第三十七話 絶望の航路と小さな形見
文乃は、荒い息を整えながらも足を止めなかった。暗がりを抜け、先ほどの路地へと戻る。そこでは、まだ老人が地面に座り込んでいた。顔は血に滲み、息も荒い。
「おじいさん!」
文乃が駆け寄ると、老人は驚いたように目を見開いた。
「お、お前さん……戻ってきたのか。二人組はどうした?」
文乃は胸を押さえ、息を整えながら微笑む。
「この先で……気を失ってます」
老人は呆気に取られた表情を浮かべ、しばし言葉を失った。やがて皺の深い顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
「はは……まさか、あの二人を手玉に取るとはな。大した娘さんだ」
そう言いながらも、老人は首を横に振り、静かに続けた。
「だが……若い命が、年寄りなんぞのために危ない真似をするもんじゃない。助けてもらって……感謝してるがな」
文乃は少しだけ俯き、優しく微笑んだ。
「私はただ助けたいと思っただけです。あなたもそうですよね?」
老人はその言葉に、静かに頷いた。
「ちゃんと儂の顔を見て言葉を交わしてくれた人間なんて久しぶりにじゃったからな。そんな娘を見捨てるわけにはいかんよ」
文乃は老人の腕を取り、肩を貸しながらゆっくりと歩き出す。石畳を踏みしめ、路地の先に見えた明かり――そこは大通りだった。
その瞬間、鎧の金属音が響く。
「文乃!」
駆け寄ってきたのは、騎士団長のガルドだった。彼は泥まみれになった文乃の姿を見て、眉をひそめる。
「……お前、まさか一人でこんな場所まで……城で待機していろと言われたはずだ!」
厳しい声に、文乃は言葉を詰まらせた。だがその前に、老人が前へと進み出て、深々と頭を下げる。
「団長さん、この娘を叱らないでやってくれ。わしの命を救ってくれたんだ。あんたの部下よりよっぽど勇気がある」
ガルドは驚き、視線を老人と文乃の間で行き来させる。しばらくの沈黙の後、彼は小さくため息をつき、頭をかいた。
「……まったく。あまり無茶をするな」
文乃はほっと息を吐き、かすかに笑う。
「団長程じゃないですよ」
文乃は懐から、一枚の羊皮紙と小さな布切れを取り出した。
「団長さん、これを見てください。――犯人の姿を描いたスケッチと、現場で見つけたマントの欠片です」
ガルドは無言でそれを受け取り、じっと目を通す。羊皮紙に描かれた貴族風の男。しかし、その表情は深い陰影に塗り潰され、判別することは叶わない。
。そして受け取ったマントの欠片には金糸の装飾が施され、明らかに庶民の持ち物ではなかった。
「……なるほど、こいつがエマを攫った張本人か」
ガルドは短く呟くと、すぐに近くの騎士を呼びつけた。
「おい、これを王子殿下のもとへ届けろ! 一刻を争う。馬を使え!」
「はっ!」
騎士が駆け出すのを見届けると、ガルドは老人の方へ視線を向けた。
「傷が深いな。おい、そこの者! この方を城まで運べ。応急処置をしてから、医務室でちゃんと治療を受けさせろ」
指示を受けた団員がすぐさま動き出す。老人は担がれながらも、文乃に手を振った。
「ありがとうよ……嬢ちゃん」
その声に、文乃は小さく頷いた。
「文乃、場所を案内してくれ」
ガルドの声に、文乃は表情を引き締め、うなずく。
「はい。こっちです――」
二人は夜の路地を駆け抜けた。月明かりに照らされた石畳の上を、靴音が急ぎ足で鳴り響く。やがて、文乃が足を止めた。浮浪者が纏っていたボロ布が、道の真ん中に不自然に被せられている。
ガルドは眉をひそめ、慎重にその布をめくった。
「……っ!」
赤黒い液体が地面に滲み出し、鉄の匂いが鼻を突く。そこには、ガラの悪い二人組の男が血まみれで倒れていた。
「団長さん……この人たち……」
