第三十六話 刃を騙す一線
文乃は羊皮紙を胸に抱きしめ、暗がりの路地を駆け出した。背後で男たちの足音が響く。その音が、まるで地獄の獣に追われているように聞こえた。文乃は暗い路地を必死に駆け抜ける。息は荒く、胸が痛いほどに脈が早い。背後からは、靴音が二つ。重く、獣のように近づいてくる。
「――っ、く……!」
乱れたスカートを押さえながら、文乃は狭い通りを曲がる。その途中、先ほど服を引っ掛けた梯子が目に入り、とっさにそれを蹴り倒した。
ガシャン!
木の音が響き、通路を塞ぐように倒れる。
「これで少しは……!」
だが次の瞬間――
「甘ぇんだよ、お嬢ちゃん!」
二人の男は勢いを落とすことなく、軽々と梯子を飛び越えた。文乃の顔が一瞬で青ざめる。
(嘘でしょ……!?)
狭い路地の先に、表通りの明るい灯りが見える。
あと少し――あと数歩で人のいる場所へ出られる。その希望が見えた瞬間、背後から荒々しい手が彼女の髪を掴んだ。
「――きゃあっ!」
体が引き戻され、文乃はバランスを崩して地面に倒れ込む。髪を無理やり引っ張られ、目の奥に涙が滲んだ。
「離せっ! 女性の髪を引っ張るなんて……最低!見た目だけじゃなくて、行動まで野蛮ね!」
振り返りざま、文乃は必死に怒鳴る。震えを隠そうと、強がりな声を張り上げるが――二人組の男たちは、薄笑いを浮かべたまま、彼女を見下ろしていた。
「へぇ、口は達者だな。」
「だが、その虚勢、すぐに泣き声に変えてやるよ。」
冷たい視線が文乃の全身をなぞる。片方の男が顎をしゃくり「依頼はガキの監視だったが……代わりにこっちで遊んでも罰は当たらねぇだろ?」と、不気味な笑みを浮かべた。
文乃の全身に、ぞっとするほどの悪寒が走る。しかし、彼女は絶望の中でも、ぎゅっと拳を握りしめた。
(……エマを守るって、約束したのに……!
ここで終わるわけにはいかない!)
文乃は必死にもがく。腕を振りほどこうと暴れ、足を蹴り上げるが――男たちの力は、まるで岩のようにびくともしない。
「やめてっ……!」
「暴れるな、面倒な女だ!」
無慈悲な声が飛び、文乃の両腕は無理やり押さえつけられる。力の差が、あまりにも絶望的だった。胸の奥に恐怖が押し寄せ、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れる。
(……誰か、助けて……!
レオネル……ガルド……!)
その瞬間――
鈍い音が、路地裏に響いた。
「――ッ!?」
男のひとりが、頭を押さえて崩れ落ちる。手に伝うぬるりとした感触に顔を歪め、掌を見れば、そこには赤い血が滲んでいた。
「な、何っ!?」
文乃は目を見開き、音のした方を振り返る。
そこには――角材を握りしめ、震える腕で構えるひとりの老人。あの、路地の入口で出会った浮浪者だった。
「に、逃げるんだ……嬢ちゃん……!」
かすれた声。震える膝。それでも彼は、文乃と男たちの間に立ちはだかる。文乃の胸に、一瞬希望の光が差し込んだ。
(助けに……来てくれたの……!?)
だが――希望はすぐに崩れる。
「てめぇ……何しやがる!!」
怒号とともに、残った男が浮浪者の胸ぐらを掴み、拳を叩き込む。
「ぐっ……!」
浮浪者の体が、壁に叩きつけられた。もう一人も立ち上がり、血のついた頭を押さえながら唸る。
「このジジイ、殺してやる……!」
二人がかりで襲いかかる。角材は再び振るわれるが、力の差は歴然だった。浮浪者は一撃で押し倒され、泥の中に転がる。文乃は震える唇を噛み、叫びそうになる声を必死に押し殺した。
(やめて……! お願い、やめて……!)
それでも、男たちは止まらなかった。鈍い音が、夜の路地に響き渡る。血の滲む拳が、老人の頬を何度も打つ。それでも老人は逃げなかった。文乃を庇うように立ち塞がり、歯の欠けた口で叫ぶ。
「早く……逃げろ! わしなんかのことは、どうでもいいっ!」
その声が、文乃の胸を刺す。
逃げなきゃいけない――わかっているのに、足が動かない。自分には戦う力なんてない。けれど、このまま置き去りにしたら、この人は――死ぬ。
文乃は唇を噛み、迷いを振り払うように拳を握った。
「ごめんなさい……!」
心の中でそう叫び、ついに駆け出した。だが、走り抜けた先は――大通りではなかった。入り込んだのは、さらに暗く狭い裏路地。行き止まりのような、細い小道だった。
背後から、笑い声が響く。
「へっ、焦って行き先を間違えやがったな!」
「バカな女だ、こっちで終わりだぜ!」
二人組は嘲笑いながら追ってくる。だが、角を曲がった先――そこには誰もいなかった。
「おい……? あの女どこ行きやがった!」
「クソッ、見失った!? このままじゃ、あのスカした野郎に殺されるぞ!」
目の前には月明かりの差し込む細い小道――2人は勢いよくその小道に飛び込んだ。次の瞬間、二人の体が何か硬いものにぶつかり、鈍い衝撃音が響いた。
ゴッ!
勢いのまま転倒し、石畳に崩れ落ちる。鼻血を流しながら、呆然とした表情で見上げた先――そこにあったのは、ただの“壁”だった。
壁一面に描かれていたのは、まるで本物のような小道の絵。光の加減、遠近、影の濃淡まですべて緻密に描かれ、現実の延長にしか見えないほど精巧な風景画だった。
小道の影から、文乃が静かに息をつく。壁一面に『書いた』スケッチで人を惑わせる――それが、彼女が唯一使える“武器”だった。
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