第三十四話 たった一つの手がかり
胸を冷たい手で掴まれたような感覚。血の気が一気に引いていく。エマは……誘拐された。
城下町の喧噪が遠ざかり、文乃の耳には自分の鼓動だけが響く。だが、立ち尽くしている暇はない。
「クソッ!この俺がいながら!俺はエマを護ることができなかった!!」
ガルドの瞳が鋭い猛禽のそれに変わった。彼は即座に近くにいた騎士の一人を怒鳴りつける。
「今すぐ非番の者も含め、騎士団全員を招集しろ! 城下町の全出口を封鎖、鼠一匹通すなッ!俺は周辺を虱潰しに当たる!!」
ガルドは風を切り、エマが消えた路地へと消えていく。
文乃は、今の自分にできる「戦い」を開始した。震える手で肩掛けバッグから手持ちの羊皮紙全てを引き摺り出し、魔法の万年筆を呼び出す。
「……今できることを、やるしかない」
細やかな光を帯びたペン先が、凄まじい速さで踊っていく。
路地裏の地面に残った微かな靴跡、周囲の人々の動揺した顔、立ち並ぶ露店の配置、空気の流れる向きさえも――まるで証拠写真を撮るかのように、一瞬の情景を羊皮紙に定着させていく。
数十分後、顔を険しく歪めたガルドが戻ってきた。その拳は、犯人を逃した悔しさで血が滲みそうなほど強く握りしめられている。
「……クソッ!!!目撃者も、連れ去られた痕跡も絶たれた!これ以上は追えん」
絶望的な報告。しかし、ガルドの視線が文乃の手元に散らばった大量のスケッチに止まった。そこには、現場にいた文乃にしか捉えられなかった「エマが囚われた瞬間」の断片が、緻密に描写されていた。
「これは……文乃、これほどまでの情報を記録していたのか」
「ガルドさん。私に出来ることは現場を詳細に書き記すこと。私のスケッチから犯人に繋がるヒントを見つけ出せるかもしれません!」
文乃の凛とした提案に、ガルドは力強く頷いた。
「わかった。文乃は城へ戻り、殿下たちと解析を急いでくれ。このスケッチは貴重な手掛かりになる。俺は集結した騎士団と共に、もう一度、今度は力ずくで街をひっくり返してくる!」
「お願いします……!」
文乃は描き上げた羊皮紙の束を抱え、全速力で王城へと駆け出した。
「必ず……見つけ出すから」
握り締めた万年筆の先に、文乃の決意が宿っていた。
石畳を蹴り、文乃は息を切らしながら城門を駆け抜けた。胸の奥が焦げるように痛い。心臓が喉から飛び出しそうなほど速く鼓動している。
「……レオネル!至急、来て!」
その声は廊下に響き、間もなく重い扉の向こうから1人の男が姿を現す。金髪を無造作にかき上げたレオネル。彼の前で、文乃は肩掛けのバッグを開き、息を整える間もなく羊皮紙を次々と床へ並べた。
「おい……なんだこれは。いったい何枚あるんだ……?」
床一面に広がったのは、写真のように精密なスケッチの山。城下町の風景、人の表情、光と影の位置までが克明に描かれている。レオネルは眉をひそめ、呆れたようにため息をついた。
「文乃、言ったはずだ。羊皮紙を無駄に使うなって——」
「違うの!」
文乃は彼の言葉を遮るように叫んだ。
震える声、握り締めた拳。
「エマが……攫われたの!これはその現場をスケッチしたもの。この中に、犯人を見つけ出す手がかりがあるはずなの!」
その瞬間、空気が変わった。
レオネルの表情から軽い苛立ちは消え、静かに険しさが宿る。
レオネルが呟く。
「……つまり、これが現状唯一の手掛かりか…」
「そう。私の“読み書き”で残した、たった一つの手掛かり」
文乃の声には涙が混じっていた。だがその瞳は揺らがず、まっすぐレオネルを見据えていた。
「お願い……エマを見つけるために、力を貸して」
短い沈黙。
「泣くのは後だ、文乃。今はエマの手掛かり探す」
レオネルの言葉に、文乃は小さく頷いた。二人の視線が、床に散らばった羊皮紙の群れへと集まる。
その中に——必ず、犯人の影がある。
無数の羊皮紙が嵐のあとのように床を覆い尽くし、図書室は異様な熱気に包まれていた。
レオネルは床に膝をつき、文乃が命を削るようにして描いたスケッチの一枚を拾い上げる。
「……文乃、これはなんだ?」
「ええと、それは……広場の隅にいた露天商が陳列している織物ですね」
「ふむ。では、この男は?」
レオネルが次に指差したのは、物陰で鼻をほじっている浮浪者のスケッチだった。
「……それは、道端に座っていた人です。もしかしたら犯人と関係ある人物の可能性も……」
「…………」
レオネルは呆れたように息を吐き、次々と羊皮紙をめくっていく。