「見覚えがあるな。片方の耳が……切り落とされている。文乃、お前の話に出てきた貴族風の男に殺されたのかもしれん…口封じか…」
文乃の顔が一瞬にして青ざめた。
「エマは!?」
焦りに駆られ、文乃は駆け出した。
「文乃! 待て!」
ガルドが呼び止める間もなく、彼女はあの建物の扉を開け放った。中は静まり返っていた。
酒瓶が転がり、椅子が倒れている。縄の切れ端が床に散らばり――そして、肝心のエマの姿はどこにもなかった。
文乃の喉が震え、言葉が出ない。
「……そんな、嘘……」
ガルドがゆっくりと部屋に入る。
「間に合わなかったか……」
重い沈黙が、二人の間に落ちた。
風が割れた窓から吹き込み、灯りの消えた室内で、エマの残り香だけが微かに漂っていた。
文乃は部屋の奥へ駆け寄り、開け放たれた窓を見つめた。――エマが、どこかへ連れ去られた。
胸の奥が熱くなる。追いかけなきゃ、と足が勝手に動いたその瞬間――。
「待て、文乃!」
ガルドの低い声が響き、彼の大きな手が文乃の肩を掴んだ。
「今むやみに飛び出しても、もう遅い。それにこんな人通りの無い路地裏では、目撃者も期待できない。焦る気持ちはわかるが……犯人は必ず何かを残しているはずだ。手掛かりを探すんだ」
その言葉に、文乃は唇を噛んで立ち止まる。
エマの声がまだ耳の奥に残っている気がして、胸が締めつけられる。それでも、ガルドの真剣な眼差しに押され、うなずいた。
二人は部屋の隅から隅まで探した。机の引き出しを開け、棚の裏を覗き、床板を叩いてみる。けれど出てくるのは、埃と、空の木箱ばかりだった。
「……何もない。何も、出てこんのか!」
ガルドの声には、隠しきれない焦燥と苛立ちが混じっていた。
額から滴る汗を乱暴に拭い、彼は血走った瞳で周囲を睨みつける。
「何でもいい! どんな些細なことでも構わん、何か手がかりはないのかッ!? 奴らの行き先を示すものが、たった一つでもあれば……!」
怒りとも後悔ともつかぬ感情が爆発し、ガルドはそばにあった木箱を蹴り飛ばした。乾いた破裂音とともに木箱が粉砕され、その衝撃で中から「何か」が転がり出た。
それは、木片に混じって床に落ちた、茶褐色の汚れた繊維の塊だった。文乃は足元に転がってきたその奇妙な物体に目を留める。
――埃じゃない。
しゃがみ込み、指先で拾い上げると、その繊維には黒く粘ついた液体がべっとりとこびりついていた。ねっとりとしたそれは、重油のように重たく光りを放っている。
「……なんだろ、これ。油? それとも、松脂?」
――確か前に、読んだことがある。
膨大な知識の海を、文乃の思考が超高速で回遊しはじめた。記憶の棚から一冊の古い冒険小説が飛び出し、そのページが鮮やかにめくられていく。
『船大工は言った。この真っ黒な粘り気こそが、荒れ狂う海から命を守るのだと。麻の繊維にたっぷりとな、松を蒸し焼きにした天然のタールを染み込ませる!それを板の隙間に一分の隙もなく叩き込むんだ!分かったか!』
文乃の目が見開かれた。
「……これ、タールを染み込ませた麻材だわ! 船の防水処理に使うコーキング材よ!」
「船だと!?」
ガルドが驚いたように問い返す。文乃は確信を持って頷き、指先に残る黒い粘り気を見せた。
「この麻材が木箱に付着していたってことは、この箱、船倉に置かれていたものです。船を整備する場所……つまり、この隠れ家と港は繋がっている。エマは水路を使って運ばれたのかも!」
文乃の言葉に、ガルドの瞳に再び鋭い狩人の光が宿った。暗闇に包まれていた捜索の道筋に、一本の確かな航路が浮かび上がった瞬間だった。
ガルドの表情が一変する。焦燥に濁っていたその瞳に、明確な獲物を捉えた獣の鋭さが戻った。彼はすぐさま腰の剣の感触を確かめ、短く、だが地を震わせるような声で命じる。
