第三十五話 闇夜の追跡と、泥に咲いた勇気
文乃は息を整え、羊皮紙の束を胸に抱いたまま、あの場所へと戻ってきた。昼間は人で賑わっていた城下町も、今は夕闇に包まれ、提灯の光が揺れている。
「……この辺りだった」
自分がスケッチを描いた場所に立ち、羊皮紙を広げて見比べる。描かれた足跡の位置、地面の模様、建物の影の角度──すべてが一致していた。
そして――文乃は思い出す。ガルドが犯人達を追いかけたのは、表通りではなく、脇の細い路地だった。
「……犯人達はこっちに、行ったよね?」
通りの喧騒が遠ざかるほどに、空気が重くなっていく。路地は人ひとり通るのがやっとの幅で、昼間でも薄暗い。湿った石畳が足音を吸い込み、かすかな水の滴る音だけが響く。
「うぅ……何この雰囲気……」
文乃は肩をすくめながら歩き出した。どこかで猫が鳴いたかと思うと、足元を黒い影が走り抜ける。
「ひゃっ!?」
思わず飛び退く。その拍子に、背中が建物の壁に立て掛けられた木の梯子にぶつかった。
ビリッ──。
「わ、私の服っ……!」
袖の一部が梯子のささくれに引っかかり、裂けてしまっていた。焦りながら破れた部分を押さえる。
「はぁ……またレオネルに怒られるかな……」
彼の真面目な顔が脳裏をよぎり、文乃は思わず顔をしかめた。だが、ふと目に留まる。自分の服の裂け目と同じように、梯子の先端に小さな布切れが引っかかっていた。
「……これ、まさか」
文乃は指先でそっと布をつまみ取る。梯子の先端に、風に揺れる小さな布切れが引っかかっていた。最初はただのボロ切れかと思ったが、手に取った瞬間、文乃の眉がわずかに動く。
「光沢のある絹、そして細かな金糸の刺繍。こんなものがカビ臭い路地裏にあるなんて…」
手のひらの上で、布切れが月明かりに照らされる。胸の奥で鼓動が高鳴る。
「やっぱり……この路地を通って、連れ去られたんだ。そして、おそらくこの布切れの持ち主がエマを攫った犯人」
恐怖よりも、確信の方が強かった。文乃は布を大切にしまい、暗い路地の奥をまっすぐに見つめた。
「待ってて、エマ。必ず見つけるから」
そして彼女は、光の届かぬ闇の中へと、再び歩を進めた。路地裏の奥は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。文乃がさらに足を進めると、薄暗い路面に――人影が見えた。
ボロ布を被り、地面にうずくまるように横たわっている。鼻を刺すような悪臭が漂い、思わず息を止める。その瞬間、脳裏をよぎる――“死体”という最悪の言葉。
「……っ!」
文乃の全身から一気に汗が噴き出し、心臓が暴れ出す。しかしその“人影”は、ぬるりと動いた。ぎしりと音を立て、ゆっくりと上体を起こす。汚れた布の隙間から、真っ黒な瞳がこちらを見た。
無言のまま、ただ――じっと。
「え、えっと……こ、こんにちは……」
声が震える。けれど、訊かずにはいられなかった。
「この辺で、不審な人を見ませんでしたか?」
沈黙。そして、浮浪者の指がゆっくりと持ち上がり――文乃を指差した。
「え……わ、わたし!?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。
「な、何それ! 失礼じゃない!?」
だが浮浪者は首を横に振り、今度は文乃の“背後”を指した。
そちらを振り向くと、路地のさらに奥に――光を飲み込むような、狭く暗い通りが口を開けていた。
ぞくり、と背筋が冷える。明らかに“入ってはいけない”場所。それでも――エマを助けるためなら、迷っている暇はない。文乃は唇を噛み、拳を握りしめた。
「……行くしか、ないよね」
そう呟き、闇の奥へと一歩を踏み出した。文乃は、浮浪者が示した方角へと慎重に足を進めた。細い路地の突き当たりには、今にも崩れそうな古びた扉がひとつ。
胸の奥がざわつく――ここだ。何かが、ある。
息を殺し、隣の小窓へと身を寄せる。埃まみれのガラスに指で小さな隙間をつくり、そっと覗き込んだ。
「……っ!」
思わず息が漏れた。そこには、目隠しと猿轡をされ、縄で縛られたエマが床に転がされていた。服は乱れ、唇は乾ききっている。だが、確かに――生きている。
その傍らで、粗暴な雰囲気を纏う男が二人。椅子にもたれ、酒瓶を片手に気だるげに笑っていた。
文乃は扉の隙間に耳を押し当てる。
くぐもった声が中から漏れてきた。
「チッ……いつまでガキの見張りなんかさせるんだよ。退屈で死にそうだぜ」
「依頼主が来るまで我慢しろって言われてんだろ。……まったく、こんな仕事、割に合わねぇ」
瓶のぶつかる音。安酒の匂いが風に混じって漂う。文乃の喉がひりつく。拳を握る手が震えた。
そのとき――ひとりの男が、エマをいやらしい目で見下ろした。
「なあ……ちょっとぐらい、いいだろ? 依頼主にバレやしねぇ」
「……やめとけ」
「チクったら殺すぞ。わかったな」
その男が、にやりと笑いながらエマに手を伸ばした――瞬間。
バンッ!