犯人の特徴を真っ先に探したい彼に対し、文乃が差し出すのは、道端のゴミ、馬の蹄鉄の跡、通行人の不機嫌そうな顔――まさに「見たものすべて」を無差別に、かつ偏執的なまでに精密に記録した膨大な記憶の断片だった。
「本当になんでも描いているな。……お前の目に映る世界は、これほどまでに情報過多なのか」
「余裕がなかったんです! 何が証拠になるか分からないから、とにかく全部残さなきゃって……。……やっぱり、無駄でしたか?」
文乃が不安げに声を震わせた、その時だった。
レオネルの指先が、乱雑に積まれた紙の山から、ひときわ地味な一枚に止まった。
その動きが、獲物を見つけた獣のように鋭く、静かなものに変わる。
「……いや。文乃、よくやった。これは、なんだ?」
差し出された羊皮紙には、一面の泥や砂が精密に描かれていた。模様も欠けも、まるで現物を切り取ったかのように克明だ。文乃は息を整え、少し戸惑いながら答える。
「えっと……エマが立っていた場所の地面です。……でも、もしかして必要なかったですか?」
文乃が不安そうにレオネルに視線を送り、再び尋ねる。
「この絵に何か気になるところでも?」
だがレオネルは、文乃の言葉を聞いていなかった。羊皮紙を顔の前にかざし、じっと見つめたまま動かない。やがて、指先で一点をなぞる。
「……見ろ。ここ、足跡が途切れている」
「足跡?」
文乃が身を乗り出す。
「そうだ。小さな足跡が突然消えている。そのすぐ隣——」
レオネルは指で円を描くように示す。
「深く沈んだ、別の足跡がある。形からして大人の男。片足だけ沈み込んでいるのは、重いものを抱えて体重をかけた証拠だ」
空気が一瞬で張り詰めた。文乃の喉が鳴り、目を細め、図を覗き込む。
「つまり……攫った瞬間、抱え上げて走り出したってことですか?」
「その通りだ」
レオネルは短くうなずき、さらに絵を細かく目で追う。
「この珍しい靴底の形状は、一般的な市販品ではない。宮廷御用達の職人が、特定の『城の人間』に調合した特注品の可能性が高い。まずは城の出入り記録と、この靴を注文した者を割り出す」
「お城を出入りするような人物が……エマを?」
文乃の声が震える。レオネルは静かに羊皮紙を畳み、彼女に視線を戻した。その瞳には、迷いのない決意が宿っていた。
「犯人は、市井のチンピラじゃない。足跡が導くのは、城の関係者……あるいは、貴族階級の人物かもしれん」
沈黙が流れる。羊皮紙の上に描かれた足跡が、まるで過去からの声のように二人を見つめ返していた。
「靴跡の形状はここまで鮮明だ。まずは城の中に同じ靴底を持つ者がいないか調べる」
低く鋭い声で言い残し、レオネルは羊皮紙を掴んだまま踵を返した。その眼には、冷徹な次期国王としての光が宿っている。
「城内の職員、護衛、来訪者……全員だ。靴跡の一致が一人でも見つかれば報告しろ」
「了解しました!」
騎士団の1人が短く返事をし、分厚い腕を振る。レオネルの命令は城にガルドの耳にもすぐに届き、城へと帰還した。
「騎士団は殿下と共に城内の捜査に当たれ!不審な人物を一人残らず洗い出すんだ!」
彼の声が石造りの廊下に響く。すぐに伝令たちが駆け出していく音が重なった。
「俺は工房を回る」
ガルドは自分の剣を腰に下げ、重い鎧の肩を鳴らす。
「現場の足跡、形が貴族用のブーツなら、作った職人が必ずいる。革の厚み、釘の打ち方、底の縫い目……職人は自分の仕事を見れば分かるはずだ」
レオネルが無言で頷くと、すぐに彼も歩き出す。文乃が呼び止めるように口を開いた。
「私も——」
だがその言葉を、レオネルは振り返らずに遮った。
「文乃。お前は城に残れ」
その声音には、いつもの静けさではなく、鋭い命令の響きがあった。
「この件には貴族が絡んでいる可能性が高い。お前まで巻き込まれれば、次に狙われるのは——」
「でも、エマは私の……!」
文乃が叫ぶ。しかしレオネルは、その言葉を振り切るように背を向けた。
「命令だ、文乃。これは私達の仕事だ」
そう言い残して、足音だけを残し去っていった。
重苦しい沈黙。静かになった部屋で、文乃は拳を強く握りしめる。羊皮紙の上で、エマの笑顔が描かれたスケッチが揺れた。
「……命令なんて、知るもんですか」
彼女は椅子を蹴るように立ち上がると、肩掛けのバッグを掴み取る。中には羊皮紙の束。その瞳には、決意の炎が宿っていた。
「エマは私が見つける。どんな形でも——必ず」
夜風が窓から吹き込み、蝋燭の炎が揺れる。文乃は静かにフードを被ると、誰にも気づかれないように城を抜け出し、再び、エマが消えた城下町へと向かった——。
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