「行くぞ、港だ!」
二人は視線を交わし、廃墟を飛び出した。
表へ出ると、招集に応じた騎士の一人が、手綱を引いて一頭の軍馬を走らせてくる。
「団長! 馬を!」
「でかした!」
ガルドは流れるような動きで鞍に飛び乗ると、地面に立ち尽くす文乃に向かって太い腕を差し出した。
「文乃、手を貸せ! 走るよりこっちの方が速い!」
「えっ、あ、はいっ!」
文乃がその大きな手を掴んだ瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。ガルドが驚異的な怪力で、彼女を軽々と引っ張り上げたのだ。
文乃はガルドの背後にしがみつき、振り落とされないよう必死でその腰帯を掴む。
「振り落とされるなよ! 行くぞッ!」
ガルドが鋭く腹を蹴ると、軍馬は激しいいななきと共に夜の闇を蹴立てて走り出した。
夜の風が冷たく頬を打つ。文乃の手には手掛かりの麻材と、小さな木片が握りしめられていた。港の空気は、潮と鉄と汗の匂いが入り混じっていた。夕陽に照らされた帆船の列が、波の上でゆっくりと揺れている。
「……これだけの船の中から探すのは、骨が折れるな」
馬上のガルドが低く呟く。彼の腕にしっかりと抱えられた文乃は、港を見渡しながら唇を噛んだ。どの船も同じように見える。木製の船体、立ち並ぶ帆柱、積荷の山。エマがどこに囚われているのか、見当もつかない。文乃は懐から、小さな木片を取り出した。
──あの部屋で見つけたもう一つの手掛かり。
あの場所に不相応な姿の木片だ。その木片は片面に焼け跡が着き、鼻を近づけると甘い香りが漂ってくる。
「……この木の匂い」
文乃はそれをもう一度鼻に近づけた。潮風の中でもはっきりとわかる、甘く、深い香り。焼けた木の苦みの中に、かすかに漂うバニラのような芳香。そして鼻腔を刺激するアルコール臭。脳裏に浮かんだのは、読書好きの彼女が昔ページをめくった、洋酒の文化を紹介する一節。
『この洋酒が深い眠りにつく前――。
樽に刻まれる火の洗礼。
赤々と燃え盛る直火にさらされ、樫の木肌が漆黒の衣をまとう「チャー」の儀式。
それは単なる焦げ跡ではなく、原酒を磨き上げるための漆黒のフィルター。
炭となったその衣は、荒ぶる若き日の雑味を静かに吸い込み、熱に焼かれた琥珀の層からは、甘いバニラの香りと、森の記憶が溶け出す。』
「……これは、ウイスキーの樽の香り!?」
文乃が顔を上げた。ガルドが手綱を引きながら振り向く。
「ウイスキー……? そんなもの、この国では造っていないはずだ」
「ええ。でも、これは間違いありません。木の焦げた匂いと甘いアルコールの香りがする。この木片は、ウイスキーを入れていた樽の一部……木箱と一緒に運んだウイスキー樽の木片だと思います!」
ガルドは一瞬目を細めた。港を見渡し、思案する。
「……なるほど。リュクサールでは酒の製造は厳しく管理されている。輸入しているのは――」
彼は小さく息を吐き、名を口にした。
「オルドレイン侯爵家の貿易商……か」
風が吹き、港の旗がばたばたと鳴る。夕陽を背に、ガルドの表情は険しさを帯びた。
「奴らの船は、確か第四埠頭の奥だ。間違いない。そこに向かうぞ」
文乃はガルドの腰帯を握りしめ、頷いた。胸の奥がざわめいている。
(エマ……待ってて。今、必ず見つけるから)
ガルドが手綱を引くと、馬が力強く嘶き、港の石畳を駆け抜けていった。港の海は墨を流したように暗く、波の音だけが静かに響いていた。文乃とガルドは、並んでその闇の中に浮かぶ一隻の船を見上げる。
黒い帆に金の紋章――リュクサールの誰もが知る、オルドレイン侯爵家の貿易船だ。その姿はまるで、夜そのものが形を取ったようだった。