扉が勢いよく開かれ、部屋の空気が凍りつく。入ってきたのは、上質なコートを纏った貴族風の男だった。暗がりで表情がよく見えないが、その身体には冷たい怒気を宿し、言葉もなく一歩で間合いを詰める。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
「ぐはっ!」
エマに手を伸ばそうとした男が、殴り飛ばされ壁に叩きつけられ床に転がった。呻き声を上げる暇もなく、貴族風の男が無言で歩み寄る。
次の瞬間――刃が閃いた。
乾いた音とともに、男の耳が床に落ちる。
「ひ、ひぃっ……!」
血に顔を染め、倒れた男は震えながら後ずさった。貴族風の男は淡々と告げる。
「次に同じ真似をしたら――その手を切り落とす。」
静寂。
部屋の空気が凍りつく。もう一人の見張りも、息を飲んで動けない。男は震える声で何度も謝り、床に額を擦りつける。貴族風の男はそれを一瞥し、靴の先で転がる耳を踏み潰した。
「俺の許可なく、依頼品に触れるな。」
その声音に、文乃の背筋が凍る。だが同時に、希望の灯が胸にともった。
――エマはまだ助かる。今なら、まだ。
貴族風の男は、殴り倒した手下を冷たい目で見下ろす と、手に付いた血を振り払うように軽く払った。そして無言のまま外套の裾を翻し、部屋を後にする。
その一瞬――文乃の目が鋭く動いた。
(……外套の端が、裂けてる?)
薄暗い灯りの中、男の外套の裾には小さな破れがあり、ほつれた糸が揺れていた。それは、先ほど路地裏の梯子で見つけた布切れの装飾と、まったく同じ模様だった。
(あの人が……エマを攫った張本人……!)
胸の奥が凍りつく。文乃は震える手で肩掛けのバッグを開き、羊皮紙と万年筆を取り出す。指先がかすかに震えるのも構わず、視線だけで男の全身を捉え、一気に描き上げた。
――外套の形、髪の色、靴の装飾。
まるで魂を刻むように、ペン先が走る。スケッチを終えた文乃は、息を詰めたままそっと後ずさる。
(今は……助けに入るより、情報を持ち帰るのが先……!)
しかし、その足元で――
パキッ。
小さな枝を踏みしめる音が、静寂を裂いた。
「……誰だ!?」
部屋の中から、低い声。続いて椅子が倒れる音。文乃の顔から血の気が引いた。
「外に誰かいるぞ!」
荒々しい声が響き、扉が勢いよく開く。二人のガラの悪い男たちが、怒鳴り声を上げながら外へ飛び出した。
「逃がすな!」
ここまでお読みいただき、
本当にありがとうございます!
本作は6月末まで、
一気に完結に向かって毎日投稿予定です。
「続きが気になる!」「一気読みしたい!」
と思ってくださった方は、下にある
【ブックマークに追加】や【評価】を押して応援していただけると、完結までの執筆の最大の励みになります!
どうぞよろしくお願いいたします!




