乗り込めば、それこそ王家の船を出すのと何も変わらない」
「しかし! 文乃一人で行かせるというのですか!?」
激昂するガルドの声を遮るように、文乃が力強く一歩踏み出した。
「いいえ。私一人でも行きます。いいえ、行かせてください! エマの痕跡を、彼女のペンダントを見つけたのは私です。……たとえ一人になっても、私はあの子を連れ戻します」
その瞳には、もはや庇護されるだけの令嬢の面影はなかった。一人の友を救うため、異国の海へと飛び込もうとする少女の、凛烈な決意が宿っていた。
文乃の凛とした決意を聞き、レオネルは長く、重いため息を吐いた。
「……気持ちは痛いほどわかる。だが文乃、地理すら知らない異国に一人で乗り込んだところで、エマを救える確率は限りなく低い。……せめて、彼女を連れて行け」
「彼女……?」
文乃が首を傾げた、その時だった。
「――承知いたしました。レオネル様」
背後から響いた理知的で静かな声に、文乃は跳ね上がるように振り返った。
そこに立っていたのは、いつものメイド服を脱ぎ捨て、動きやすそうな旅装に身を包んだマチルダだった。あまりに気配のない、唐突な登場に文乃は目を丸くする。
「マチルダさん!? いつからそこに……。でも、ダメです! マチルダさんまで危険に晒すわけにはいきません!」
「ご心配には及びません、文乃。私はこれでも、護身の心得があります」
マチルダが淡々と、眼鏡の奥の瞳を光らせる。レオネルは無言のまま、顎でわずかに指示を出した。
次の瞬間だった。
「……ッ!?」
マチルダの姿が掻き消えたかと思うと、一陣の風が吹いた。
ドサリ、という鈍い衝撃音。何が起きたのか理解できなかった文乃の視界に入ってきたのは、騎士団長ガルドが、石畳に組み伏せられ、完璧に拘束されている姿だった。
「が、ガルドさん!? えっ、マチルダさん、今何を……?」
マチルダは息一つ乱さず、ガルドの腕を極めたまま涼しい顔で立っている。文乃は戦慄した。王国最強の一角であるはずのガルドが怪我を負った身とはいえ、指一本動かせずに唸っている。
「……本当に、マチルダさんって何者なんですか……?」
愕然と呟く文乃をよそに、実力を証明するためだけの「噛ませ犬」にされたガルドが、顔を赤くしてレオネルに吠えた。
「殿下! 怪我人を実演販売の道具にするのやめてくれ!」
「すまんな。だが、これなら文乃も納得するだろう?」
レオネルが苦笑いしながら解放の合図を送ると、マチルダは流れるような動作でガルドを離し、再び文乃の傍らに控えた。
文乃もまた、支給された民間人の旅装へと着替える。エマのペンダントをしっかりと抱えて。
夜の港に、カイルの船の出航を告げる鐘の音が鳴り響いた。
「文乃、マチルダ。……エマを頼むぞ。正式な手続きが終わり次第、ガルドと共にすぐ君たちの後を追う。それまでどうか無事でいてくれ」
レオネルとガルドの熱い視線に見送られ、二人はカイルが待つ貿易船のタラップを駆け上がった。
船がゆっくりと岸を離れ、波を切り始める。暗い夜の海の先にある、見知らぬ異国。そこへ向かう船の甲板で、文乃は夜風に吹かれながら、遠ざかる王都の灯りを見つめていた。
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