「間違いないな。あの船だ」
ガルドが低く呟き、馬を降りる。文乃もそれに続き、港の影に身を潜めながら舷梯へと近づいた。
波間の光がちらちらと揺れ、二人の顔を一瞬ずつ照らす。ロープを伝い、音を殺して甲板に上がる。
静まり返った船上――風が帆をはためかせる音だけが響いていた。
その時だった。
――ボウッ。
甲板の中央で、一本の松明が灯る。炎の光が闇を裂き、船の構造物や積荷の影を赤く染めた。そして、松明の光の中に立っていたのは――裂けたマントを羽織る、ひとりの貴族風の男。
「……オルドレイン侯爵」
ガルドが剣の柄に手をかける。侯爵はゆっくりと振り返り、薄笑いを浮かべた。その瞳は冷たく、まるで夜の海よりも深い闇を宿している。
「お久しぶりですな、ガルド殿。まさか王の犬が、夜風を嗅ぎにここまで来るとは」
「戯言はいい。答えろ――なぜ、エマを攫った!」
ガルドの声が甲板に響き、海鳥が一羽、驚いて飛び立った。しかし侯爵はその問いに答えず、静かに城の方へと視線を向ける。その目には、哀れみとも侮蔑ともつかぬ色が浮かんでいた。
「…彼女は鍵だ…」
「なにを言っているの……?」
文乃の声が震える。侯爵はゆっくりと歩み寄り、松明の光を背に受けながら言葉を続けた。
「これ以上お前達が知る必要は無い……」
炎が揺れ、彼の裂けたマントの裾が風に翻る。その姿はまるで、闇に潜む獣のようだった。
文乃は息を呑む。彼の言葉に含まれる、得体の知れない“何か”が胸をざわつかせた。
(エマが……何、なの……?)
ガルドは剣を抜き、銀の刃が松明の炎を反射する。
「戯言はそこまでだ、オルドレイン。今ここで、貴様を止める!」
ガルドが前に出る。長剣を抜き放ち、銀光が月明かりを反射した。
「国民は国の礎だ。――その国民に手を出すということは、王家に刃を向けるのと同じだぞ、オルドレイン!」
低く唸るような声。その眼光に、オルドレイン侯爵が一歩退いた。だが、侯爵は口元に冷たい笑みを浮かべただけだった。
「国民? ふん……税も納めぬ浮浪者どもが、国民などと呼べるものか」
その言葉と同時に、彼はわずかに指を動かした。
――合図。
闇が、動いた。ガルドの背後、船のマストの影から、細い刃が閃く。
「――っ!」
鋭い金属音とともに、ガルドの右腕が弾かれ、鮮血が飛んだ。痛みをこらえながら左手で剣を握り直すが、剣筋は鈍る。細身のレイピアが、まるで踊るように彼の攻撃をいなしていく。金属がぶつかり合う音が、夜の海に響いた。片腕を負傷したガルドの息は荒く、押し込まれていく。
オルドレイン侯爵が軽く指を鳴らすと、闇の中から一人の男が歩み出た。痩せ細った体に青白い肌。まるで血の気というものが存在しないかのような顔色をしている。その男が手にしているのは、月光を鈍く反射する一本のレイピア。ガルドは眉をひそめ、血の滲む右腕を押さえながらも、口の端を吊り上げた。
「……その貧弱な身体で俺に勝てると思っているのか? うちの騎士団に来て、栄養のある飯を三ヶ月食ってみろ。今よりずっと“鋼”になれるぞ」
挑発の言葉に、男は何の反応も見せない。ただ、無言で剣を構えた。
そして――音もなく動く。
風が切り裂かれた。レイピアの穂先が一瞬で十にも二十にも分かれたように見える。まるで雨粒のような突きが、ガルドの全身へと襲いかかった。
「くっ……!」
長剣が閃き、火花が散る。だが片腕では防ぎきれない。衣服が裂け、皮膚が浅く切り裂かれ、赤い線が増えていく。
文乃は甲板の片隅でその光景を見つめ、息を飲んだ。血の匂い、剣戟の音、そして人が傷つく現実――それらが心臓を鷲掴みにする。
怖い。
けれど、目を逸らせない。
(ここで……ガルドが負けたら、エマも……!)
震える手を握りしめ、文乃は息を整えた。足がすくむ。それでも、動かなきゃ。少しずつ、できるだけ音を立てずに。彼女はゆっくりと、船の影の中を滑るように動き出した――
「ぐっ……!」
鋭い痛みが脹脛を貫いた。ガルドの片足に、レイピアの突きが深く刺さる。鮮血が甲板に飛び散り、重い身体が片膝をついた。
用心棒は口元ひとつ動かさず、滑るように距離を取ると、再び姿を消すように動き出す。細身の体が夜気を切り裂き、闇そのもののように速く、静かだ。
右腕は使えず、片足も動かない――まさに絶体絶命。
その時、
船尾の方から――澄んだ声が響いた。
「団長! 上に――階段の上へ!」
文乃の声だった。彼女は甲板の影から身を乗り出し、片手を伸ばしている。その瞳は恐怖を押し殺し、ただ“信じて”という意志だけで光っていた。
ガルドは短く息を吐き、頷く。
「……分かった!」
傷を押さえつつ、文乃の指し示す階段へと駆ける。段差の上なら、下からの突きを制することができる。ガルドは文乃の狙いを即座に理解した。
駆け上がるガルドへ向けて、文乃が必死な形相で白く細い手を伸ばす。その手を取ろうとガルドが腕を伸ばした
――刹那。
月光に照らされた文乃の手首、捲れ上がった袖の隙間に、ガルドの鋭い眼光が吸い寄せられた。
そこには、魔法の万年筆で書かれた淡く輝く文字――文乃が自らの肌に刻んだ『罠のカンペ』があった。ガルドは文乃の手を強く握りしめると、その獰猛な口角をニカッと吊り上げる。
「逃がすか!」
用心棒が低く叫び、影のように追いすがる。足音が近づく。あと一歩、あと半歩――階段を登り切る寸前、レイピアの切っ先が再び閃いた。
だが、その瞬間――
ガンッ!
乾いた音と共に、用心棒の身体が前のめりに倒れ込んだ。顔面が階段の角にぶつかり、鈍い悲鳴が夜の海に響く。
「なっ……階段が、消えた……!?」
確かに彼の目には、一段上があるように見えていた。だがそれは――文乃の《魔法の万年筆》が描いた、“幻の段差”。
彼女が息を詰め、震える手で描き足した“たった一線”が、勝敗を分けたのだ。
「――終わりだ」
ガルドの長剣が逆光に輝き、一閃。鋭い音とともに、レイピアが宙を舞い、次の瞬間――
鋼の切っ先が、用心棒の心臓を正確に貫いていた。
静寂。
夜風が甲板を撫でる中、文乃はようやく息を吐き出す。震える指先から万年筆が落ち、カランと小さな音を立てた。
「……ナイスだ、文乃」
血に濡れた剣を下ろしながら、ガルドが微笑んだ。その言葉に文乃は小さく頷き――胸の奥で、初めて“自分が誰かを救えた”という実感を噛みしめていた。
しかしその高揚感はすぐに消え去る。
足元に広がる、どす黒い水溜り。
ピクリとも動かなくなった死体の、見開かれたまま光を失った瞳。
さっきまで物語の一幕を演じているような感覚でいた世界が、急激に色彩を変え、牙を剥いて迫ってくる。
――これは、文字で読んだ「描写」じゃない。
――ページをめくれば消えるおとぎ話しなんかじゃない。
ごくり、と喉が鳴る。
肺に流れ込む空気は冷たく、そして重い。
肌を撫でる夜風の冷たさも、耳を打つ波の音も、そして目の前で「命」が失われたという事実も。
そのすべてが、ここが安全な読書机の上ではなく、一歩間違えれば自分も「物」と化す、剥き出しの現実であることを文乃に突きつけていた。
文乃は震える手で自分の腕を強く掴んだ。爪が食い込む痛みが、いやに鮮明で、恐ろしかった。
甲板を打つ波音と、焦げた松明の匂いが入り混じる夜の港。倒れた用心棒の亡骸のそばで、ガルドは膝をつき、荒い息を吐いていた。右腕からは血が滴り、片足はうまく動かない。全身に刻まれた無数の切り傷が、痛みよりも重く体を縛りつけている。
それでも、彼の瞳は決して折れていなかった。
「……まだ、終わってないぞ……」
強がる声はかすれ、握った剣の柄は赤黒く濡れていた。そんなガルドを見下ろしながら、オルドレイン侯爵は笑った。
「哀れなものだな、ガルド・シュタインベルク。王家の忠犬も、牙を抜かれればただの獣だ。」
松明の炎が侯爵の頬を照らす。その笑みは、血に酔った狂気の輝きを宿していた。
「その足で立てるか? いや、立てぬだろう。ならばせめて見せてやろう——お前の守りたかった“女”がどう切り刻まれるかをな。」
侯爵は短剣を抜き、刃を月光にかざした。
「もう片方の足も手も、使い物にならぬようにしてやる。その目で絶望を刻め!」
「やめてっ!」文乃が声を上げるが、足がすくんで動けない。
ガルドはそれでも立ち上がった。ふらつきながらも、鋼の意志で。
「貴様の剣が届くより早く、俺の命をくれてやる……それが、騎士の誇りだ。」
「ははっ、誇り? 無様なだけだ!」
侯爵が剣を振り下ろした——その瞬間。
――金属音が甲板に響く。
オルドレイン侯爵の手から剣が弾かれ、夜空を舞いながら海へと沈んでいった。何が起きたのか理解できず、侯爵が振り向く。文乃も恐怖で伏せていた目を開き、顔を上げた。
そこに立っていたのは——月光を背に、長剣を構える一人の青年。銀の外套を風に揺らし、その瞳には王の風格が宿っている。
「……レオネル殿下……!」
ガルドが驚きと安堵を混ぜた声を漏らす。
レオネルは侯爵を鋭く睨みつけた。
「王家の名を汚し、民を弄ぶ愚か者よ。その剣、二度と抜けぬようにしてやる。」
夜の海がざわめき、炎の明かりが彼の背を照らした。その姿はまるで、絶望の闇を裂いて現れた“王国の刃”のようだった。
甲板を覆う夜風が、荒れた海面をなでるように吹き抜けていた。船上では、王立騎士団の団員たちが素早く動き、オルドレイン侯爵を押さえ込む。裂けたマントを引き剥がされ、貴族の威厳など微塵も残っていない。
「オルドレイン侯爵――なぜエマを攫った?」
レオネルは冷たい声で問いかけた。その金の瞳は怒りに震えながらも、決して激情に任せてはいなかった。
侯爵は顔を歪め、唇の端で笑う。
「攫う? ……何の話か、陛下の息子ともあろうお方が、冗談を?」
その声音は明らかに取り繕っていた。沈黙の奥に、何かを隠している。
「言い逃れが出来ると思っているのか?」
レオネルは一歩前へ出ると、指先で騎士に合図を送る。
「こいつを連れて行け。地下牢に放り込め。話は後で聞く」
鎖の音が甲板に響き、侯爵は無様に引きずられていった。残されたレオネルは、険しい顔のまま船員たちに命じる。
「船内を隅々まで調べろ。どんな小部屋でも構わん、すべてだ」
ほどなくして、船底から一人の騎士が駆け上がってきた。
「報告します! 船内、隅々まで捜索しましたが……エマ様の姿はありません! ネズミ一匹おりません!」
「……っ、そんな」
文乃の膝から力が抜けた。あれだけ凄まじい追跡劇を繰り広げ、ようやく追い詰めたというのに。ガルドもまた、巌のような顔を歪めて絶望の色を隠せない。
レオネルは迷いなく、騎士団に連行されかけていたオルドレイン侯爵へと歩み寄った。その瞳には、凍てつくような怒りが宿っている。
「オルドレイン……エマはどこだ、どこへ隠した」
「……さあて? 何のことやら。せいぜい、港中を、いや、この国中を隅から隅まで探し回るがいい。もしかしたら、もう海の底で魚の餌になっているかもしれんぞ?ふふ、あはははは!」
小馬鹿にしたような、濁った笑い声。
その瞬間、ガルドの堪忍袋の緒が弾けた。
「貴様ぁぁぁッ!!」
地を揺るがす咆哮と共に、ガルドの鋼鉄の拳が振り上げられた。だが、その拳が侯爵の顔面を砕く直前、横から伸びた細い、だが強靭な腕がそれを制した。
「止めろ、ガルド!」
「……放してください、殿下ッ! この外道を、俺は生かしておけん!」
「落ち着け! 今この場で怒りに任せて手を出せば、お前の立場がなくなる。騎士団長という席を追われることになるぞ!」
「そんなもの、今さらどうだっていい! 俺は……!」
ガルドが激昂して腕を振り払おうとした時、レオネルの声がさらに鋭く響いた。
「よくない! 今、お前が騎士団長という役職を捨てれば、エマを救うための戦力が、指揮官が、一人減ることになるんだぞ。……それでもいいのか!」
その言葉に、ガルドの身体がびくりと震えた。
振り上げられた拳。その先にいるのは、守るべき平和を汚した男。けれど、今優先すべきは「怒り」ではなく「救出」だ。ガルドは歯が折れそうなほど食いしばり、ゆっくりと、その拳を下げた。
「……すまない、レオネル」
「……いや、お前の気持ちは痛いほどわかる」
レオネルは小さく息を吐き、冷静さを取り戻した声で文乃とガルドに向き直った。
「奴の口ぶりから察するに……エマはもう、この船には乗っていない。別の、それもすでに出航した国外向けの船に移された可能性が高い」
「それなら、こちらもすぐに船を出して追いかける!」
焦るガルドに、レオネルは首を振った。
「行き先もわからずに、どの海路を追うというのだ? 闇雲に海へ出ても、霧を掴むようなものだぞ」
沈黙がその場を支配した。
だが、文乃は諦めていなかった。彼女はふらつく足取りで、先ほど騎士が「何もない」と言った船底へと降りていった。
――何かあるはずだ。どんな些細な違和感でもいい、エマの「痕跡」を。
薄暗い船底の隅。カビ臭い空気の中、文乃の目に、古ぼけた棚の隙間に挟まった一冊の帳簿が留まった。帳簿の隙間から垂れ下がる、僅かに煌めく一筋の光。
吸い寄せられるように帳簿を手に取り、震える指でページをめくる。
「……っ!」
その間に挟まっていたのは、銀の鎖。
あの時、エマが肌身離さず持っていた、両親の唯一の形見であるペンダントだった。
冷たい金属の感触。そこに残る、わずかなエマの温もり。
文乃はそのペンダントを、祈るように両手で包み込み、胸の奥で固く握り締めた。
「……必ず、助けるから。待ってて、エマ」
瞳から溢れた一滴の涙が、ペンダントに落ちて光る。文乃の心に、絶望を焼き切るような新しい決意の炎が、静かに、だが熾烈に灯り始めていた。
ここまでお読みいただき、
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一気に完結に向かって毎日投稿予定です。
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